#1237 渋谷毅&仲野麻紀 Duo Live

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text by Haruka Kudo 工藤 遥

住所としては渋川市伊香保町ではなく北群馬郡吉岡町ということになるが、伊香保温泉街からそう遠くはないから「伊香保の」でいいだろう。今年4月に正式オープンした伊香保の「World Jazz Museum 21」は、盛岡の「穐吉敏子ジャズ・ミュージアム」(2022年10月オープン)、横浜の「ジャズ・ミュージアムちぐさ」(2023年3月オープン予定)と並んで東日本の「ジャズ・ミュージアム・トライアングル」の一角を成す。ジャズの歴史をきちんとアーカイヴしようという動きが近年日本各地で興っているのは、大変に嬉しいことである。

その伊香保のジャズ・ミュージアムで、10月1日から31日までの1ヶ月間、「ECM feat. Keith Jarrett 写真と資料展」が開催されること、そして期間中の9日には渋谷毅と仲野麻紀のデュオ・ライヴが行われることを知ったら、さすがにこれはどうにかして行かねばならないという気になってくる。どこに出かけるにしてもそれなりに移動時間がかかる埼玉西部に住む身としては、群馬までの道のりは都心以東、あるいは千葉や神奈川に出向くのと体感的にはさほど変わらない。えいやと腰を上げてJR武蔵野線で大宮まで行き、特急草津3号に乗ってぼーっとしていたらあっという間に群馬に入り渋川駅。そこからバスに揺られて20分、塔の辻停留所で下車。県道15号前橋伊香保線を歩いて下ると左に現れるのが「切り絵 緑の美術館」a.k.a「World Jazz Museum 21」である。南から伊香保を攻めるには誰しもが通る道ということもあって車の往来はままあり、途中「猫とび出し注意」の看板がやけに目に付くが、なるほど、たしかに視界の片隅で猫の親子が道路を闊歩していた。

少し早く着いたこともあり、まだ人はまばら。まずは「ECM feat. Keith Jarrett 写真と資料展」をじっくり鑑賞する。部屋に入るなり、昨年惜しくも亡くなった写真家ロベルト・マゾッティが1982年に製作したB判全紙サイズのカレンダーが、ようこそお越しくださいました、と出迎えてくれた。その横に設置された大きなテーブルには、ECM関連の書籍や資料が所狭しと並ぶ。顔をあげればL字型の広い部屋の壁一面に、キース・ジャレットとECM関連の貴重な写真がずらりと展示されている。ロベルト・マゾッティ、デイヴィッド・タン、清水一郎、田中達彦、米田泰久、石井隆、菅原光博など、ECMゆかりの写真家によるオリジナルプリントが一挙に集まる空間は、なかなか壮観だ。本展の企画は、かつてECMの日本窓口となっていたトリオ・レコードのプロデューサーを務め、つまりは日本にECMを普及させた張本人である稲岡邦彌によるものであるから、然もありなん、である。

ライヴ開始の時間が近づくにつれ、いつの間にか来場者の姿が増えてきた。渋川駅からここに来るためのバスは数時間に1本であるから、みなさん猫のとび出しに注意しながら車を運転して来たのだろう。はたして伊香保まで観に来る人がどれくらいいるだろうか、などと勝手な心配は全くの無用だった。なにしろ渋谷毅と仲野麻紀である。しかも媒介はECM。悪かろうはずがない。

演奏は仲野ソロ、渋谷ソロ、仲野+渋谷デュオの順。序盤ですぐに惹き込まれた。アルトサックスによるエリック・サティの「ジムノペディ」である。言うまでもなく、この曲はピアノのために書かれたものであるが、ピアノ不在のサックス・ソロで奏でるところに仲野麻紀の面目躍如といった感がある。サティの左手がサックスの倍音豊かな低音のラインとなってルーパーで反復され、右手は適度に抑制の効いた美しい音色の即興演奏に変わっている。原曲の味を壊さぬまま、軽やかに再構築された「ジムノペディ」である。

ピアノ独奏曲の両手をバラして一管二役のサックス独奏曲へ変容させること。これはきっと「旅する」過程でなされたものだろう。フランスにおいてpianoという言葉は、料理用語で「調理台」を意味するという。多くの人にとり調理台の存在は当たり前のものかもしれないが、少し視線を外に向ければ、調理台のない世界などいくらでもあることに気づく。手のひらの上で野菜を切ったり、囲炉裏で鍋をぐつぐつ煮たり。ピアノと調理台、音楽と料理をアナロジカルにつなぐ仲野の文化史観については、タイトルずばり「調理台で料理されないサティ」(『ユリイカ 総特集:エリック・サティの世界』所収)というテキストでその一端を垣間見ることができるので、ぜひ一読されたい。世界各地の音楽家と共演を重ねる「旅する音楽家」の宿命として、調理台=ピアノのない環境に身を置くこともまた当たり前のことなのだ。ここにおいて「自由」は、たとえばかつてのフリージャズ革命における音楽構造内のそれではなく、演奏者と楽器、共演者、聴衆との関係性を含めた空間の選択という意味において考えられている。つまり「調理台で料理されないサティ」を選択する自由は、「異文化」が接触する際の、ある種の作法なのだとも言える。

しばしば「異文化交流」などと軽々しく口に出してはみるものの、それは一朝一夕で完遂するものではない。まして音楽となると、「異文化」に触れるたびに、たとえばチューニングひとつとっても、音楽家自身の意識を都度さまざまな角度から問い直さなければならないことが、仲野の著書『旅する音楽』(せりか書房)を読むとよくわかる。「世界」と出会うたびに音楽は変わらざるを得ないのであり、別言すれば、音楽の変容は旅の痕跡に他ならないということだ。

サティ、ブルターニュ民謡、レバノンの歌手フェイルーズの曲、自作曲ほか、最後は宮城の民謡「大漁唄い込み」で締めくくる仲野ソロに続き、いよいよ渋谷毅によるピアノ・ソロ。いきなり最新作『カーラ・ブレイが好き!!』収録曲の「Lawns」で一気に空気が変わる。カーラ・ブレイのピアノのタッチは驚くほどに優しいが、渋谷のそれはさらに優しい。魅せよう、などという気はさらさらないのではないか。一人自宅で気の向くままにピアノを弾くように、飾るでもなく、奇を衒うでもなく、ジョニー・グリーン、ジョン・ルイス、板橋文夫、浅川マキ、自作曲まで、全てがスタンダードのように聴こえる。その手にかかれば全てがスタンダードになる演奏家が何人かいるが、紛れもなく渋谷はその一人だ。仲野が旅先に持ち運べなかった調理台が、今最高の料理人の前にある。十指の運動(または非-運動)によって立ち上がる世界があり、そもそもピアノという楽器は世界のミニチュアであると言ったのは誰だったか。

渋谷のピアノ・ソロに誰もがうっとり大満足したのは場の雰囲気からたしかに感じたが、続く仲野+渋谷デュオで演奏された曲目からも察せられるように、この日イニシアチブをとっていたのは明らかに仲野だった。冒頭の「ジムノペディ」を聴いた時点で確信したことだが、なにも難しく考える必要はない。ここまで来たらひたすら音楽に身を委ね、渋谷のピアノに手を引かれながら、仲野が辿ってきた旅の軌跡をただ感じ取るだけだ。デューク・エリントンやセロニアス・モンク、ミシェル・ルグランから西尾賢まで、まるでDJのように違和感なく世界が接続されていく。とりわけ耳を捉えて離さなかったのは、トルコ民謡「ウシュクダラ」。その昔、江利チエミが歌ったことで日本でも有名な曲である。これをジャズの文脈へ落とすことに意味がある。ここで仲野が手に取ったのはサックスではなくメタルクラリネットだった。このトルコ由来の珍しい楽器は、ユダヤ人のディアスポラの経路と無関係ではなく、つまり、旅人の傍らに楽器あり、という考えてみたら至極当然の史実を今一度思い出させてくれる。そして「ウシュクダラ」という曲もまた、もはや誰のものかわからない流浪の旋律であり、それが音楽家=楽器の移動の歴史と重なるわけだ。このとき渋谷は、おそらく右手しか使っていなかったはずで、メタルクラリネットによるドローンとメロディーの隙間に鍵盤をポツポツと打ち込み、まるでピアノがサントゥールに回帰するような調理法で応じていたのがこの日のハイライト。感動で打ち震えながら辺りを見回すと、キース・ジャレット、そして名だたるECM関連のアーティストたちのポートレイト写真が目に入ってきた。いいねえ、と今にも声が聞こえてきそうである。最高の空間。

思えばECMというレーベルは、コンテンポラリー・ミュージックとしてのジャズが持つ豊かさをいち早く掬い上げ、「アメリカ」だの「ヨーロッパ」だのといったせせこましい枠などはなから取っ払った革新的な作品を半世紀に渡り発信し続けている。つい先日、キース・ジャレットの2016年のライヴ録音『ボルドー・コンサート』もリリースされたばかりだ。「ECM feat. Keith Jarrett 写真と資料展」は他でもない、2018年に二度の脳卒中に倒れ、現在リハビリ中のキース・ジャレットに捧げられている。後遺症のために左手の自由が利かず、演奏活動に復帰する可能性もまだはっきりとはわからない。しかしすでに述べたように、音楽家の自由は左手の自由とは関係なく、楽器、共演者、聴衆との関係性を含めた空間の選択というかたちで達成されるものである。キース・ジャレットは生涯音楽家であるはずだ。まだ見ぬ自由を世界中が待っている。(文中敬称略)


工藤 遥 Haruka Kudo
1986年生まれ。音楽書を中心とした出版社「カンパニー社」代表。CDやレコード、本などを扱うオンラインショップ「p.minor」運営。訳書にジョン・コルベット『フリー・インプロヴィゼーション聴取の手引き』。

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