#1242 松本一哉 3rd album 『無常』リリース・ツアー
映画「UTURU」上映&ライブ・パフォーマンス

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text by Yoshiaki ONNYK Kinno 金野吉晃

2022年11月25日
岩手県公会堂21号室

1.<フィールド・レコーディング>という<サウンド・アート>

正直に告白しておくと、このライブまで、アーティスト松本一哉のことを全く知らなかった。主催者によれば、もう盛岡でも4回ライブしたという。つまり私の通常の探索域外で鑑賞されていた訳だ。このたった30万程度の都市でまだ知らない音楽コミュニティが多々ある。
友人に誘われてから当日までほとんど日が無く、多忙だったのでチラシをちょっと眺め、またネットの動画を一本見たくらいであった。
一応サウンド・スケープ、フィールド・レコーディング系の一人だろうと思い込んだ。実際それは外れてもいなかった。
私もそういうジャンルの作品は結構聴いて来た方だと自負していた。ただ、それこそヒーリング系とか、エコロジー、環境保全系の、どこか妙な匂いのするものもあり、なかなかサウンドそのものを評価できるものは少ない(私の持っているひとつは軍事目的に録音された。水中で多様な生物が発する音を聞き分ける為だった)。
また、これは過酷な環境、特殊な状況で狙った音響を録音するというのが、ある意味でサウンド・ハンティングとも言うべき世界だ。そして方法もバイノーラルとかホロフォニックとかのような特殊な方法も有る。
対象はといえば、まさに世界全てである。人間の群がっている祭礼や雑踏から、無人の風景、茫漠たる空間、風雨や波、水流、水中、氷河、噴火や地鳴り、果ては宇宙空間にまで及ぶ(大気の無い世界で音響?ありうるのだ。NASAやアルヴィン・ルシエの例が在る。宇宙空間を飛ぶ無数の素粒子の衝突を音響として聴ける)。
自然音だけでなく、機械音、各種乗り物や工場、あらゆる生物の出す音も対象となる。有名なのは鯨の歌だろう。
単に録音するだけではなく、幾つかの音源をミックスして実在しないサウンドスケープを「作曲」する例も有る。ビル・フォンタナや、リュック・フェラーリは有名である。
松本の作品で眼を引いたのは、洞窟の中でしたたる水滴によって小さな金属鍵を鳴らすというものだった。なるほどこれは音仙人、鈴木昭男的な繊細なセンスでもある。
今回のツアーは9年かけて製作したという彼のサード・アルバム『無常』の発売記念だという。この程度にして、とにかく松本のイメージを事前にあまり作らないでおこうと考えた。

それにしてもフィールド・レコーディングの人が、どういうライブ・パフォーマンスを聴かせてくれるのだろうか。

2.環境(アンビエント)と状況(シチュエーション)

この数日前、私は、同じ盛岡市で佐渡裕=シエナウィンド・アンサンブルの演奏を聴いた。お目当てはEMERSON, LAKE & PALMERの名作〈タルカス〉のウィンドアンサンブル・ヴァージョン(編曲は挟間美帆)だった。この大作は既に吉松隆の編曲でフルオーケストラ版が東京フィルで演奏され、話題になっていた。私が驚いたのは、KOKUUが尺八と箏だけでやったヴァージョンだった。未だ他にもピアノソロ版とかネット上に色々ある。
当日、岩手県民会館大ホールは二千人も入っただろうか。復興支援で何度も岩手に来ている佐渡の人気と、昨今のブラスバンド・ブームが拍車をかけている。聴衆に女子高生が多いのである。
しかし佐渡=シエナの〈タルカス〉は今ひとつだった。その理由などはここでは書かないでおこう。いずれ私が期待しすぎたということが大きい。

だからという訳でもないが、全く反対の環境で、ほぼ未知の音楽家の、ささやかな規模のライブに無心で赴いたのだ。
会場は、上記県民会館から道路を隔てた岩手県公会堂。この建物は昭和二年完成で、かつて県議会の議事堂でもあり、天皇が行幸した大演習ではバルコニーから閲兵もし、宿舎でもあった。
地域住民にはかなり親しまれ、集会や演劇、コンサートに使われて来た。設備こそ旧式だが大ホールもある。蛇足だが私はマックス・ローチをここで見た。
しかし今回の会場となった21号室は大ホールではない。そこは戦前、大食堂でもあり、ダンスホールでもあった。だからバンド用のアルコーヴとバルコニー状のでっぱりが、高い位置に作り付けられている。天井までは数メートルもあり、床面は人造石で硬い。両脇は高い窓があり、ガラスがはまっているが、長いカーテンで遮光できる。固定された椅子も舞台も無い。
これで想像できるだろうが、割にシンプルな箱であり、かなり音響は響く。だからPA無しで生音の演奏も十分に聞こえる。
からりと並べられた椅子に、客数は20人強。主催となった喫茶店の常連が中心だろう。知った顔は殆どない。年齢層は20代の後半から40代。私のような還暦を遥かに過ぎた者は違和感を覚える。
さて、上演は映画から始まった。

3. 映画「UTURU」:画像と音響

この映画は松本の盟友たる映像作家、今野裕一郎の作品「UTURU」である。
松本が知床半島にサウンド・ハンティングした際に同行して、その有様を自ら撮影、編集した50分弱の映像である。最小限のテロップが入るがナレーションは無い。サウンドは全てカメラのマイクで録音され、松本の録音したものではない。
それを知るまで、私は「フィールド・レコーディングとしては、なんと周辺ノイズの多い録音だろう」と半ば呆れていたのだが、松本は今野に自分の録音を渡しており、今野は敢えてそれを使わなかったという。松本はそれを評価している。その理由は後述する。これはこれで面白い関係だ。
撮影はほとんど立ち入り禁止の場所で行われている。結氷した湖面の上、泥火山、流氷の上、自然林の中、白鳥の飛来地など。驚くべき映像としては、干し首になった一頭の頭を、角に絡ませたまま歩き回るエゾジカの雄。
耳の人、松本は、眼の人、今野を許容した。いや、行為の証人=eyewitnessとして立ち会わせた。
松本にマイクがあるように、今野にはカメラがあり、彼等はそのツール、ギアーによって環境と関わろうとしている。
タイトル「UTURU」は、「その間」という意味のアイヌ語らしい。私にはその語で触発される物を感じなかったが、むしろ「ウツル」という日本語の響きで、何かが遷移して行くような印象は残った。
ただ、どうも気になるのは、こうしたドキュメンタリー映像でいつも感じることだ。それはカメラワークと編集だ。そこに今野が居るからこそ、POV映像として松本の姿は画像になっているのだが、撮影者が自分を消そうとするほど存在を感じる。
たとえば松本がある波打ち際までやってくる。遠景から彼の車が近づいて来て、一人で降りて録音準備をするシーンは、今野が先に撮影ポイントまで来ている訳だ。また、松本が一直線に伸びた道路の消失点に向かって車で去って行くシーンでは、後で松本が彼を回収に来る事を容易に想像させてしまう。同様のシーンは多々在る。
もはやこれはドキュメンタリーの文法になってしまっているのか。一体カメラの視線とは何か。観察者は物語作者や、神の眼のような特権的位置にあるのか。

故近藤等則の野外演奏ドキュメント映画「地球を吹く in Japan」をご覧になっただろうか。私は演奏シーンにどうしても拭いがたい違和感を持っていた。それは上述したような撮影や編集のあり方ではない。砂漠、荒野や山奥の寺社、あるいは波濤押し寄せる岸壁で熱演する近藤、それはさもありなんという姿だが、その演奏がかなり電子機器やアンプに依存したものになっていることだ。渓流と共演するかの様にトランペットを吹いている、その傍らには電子的デバイスが用意されている。つまりは電源もある。
だからダメだというのではないが、それに気づいたとき、興ざめというか、地球を吹くとか自然と対峙するというのとは違うような気がする。あれだけ電子的な音響にするならシンセサイザー演奏と大差ないのではないか。しかしシンセ奏者がそんなことをしても全く意味は違ってしまうだろう。
松本・今野の「UTURU」は近藤の音響への無造作と同じくらいに、撮影者という観察者を感じる。

上映後、二人のトークがあった。ここで興味深かったのは唯一点。
それは、今野が松本の提供したサウンド・データを一切使わなかったということだ。上映開始直後から、カメラのマイクによる、かなりノイズ混じりの録音が気になっていた。サウンド・アーティストのドキュメントには似つかわしく無いとも思った。しかし、松本の録音は彼の作品であり、何もそれを映像に沿わせる必要はないのだ。それを松本は今野の誠意だと言う。誠意かどうかは別に、余計な編集を極力しないという方針で製作された事は分かった。
少し長い休憩があって、松本のソロ・パフォーマンスが開始された。

4.ソロ演奏

松本一哉の演奏はパーカッション・ソロである。床に置かれた黒いボウル状の楽器は「波紋音」だと分かった。友人が所有していたので聴いた事がある。
鉄の造形家、斉藤鉄平が、一点ずつ手作りしているので同じ物が無い。希望者は彼の所に訪れて、あたかも牧場から動物を譲り受けるように選んで、購入するという。
形態は黒い植木鉢か、深いボウルのようだが、上面も一体の金属で塞がれている。が、その面にはあたかもひび割れたかの様に亀裂が入っている。それが多数の長さの違う弁の様になっているので、各弁を叩くとそれぞれが異なるピッチで美しく響く。
よくその音は「水琴窟」のようだと評される。しかし、楽器全体に響きが伝わるので、特定のピッチ以外に全体の音が混じった、ガムランやスティールドラムやハングドラムを思い出させる音色である。
この楽器の音色に魅せられた人は多々あり、それぞれに演奏を披露している。だが、音色が美しい楽器というのはともすれば、演奏者のセンスやテクニックはさておき、それだけで完結したような、発展性の無い音楽になってしまうものだ。あるいはまた素朴な楽器、伝統楽器でも同じような事は言える。
最も素朴な管楽器のひとつである尺八は、音を出すだけでも難しい。しかしその演奏はさらに難しい。ディジュリドゥでも口琴でも言える事だ。素朴な物は内在する可能性が実に深いのである。さて、松本はこの「波紋音」をどう使うのか。
また、目立つのは背後に置かれた直径1メートル以上あるような銅鑼、ゴングである。関心がそそられる。
照明が少し落とされて、会場全体が白暮の明度になると、松本は楽器を並べた中央から離れ、カーテンが引かれた窓際に歩み寄る。カーテンをあけ、窓の一つを開けたり締めたり、また掛け具を操作する。そして窓の外の空を眺めている。すると手に持った樹脂の球のついたマレットで窓を擦る。ガラスは極めて反応良く響く。
窓を離れ、会場内を歩き回る。空調の金属ボディを擦ったり、暖房のスチーム放熱器を叩いたりしている。何故かピアノには触れない。
そのうちに会場の外まで出て行ってしまった。戻って来るとようやく楽器群の真ん中に陣取る。
波紋音は、サイズの違うボウル形が三個あった。また小判型の違う金属打楽器もあり、小さな円盤状のものも。見た目は韓国のケンガリのようなものもある。またベンディールかダフと思しき枠太鼓が大小二つ。
松本は、枠太鼓を擦ったりして、いわゆる「叩く」という行為をあまりしない。そのうち小さな枠太鼓は床に転がし、その回転が止まるまでを見ている。
小さい円板で、大きい円板を押し付けたり、こすったりで、鋭い金属的余韻を響かせる。非常に間の多い時間が流れる。その間、今野は少しだけ照明を変えたりして、控えめに反応している。
そして松本は遂にゴングに向かい合う。これもまた樹脂マレットで擦る。円周に沿って一度こするとゴングからは、アタックの無い、極めて倍音の多い豊潤なノイズが溢れて来る。松本はそれを儀式の様に繰り返す。音響は次第に会場内に満ち、音に溺れるかのような錯覚を覚える。
同時に松本の一方の手は、ドラム用のブラシワイヤーをぐしゃぐしゃに曲げたもので、軽くゴングの面に触れる。するとゴングからは全く別の響きが飛び出して来る。それはじりじりとした火花の発生が連続するような音響だ。決して小さくは無い。ゴングを擦る手は時折、中央部を横断するような動きとなる。すると悲鳴のような響きがあがる。気がつけば松本の動きは相当に激しく、早い。
しばらくして次第にゴングの響きは減衰して来る。私も誰しも「ああ、そろそろ終わるのだ」と思ってしまっただろう。それほど音は空間にも脳裏にも充満していた。
そしてゴングは遂に沈黙した。と、同時に松本は小さな波紋音の二つの音だけを繰り返し叩きだした。それほど速い動きではない。
しかし執拗だ。終わったのではない、始まったのだ。次第に彼の両手は、大きい波紋音の一部もたたき出す。しかし音数は限られ、むしろ徹底的に僅かな繰り返しで、それだけで新たな次元を生み出そうというかのようだ。そしてまさにそれは起こった。ゴングで得たような音の波、響きの層が再びやってくる。ついに松本は一番大きな波紋音を蹴りとばし、転がるに任せる。
やっと、静寂が訪れた….のだろうか。松本は散歩でもするようにまた最初の窓に向かう。
だが、それでは終わらない。電子的なエコーのかかったカリンバのような音色が聞こえる。何というのかは知らないがそのようなデバイスを操作していたのだ。残念ながら私には冗長に思えたのだが。それが消えて行くと、ようやく演奏は終わったかのようだ。
しかし誰も拍手をしない。恐ろしいのだ。この緊張をこわしてしまうのが。松本は窓を開ける。冷ややかで新鮮な空気を吸い込んでいるように。そして彼は窓を閉めた。

5. 観察と比較

「序」における松本のセンスは、リ・タイシャ、ジェイミー・ミュアー、ル・カン・ニンあたりに近い様に感じた。アタックを散在させながら余韻を構成していく。会場のサイズや、周囲の硬質な素材は響きを重視する演奏には有利であり、会場がひとつの楽器〜共鳴体となっていた。
演奏の有り様が、「破」に、そして「急」になると、その怒濤の如き波動は、ロバート・ラットマン、フランク・ペリー、中谷達也らのそれに近くなる。あるいはまたゴングを延々と弓奏し続けたラ・モンテ・ヤングにも。いやマイケル・ランタならば松本のセンスに近いかもしれない。
しかし驚異的なのは、たったひとつのゴングから、あるいは二個の波紋音から、複合的な音響を持続的に生み出し、それが重なって、存在しない筈の旋律を聴かせてくる事だ。これはハリー・ベルトイアの自作音響彫刻の演奏や、クセナキスが「プレアデス」で用いた自作打楽器シクサンの合奏にも聴く事が出来る。この現象は音響によるモワレであり、ミニマリズムの齎す錯覚的なパターンであるとも言える。
もちろんテクニックが支えているのだが、強靭な集中力がこの効果を齎す。だが、私は彼の演奏に、さらなる特質を感じた。それは内省的な意識の横溢である。観念的に言えば、この内省こそが、演奏されていない旋律を生み出すのではないだろうか。
さらに言えば、フィールド・レコーディングという「聴く」松本と、ソロ・パフォーマンスという「奏でる」松本、この両者のレゾナンスがある。

6. いま、ここでおきていること

佐渡=シエナの、組織化された楽曲のアンサンブルの、大会場における演奏と、どこまでも単独者であろうとする即興演奏家の有様、これが同じ時期の日本に、東北にツアーしている事も興味深い。
前者が金融機関のサポートで、後者は喫茶店や小さな繋がりのなかで企画されたという商業行為、経済規模の差異も考えられる。
記譜され、調律され、訓練された、多くの聴衆の前で、常に再現性を求められ、穿った言い方をすれば、常に「感動を与える」ことを求められる演奏。そこに即興は許されない。はたまた大量の楽器群、人員の移動、宿泊…すなわち組織化された音楽のパフォーマンス。この対極に松本・今野の上演はある。
この対比。一つの社会における音楽の対比的様相は、同時に歴史の中で、社会の文脈のなかで、さらには集団と個の、表現の受容心理において、あるいは表現者〜芸術家の方法論とリアリティの幅を教えてくれた。

なんだかライブの印象が壊れそうで、私は松本の尋常ならざる執念の作品『無常』を買わなかった。しかし、今、やはり聴かなければならないという責務を感じている。(とりあえず了)


金野 "onnyk" 吉晃

Yoshiaki "onnyk" Kinno 1957年、盛岡生まれ、現在も同地に居住。即興演奏家、自主レーベルAllelopathy 主宰。盛岡でのライブ録音をCD化して発表。 1976年頃から、演奏を開始。第五列の名称で国内外に散在するアマチュア演奏家たちと郵便を通じてネットワークを形成する。 1982年、エヴァン・パーカーとの共演を皮切りに国内外の多数の演奏家と、盛岡でライブ企画を続ける。Allelopathyの他、Bishop records(東京)、Public Eyesore (USA) 等、英国、欧州の自主レーベルからもアルバム(vinyl, CD, CDR, cassetteで)をリリース。 共演者に、エヴァン・パーカー、バリー・ガイ、竹田賢一、ジョン・ゾーン、フレッド・フリス、豊住芳三郎他。

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