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Jazz and Far Beyond

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Concerts/Live ShowsNo. 300

#1253 植川縁,本田ヨシ子, 溝辺隼巳トリオ
Yukari Uekawa,Yoshiko Honda,Hayami Mizobe TRIO

text by Kotaro Noda 野田光太郎
photo by Ryoko Nagakubo 長久保涼子

2023年3月12日
会場・高円寺グッドマン

植川 縁 Yukari Uekawa (alto-sax, soprano-sax, suling)
本田ヨシ子 Yoshiko Honda  (voice)
溝辺隼巳 Hayami Mizobe (wood-bass)

アンダーグラウンドの現場から~
魔と聖が手に手を取って春の祭典を迎える

ライブハウスなどでオリジナルなヴォイス・パフォーマンスを繰り広げていた本田、今回はマイクを使わず生の声で臨む。フリージャズの伝統にしっかりと根を下ろした溝辺のベースは、最近いよいよ低音の深みを増して、特に弓弾きはベースに使われた木材が森林にいた頃の記憶を奏でているようだ。その響きに乗って本田は絹を引き裂くように甲高く、か細い、しかしビロードのようになめらかな声を紡ぎだす。それは夜空に見開かれた眼のような月を思わせる。現代音楽出身の植川はアルト・サックスの鳴りを圧し殺し、マウスピースの中で空気を破裂させ、アブクの湧き上がるようなサウンドを出す特殊奏法で、気配をうかがう。起こりくるすべてを受け止めるべく耳を澄ます植川の立ち姿は、仁王か天使のように堂々としている。それと対照的に本田は中空にまなざしをさまよわせながら両手を広げたり、首を振り、もだえるように身をそらしたりと、コケットリーなまでに自由奔放にふるまう。両者の間で溝辺はじっと目をつぶり、耳を澄まし、盲目の剣士のように楽器に身を傾け、一心不乱に音の振り子を動かし続ける。まさに三者三様の、音と一心同体となった姿態と動き。

本田は時には歌うように、時には何語ともわからない言葉で語りかけるようにと、変幻自在のふるまい。鏡の裏の世界から手を伸ばして夜のしじまをなでさするような声は、ふいに絞り上げられてしわがれたかすれ声へと変わり、また不可解なつぶやきへと沈みこむ。その声は聴く者の意識を幻惑し、何とも言い難い衝動をかきたてていく。溝辺は演奏の空間をデザインし、流れに傾斜をつけたり、高ぶりに拍車をかけたり、遠い呼び声のような音色でジグザグを描くなどして、ムードを変移させていく。その場その場に応じて身に着けてきた技法の数々を巧みに配していくさまは、献身的であり、演奏を推し進め、さらなる高みへと押し上げる創意工夫に満ちている。植川は全身をそばだててそれらの音を受け止め、クラシックの伝統がはぐくんだ澄み切った音色で、音階の微妙な上下、なめらかに震える波形、継ぎ目なく音を出し続けながら複数の音を同時に混ぜ合わせるなど、さまざまな技法に挑んでいく。そのサックスのサウンドは空気の厚みでやわらかに包み込むようでいて、芯に硬質な柱があり、一定のサイクルのパターンを繰り返しつつ、霧が立ち込めるように少しずつ変動されていく。

やがてベースのきりもみ状の動きにつれて、声とサックスはらせんを描くように上昇していき、融合ともせめぎあいとも違う、不思議な均衡を保ちながら中空を駆け巡っていく。ベースはうなりを立て、宵闇に火の粉を散らすように激しながら、波打つ軌跡を描いていく。凝縮された空間の中で震えながら撹拌されるサックスの音は、ついに燃焼へと至るが、やみくもに爆発することはなく、圧力で抑制されるように、静けさに封じ込められている。その火にあぶられるようにして本田の声は悶えるが、そのさまは至福とも苦悶ともつかない、名状不可能な境地を感じさせる。まるでローマにあるという「聖テレジアの法悦」の彫刻のように。

緊迫に満ちた30分のファーストセットが終わり、溝辺の提案で短いデュオを三回行う。まず溝辺と植川。ここは楽器同士による純粋に即物的なサウンドのやり取りで、植川はバランスへの配慮から解き放たれたように、ソプラノによる激しいアタックを繰り出す。溝辺は変幻自在のピチカートで間合いやタイミング、速度を操り、懐の深さを見せる。そこへ植川は急流の立てるしぶきのように、鋭角的な音のコラージュを思う存分に浴びせかける。この二人のデュオは二回目だが、前回と比べてそれぞれの音がさらに磨き上げられ、また互いのやることを即座に理解し、反応でき、以前よりも格段に深く演奏に沈潜するさまがうかがえた。すべてを性急に言いつくしてしまおうというような動的な植川のプレイが、溝辺のねばりつくような歌心を引き出す。両者の著しい成長ぶりがうかがわれる。

次は溝辺と本田。先ほどとは一転して、本田は童女の気まぐれな独り言や遊び歌のような天真爛漫さを発揮する。かと思えば老婆のようにつぶした声、また妖精のように美しく歌うなど、シアトリカルで百面相のようなプレイ。溝辺はあらゆる特殊奏法と想像力を動員して、そこに奇怪な情景を差し出す。飛び跳ねるように様相を変える二人の演奏は、イマジネーションの追いかけっこのようだ。セリフのないシュールなアニメーションのようでもある。

続いては本田と植川。なんと二人が実際ににじり寄って、文字通りぴたりと寄り添って演奏しだす。植川はソプラノを吹きながら声を出す奏法。二人が双生児のように並んで、ほほを寄せ合い、息を合わせて、同じタイミングで体を揺らす。しかしどこまでも異質な両者のサウンド、それがずれたり重なったり、近寄ったり遠ざかったりを繰り返す。こんなにまで視覚的に珍妙な形での二重奏は初めて見た。そんな打ち合わせがあったのか、なかったのかはともかく、コミカルな演出というだけでなく、互いに言葉ならざる言葉で相手の言うことを翻訳したり、会話したり、音楽という枠にとらわれず即興によるコミュニケーションを最大限試みるプレイ。そこから本田の日本的・アジア的なモチーフが提出され、どこかの村に伝わる古の儀式のような世界が繰り広げられたのには、驚かされた。

最後は再びトリオによる演奏。デュオにより互いのキャラクターを理解した上での、リラックスした雰囲気での演奏は、のびやかであり、植川が使うスリン(インドネシアの笛)が牧歌的なアジアの風を運び、ベースはうるわしくセレナーデを奏で、声は歓喜に飛び跳ねて機知をふりまく。やがてエネルギーの高揚は再び謎の儀式めいた世界を呼び出し、明暗の境が見分けられないような空間を現出させた。言葉ではいかんとも表しがたい、どこまでも広がる微光に包まれるような音響体験は、他に類を見ないもの。こればかりは実際に聴いてみてほしいとしか言いようがない。この日この時、この三人にしか生み出せない奇跡のような時間が、そこにはあった。

野田光太郎 

野田光太郎 Kohtaro Noda 1976年生まれ。フリーペーパー「勝手にぶんがく新聞」発行人。近年は即興演奏のミュージシャンと朗読家やダンサーの共演、歌手のライブを企画し、youtubeチャンネル「野田文庫」にて動画を公開中。インターネットのメディア・プラットフォーム「note」を利用した批評活動に注力している。文藝別人誌「扉のない鍵」第五号 (2021年)に寄稿。

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