#2361 『山猫トリオ(庄子勝治、植川 縁、テルピアノ[照内央晴])/ 闇を駆け抜ける猫たち Running through the darkness』
text by Kotaro Noda 野田光太郎
Wildcat House 008
山猫トリオ
Masaharu Shoji 庄子勝治 (sax)
Yukari Uekawa 植川縁 (sax)
Hisaharu Teruuchi [Terupiano] 照内央晴 [テルピアノ] (piano)
3匹の猫たちのインプロヴィゼーション
I
II
Recorded at Yamaneko-ken on March 4, 2023
Recording: Tatsuo Minami
Mastering: Masafumi Oda
Cover photography: Tomomi Fukagawa
Design: Yusuke Kawamura
Produce: Yamaneko Trio and Tatsuo Minami
Special thanks to: Kanako Makita, Naoto Yamagishi and Chiho Minami
あたかもフリージャズ全盛期を思わせるような激しい演奏に驚かされる。それも1トラック30分超が2トラックという長時間演奏で、そのかなりの部分がピアノから波状的に押し寄せる多種多様なトーンクラスターに覆われている。もっとも私は過去にセシル・テイラーの諸作品やムハール・リチャード・エイブラムズの『レヴェルス・アンド・ディグリーズ・オブ・ライト』などを体験しているわけで、形式の表面においては既知の音楽といえるのだが、その内実は現代にふさわしく新しいものになっている。
最初は点描的な、あたかも嵐の前の静けさといった調子で始まるのだが、ここでは二人のサックス奏者の異質さが目立つ。おそらく二人ともアルト・サックスで、庄子のやや上ずったピッチと濁ったトーン、書家の筆のように荒々しくのたうつフレージングは、あたかもアルバート・アイラーやジュゼッピ・ローガンのような初期のフリージャズの伝統を感じさせるし、植川のクリーンな音色と、ロングトーンを出しながら音程をリニアに細かく上下させる手法、微分積分を思わせる共鳴作用のメカニカルな精密さは、いかにも現代音楽由来のもので、従来のフリージャズ的インプロヴィゼーションには見られなかった発想だ。
しかし面白いのは、演奏が白熱していくにつれて両者の演奏スタイルが似かよっていき、あたかも見分けがつかないほどに入り交じったり、随所でフレーズの交換のようなことが起こってくるところだ。たとえば私は庄子の実際のプレイを一度だけ聴いたことがあるが、ここでの演奏はその時の印象とはやや異なり、ラウドでヘビーなだけでなく澄んだロングトーンも見せる。そういった場面では、演奏することの快楽をいったん脇へ置いて、あたかもサックスという楽器と自己との関係を純化しようとしているかのように感じる。
逆に植川のこれほどまでに荒々しい演奏を聴くことになるとは、彼女のライブに初めて接した2021年頃には予想もできなかったことだ。ひしゃげたような過剰な倍音や裏返ったような音をも駆使して、激しくむせび泣き叫ぶようなサウンドがちゅうちょなく用いられる。サックスの持つ機能性の限界に挑むような過激なプレイだ。にもかかわらず、フリージャズ的なサックスにありがちな野放図にヒステリックなノイズではない。注意深く聴けばわかるように、よく制御され、吟味された音色になっていて、イコライザーでもかけたように余分な響きは除去されている。いわば調律されたノイズなのだ。このようなアプローチは日本の即興シーンではきわめて珍しく、新鮮だ。
ここでの照内のピアノはリズミックな推進力ではなく、星雲状に濃淡を付けながら広がっていく空間的なサウンドで、その膨大なエネルギーの放出で二人のサックス奏者を背後から大きく包み込むように鼓舞しつつ、時には急降下するようにサックスとフレーズを交錯させ、演奏の行方に干渉していく。ライブ録音のため、ピアノの動向がすべてクリアに捉えられているわけではないのだが、それだけに現場での「鳴り具合」がビビッドに伝わってくる。けたたましく鳴り響きつつも、あくまで硬質で澄んだ音色。左右の手で同時に異なるテンポや音列を奏でることによるコラージュのような効果は、あたかもプリズムの乱反射を思わせ、それらが波紋状に拡がりうごめきながら、ケイレン的に集合離散を繰り返すさまは、なかなか形容しがたいが、リキッドライトによるライブ・ペインティングを、鍵盤をキャンバスに見立てて行っているようだと言ったらイメージできるだろうか。これまた明らかに現代音楽にルーツを持つサウンドである。そのバイタリティはすさまじく、ドラムやベースの役割をも兼ねていて、いわば一人オーケストラのごとき趣だ。
また演奏の盛り上がりから静寂へという局面の切り替わりにおいて、ピアノはドラマツルギーの鍵を握っている楽器でもあり、サックスの動静を察知しつつ、すばやくそれに対応していくあたりはさすがに経験豊富だ。またサックス陣もお互いが似通った方向で競り合いすぎて、飽和状態が予期できる際は、すばやく自己の特徴的な演奏へ立ち戻り、差異を際立たせることで局面の転換を図っている。すなわち、庄司のチャルメラのような甲高い音(ソプラニーノか?)や、植川の室内楽のような典雅なサウンドがそれである。
この三者による共演はさすがにトリオを名乗るだけあって、自然発生的でありながら不思議なほどに息があっている。特に合図を用いたりしなくてもお互いの状態や求めている先が見えているということだろうか。即興演奏の持つ身体性、感情の流露、それらの手綱をとる理性と意思の力、この三つがそろっていなければこうはいかない。その結果、壮烈でカオスティックな展開でありながら、黙示録的な破壊に沈滞することなく、あふれだす生命感と「祈り」にも似た光明をも予感させる音楽になっている。作為的に用意された「美しさ」やセンチメンタリズムではなく、せめぎあいや葛藤、「シーシュポスの神話」を思わせる果てしない回転運動を経たうえでの、不意に訪れる「免れ得ない帰結」としての澄明さが聴く者に覚醒を促す。
庄子勝治、植川縁、テルピアノ、照内 央晴、山猫トリオ