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特集『私のジャズ事始』

jazz et booze Eonta 1  市之瀬 浩盟

【序】
jazz et booze Eonta
1974 (昭和49)年3月26日、その店は開店した。
おいちゃん少年が小学校五年生になろうとしている時。その2年前の当時の流行歌に「ハチのムサシは死んだのさ」があった。テレビの歌番組で毎日見て聴いていたので、歌も振り付けも覚えて学校でみんなで踊りながら歌っていると、担任の先生が「おい、イッチ、この歌の意味わかるのか?」ときかれた。わかるかって、だってムサシって名前の蜂が太陽に向かって飛んでったんで熱で焼け死んだ。当たり前でしょと答えたら先生の笑い方がいつもと違っていた。当時のニュースの浅間山荘事件や連続企業爆破事件、テルアビブ空港乱射事件にも先生は触れて、「なんでこんなことが起こるかわかるか?原因は?」と問われたが理由などわからなかった。ただ、ニュースとかを見ていると幼児期から大好きだった怪獣もの、刑事アクション、サスペンスものなどのドラマとは全く異質な映像だということだけはわかった。
あの時はそういう歳、そんな時代だった。

【第一話】1974 – 1982
マスターの小林和樹氏 (以下敬称略) は当時21歳。生まれは静岡県三島市、中学生時代にエリック・ドルフィーの音に衝撃を受け、彼のジャズ人生が始まった。その後、長野県の麻績村 (現筑北村) にある母親の実家に移り、松本市内の高校に通った。卒業後大学進学を目指し上京したが当時の大学は大学紛争末期の混乱状態。大学は諦め、有名乳製品会社でバイトをしながらフランス語の専門学校に通う。そんな小林は以降の音楽人生を決定付けた店に出会っている。
オーディオ評論家の岩崎千明氏 (1928.12.2-1977.3.22) が経営していた中野のジャズ喫茶「JAZZ-O-DIO」である。(photo 1,2). 小林は岩崎の店に心底惚れ込み通い詰めた。そんな頃転機が訪れた。松本の友人から連絡が来る。松本市内にあった伝説の音楽喫茶「アミ」(xx年火災にて消失)でバイト募集があるので帰ってこないかと。岩崎のような店をやりたい。幸いにして資金や物件にも恵まれた小林は手持ちのオーディオ機器と300枚のLPレコード、岩崎の店と同じように床と壁は黒、そして壁には茶色のパンチカーペットを張り巡らせ、岩崎の意思を継ぐべくその舞台を整えた。

開店時のオーディオ機器はスピーカーがJBLの20cmフルレンジの定番であったLE8Tのプロ仕様2115(写真3)を平面バッフルに据えホーンの囲いを周りにつけた自作、そこに今現在も使ってるJBLツイーターの2405(写真4)を足した2WAY 。アンプはサンスイのAU666 (写真5)、ターンテーブルはマイクロで機種は不明であるがMR-611(写真6)あたりではと推察される。その後、松本市内の人から中古で念願のアルテックA7を購入、爾来同機は大きな故障にも遭わず今なおその筐体を、店内をそして訪れる者達の心を鳴らし続けている。
その後アンプはサンスイのAU9500(写真7)、プレイヤーはマイクロBX99(写真8)、サエクのアームにスタントンの針680EE(写真9)となりエオンタの黎明期が始まった。

「エオンタ」とは『存在する者たち』というギリシャ語からとっている。「言葉の響きが好きで」以前小林はそう語ってくれた。作家の金井美恵子の『愛の生活』の中に同名の作品がある。一度も訊ねはしなかったが絶対ここからとったに違いないとおいちゃん青年は思っていたが、お客さんに訊かれる度に小林は同国の現代音楽家のヤニス・クセナキスの代表作の名前を引き合いに出した。名前も曲名も全く知らなかった。小林のあの歳をしてこのバックグラウンドたるやこれはただものではないと憧れを遥かに超えたその先に生まれる嫉妬心のようなものをいつも感じてしまっていた。店名候補は他にはありましたか?と訊ねてもウゥーんと考え込んでいるばかりだったので、もうこれしかないと決め切っていたのであろう。開店日には店名入りのテント看板が据えらており、その佇まいは50年経った今も全く変わらない。(写真:口絵)

開店から遅れること7年、当時高3だったおいちゃん青年がこのエオンタを初めて訪れることになる。
当時ギター部にいた私はバンド仲間と一緒に下校後は行きつけの楽器屋に入り浸っていた。そこで知り合った他校の顔馴染みとコーヒー飲みに行こうということになり連れて行かされた店がエオンタであった。店に上がる階段口から早くも何やら楽曲が聴こえる。狭い階段を上がるに連れてその音は大きくなっていき、入り口の戸を開けると爆音が響いているではないか⁈カウンターに座ったがどんな音楽がかかっていたかは全く覚えていない、というか脳内まで全く届いていなかった。そしてお店にいたその時感じたことはたった三つ。
「暗い」
「黒い」
そして
「出されたコーヒーがとてつもなく香り高く美味かった!」
この三つだけであった。

pic 1

階段を上がって入り口の戸を開け入ると、左側にはスピーカーが鎮座した「私語厳禁」の黒い部屋、右側はカウンターはじめテーブル席が数席あるおしゃべり可能な空間、そんな区分けがされている。少しでも話をしたい客は入り口から右側のカウンターとテーブル席に向かうことになる。いちばん奥のテーブル席は4人程度は座れ、南にあたる壁面にある小窓から日中は辛うじて陽光がさしこんでいた。(pic 1)

とにかく暗く隣にいる客もよくわからなかった。初めて味わう感覚だったので周りの人はさながら”つげ義春”の漫画のような雰囲気で皆無言不動でそして真っ黒い色で石像みたいに佇んでいるような雰囲気が私にはあった。

注文を受けるとキャニスター缶からコーヒー豆をはかりの上に置かれた容器に定量になるまで豆一粒の出し入れで正確に計り、ミル挽きをする。ミルで挽かれた粉を受けるカップは開店当初から使われているジュラルミン製のカップ(photo 11)、登山用品店で買ったそうだ。ペーパーフィルターに移す前に慣らすなめに必ずカウンターテーブルの角に2、3回コツンこつんと当てるのでそこだけ凹んでいる。サーバーに少しお湯を注いでからドリッパーにゆっくりとお湯がそそがるる。最初

photo 11

の蒸らしの時に少し多めに入れるのだろうサーバーに滴下したほんの少しの分はそのまま捨てらる。アク味を抜きたいのだそうだ。その後も手際のいい動作で適量を抽出して最後にマドラーでほんの一口テイスティングをし、問題がなければカップに注がれソーサーに乗せられ客に出される。この一連の流れるような動作は今でも全く変わらない。
レギュラーコーヒーは当時はチモトコーヒーのフレンチロースト豆。これが「フレンチコーヒー」。深煎りの濃いコーヒーなので同量の豆で抽出量の多い「薄いフレンチ」があった。他には京都のイノダコーヒーの豆を「ジャーマンコーヒー」といって使っていた。紅茶はティーパックなどもちろん使わず新宿高野のものを、ココアも粉を雪平鍋でしっかり溶いていた。
ソフトドリンクは瓶コーラ・レモンスライス添え、トマトジュースにはレモンスライスに加えブラックペッパーミルとタバスコの小瓶が添えられた。
フードメニューは近所のパン屋のライ麦パンがメインに使われた。ゴーダチーズを敷いた上にピーマン、玉ねぎスライスそれとオリーブの実をスライスして散らしその上からトマトジュースを適量振り掛けてからトースターで焼いた「ピザトースト」、チーズだけの「チーズトースト」、輪切りにしたパンを素焼きしてからワイヤーカッターでスライスされたクリームチーズとブルーベリージャムを挟んだサンドイッチなど皆絶品であった。
開店当初のフレンチコーヒーの値段はマスターは忘れてしまったらしいが、どうやら¥250だったらしい。我々が通い出した頃は¥280だった。当時の喫茶店にはどこにでもあった常連さん向けのコーヒーチケット綴りも何人分かツル下がっていたがそのうちになくなってしまった。
マッチはお得用の箱マッチ。赤と黒の2種類の丸いスチールホーロー製灰皿と一緒に所々に置かれていた。
オリジナルの「店マッチ」ももちろんずっと考えていたようだが費用がかかり過ぎて諦めたそうだ。
お酒のメニューは行司役のビールはキリンラガーの中瓶、ホワイトが平幕レギュラーでその上に三役陣でブラックニッカ。おいちゃんの記憶では大関にダルマ、横綱にバランタインがあったような気がしていたんだがマスターにはそんな高い酒はあの頃は置けなかったと否定されたので勘違いだったかもしれない。そのかわりスミノフウォッカ、ストロワヤやズブロッカ、スタルカ、ジンも常時冷やして置いてあった。酒呑のためのアテにとツナサラダやオイルサーディンなどもあった。

高校時代には高三からなので数えるほどしか行っていないが翌年の地元の予備校に通った浪人時代にはずいぶん通った。だがマスターと会話などとてもかわせず。「こんにちは、フレンチを、ご馳走様、ありがとう」でいつも小一時間で帰っていた。今日もよく見る人いるなと感じるようになった頃から少しずつ会話をし始めた。ジャズは誰が好き?と問われたがまだ正直王道者はほとんど聴いていなかった。中学時代に陽水〜ビートルズ〜ハードロック〜プログレ〜フュージョンと来ていたので答えられるわけがなかったが、この前来た時に店の本棚にあった「ジャズ批評」のギタリスト特集号でプリズムの和田アキラが寄稿していたのを読んだ後で自分も当時から大好きだったので「アラン・ホールズワースってギタリストご存知ですか?」と返したら「あっ、あの人面白いよねぇ、あるよ、かけようか」といってゴードン・ベックとのデュオの「All The Things You See」(JMS09)を、次に行った日にはそこにJ.F. ジェニー・クラークとアルド・ロマーノが加わった「Sunbird」(JMS07)をかけてくれた。そこで一気にお店の音が自分の中に響き出してきた。飾ってあるジャケットを見に行ってJ.F.ジェニー・クラークの名前を知った。私にとっていまでも生涯一最強最高のベーシストである。ここからどんどんとおいちゃん青年専用のヨーロッパ・リアルタイム・ジャズミュージシャン相関図が構築されていくこととなった。

その後おいちゃん青年は現役組に遅れること一年でなんとか都内の大学に入学できた。その年の11月にはあの伝説の「六本木WAVE」が開店した。
現役時の受験で上京した際はディスクユニオンを見つけてしまい、合格通知を持って帰るはずがレコードを10枚程持って帰ってしまった親不孝者であるおいちゃん青年の東京での狂喜乱舞振りと帰省した際のエオンタとの様子などを交えた10年を次回お伝えしようと目論んでおります。

追記
この度の寄稿文作成にあたり開店当時の様子を快くまた思い出深く語っていただいたマスターの小林和樹氏に深く深く感謝いたします。
また当時の様子やオーディオ機器の回顧録と店内の手描きの平面図作成には同じくエオンタ常連の大久保哲郎氏のお力を賜った。お気づきの方もいらっしゃるだろう。このjazztokyo誌には「ローテツ画伯」として錚々たる著者陣の似顔絵を作成、ライル・メイズに捧げた渾身の追悼文、それに小野健彦氏の連載エッセイ「Live after Live」の口絵もものしている。今回の寄稿文作成に際し手描きの平面図が欲しいと打電したところ、わすが10分足らずで書き上げてくれた。この場をお借りして感謝の意を表したい。
なお本文中に記した音楽喫茶「アミ」はしばらく閉店状態が続いていた中、周囲の火災の貰い火で全焼している。私も実際に間近で目撃しているがいつの事だったか記憶が曖昧で調べたが分からなかったことをお詫びしたい。

市之瀬浩盟

長野県松本市生まれ、育ち。市之瀬ミシン商会三代目。松本市老舗ジャズ喫茶「エオンタ」OB。大人のヨーロッパ・ジャズを好む。ECMと福助にこだわるコレクションを続けている。1999年、ポール・ブレイによる松本市でのソロ・コンサートの際、ブレイを愛車BMWで会場からホテルまで送り届けた思い出がある。

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