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ある音楽プロデューサーの軌跡 稲岡邦弥No. 324

ある音楽プロデューサーの軌跡 #59「杉田誠一との仕事」

text by Kenny Inaoka 稲岡邦彌

杉田誠一との最初の仕事は女優・沖山秀子のヴォーカル・アルバムの制作だった。1981年8月のことである。杉田とは70年代初頭、雑誌『Jazz』の編集長として、あるいはカメラマンとしての付き合いはあった。
81年の春頃のことだったと思うがカセットテープを携えて六本木の事務所に現れた。あるメジャーに沖山秀子のデビュー・アルバムの企画をドタキャンされた。彼女はすでにその気になっているのでなんとか実現してやってほしいということだった。トリオレコードでは、76年に峰純子、77年に酒井俊という個性派女性ヴォーカリストをデビューさせていたので、その流れで受けることにした。選曲は沖山のレパートリーの中から、編曲は酒井で実績を残した渋谷毅に一任することになった。それから1週間後、また杉田がオフィスに現れた。沖山の生地、沖永良部島に撮影に行きたいという。レコード会社としてはインディとはいえ、“オーディオ御三家”の一事業部、それほど短時間での予算化は不可能。考えあぐねた末、自分のカードを貸した。彼らはカードで航空券を買い、滞在に関わるすべての費用をまかなって帰ってきた。数日後追いかけるようにドレスの請求書が届いた。海水に浸かって使い物にならなくなったということだった。
杉田から久しぶりに連絡があったのは2017年の中頃だった。自ら経営するジャズ・バー「Bitches Brew for hipsters only」が10周年を迎えるのでゲストにアンソニー・ブラクストンを招きたいという。アンソニーとは1972年の訪日以来となる。アンソニーの同意を得られないまま10周年記念コンサートが大倉山記念館で行われ、纐纈雅代(現・纐纈之雅代)のアルト・ソロに注目する。チャーリー・パーカーをきっちり吹き上げていた。纐纈はその後も「Bitches Brew」を道場としソロ演奏に研鑽し、海外からの猛者練とも共演を重ね、昨年録音のアルバム『如意ン棒/すべて流れ星のせい』に結実した。杉田が亡くなった9月9日に纐纈と山崎比呂志の阿部薫追悼演奏を聴いたのがアルバム制作のきっかけになったのも不思議な縁を感じる。杉田に聴かせられなかったのは返す返すも無念ではあるが。
その後、杉田の店には誘われるままに何度も足を運ぶことになる。店のPRも兼ね、      「JAZZ meets 杉田誠一」のタイトルで当誌にエッセイの連載を始めたのはいつだったか。励みの意味もあり単行本化の予定も伝えていた。同時代を生きたミュージシャンや音楽人の訃報に接すると催促を待たずに原稿が上がる。但し、昔ながらのペラ(200字詰め原稿用紙)に2Bの鉛筆書き。FAXで送ってもらったり、ご機嫌伺いを兼ねて受け取りに出かけたり。データ化は写真を含めてすべて引き受けざるを得なかった。

2018年11月、リトアニアからリューダス・モツクーナスの来日に際しては4夜にわたる初めてのレジデンシーを敢行。リューダスからの共演希望を除いては、ふたりでキャスティングを考えた。浦邊雅祥 (as)、坂田明 (as,cl) 、林栄一(as,ss)、纐纈雅代(as)、大友良英(g)、梅津和時 (as, b-cl)と錚々たる面子が揃った。翌年、リューダスからライヴ録音のCD化の話が飛び込んできた時は驚いた。アクションの大きい浦邊雅祥のアルトがマイクから外れ収録されなかった無念を除き初レジデンシーの成果が『リューダス・モツクーナス/イン・レジデンシー・アット・ビッチェズ・ブリュー』として母国リトアニアのNoBusiness Recordsからリリースされた。
BBは、白楽という不利なロケーション、20人も入れば満杯という手狭なスペースだが、翌19年11月、カナダのモントリオールからアルトのフランソワ・キャリリールを迎えて2度目のレジデンシーを敢行する。ふたりが選んだ3日間の共演者は、出演順に 纐纈雅代 (as)、 不破大輔 (bs)、大由鬼山 (野性尺八)、香村かをり(韓国伝統打楽器)。この時の記録もフランソワが1枚のCD用にまとめてあり、再来日に備えて発売のチャンスを窺っている。
2022年10月、リューダス・モツクーナスがトリオで訪日したが、関東圏のツアーの中でやはりBBは外さなかった。この時は体調を崩し参加できなかったが、リューダスがユーモラスな追悼文を寄せている。

Screenshot

さて、本来のカメラマンとしての仕事である。最初のジャケット写真は、アンソニー・ブラクストンの『Town Hall 1972』(Nadja 1972)。違法入国のため千葉で蟄居中のアンソニーを撮影したもので、漆黒の中にアンソニーの両眼だけが浮かんでいる。杉田の代表作の1枚として写真集『JAZZ幻視行』の表紙にも使われている。2作目はピアニスト、デイヴ・バレルのソロ・アルバム『Only Me』で、録音場所のイイノホールで撮影。3作目は中村達也のNY録音『Song of Pat』(1976)。九十九里浜のロケで中村のクォーター・ドラムを撮った。1976年にはピアニスト加古隆の『パッサージュ』(Trio)も。アート・サンサンブル・オブ・シカゴの『マンデルホール・コンサート」。これはトリオレコードが音源をAECから買い取ったためジャケットも制作した。アートワークは杉田の当時の彼女がAECのロゴを刺繍、それを杉田が撮影した。「混迷と萌芽の60年代」シリーズには、ジム・ヤングの『パズル・ボックス』の表紙にサンフランシスコのケーブルカー。このシリーズではライナーにはオーネット・コールマンの『パリ・コンサート』の中ジャケ。中ジャケでは他に、藤井郷子の『ダブル・テイク』、菊地雅章の『ドリーマシン』、六大シリーズなど。
菊地雅章 (Pooさん)といえば杉田とは60年代からの付き合い。「結婚式でPooさんにピアノを弾いてもらったのは俺くらいだろう」が自慢の種だった。1986年、Pooさんが映画『ケニー』のサウンドトラック作曲の依頼を受けた時、Pooさんの希望で杉田をNYに呼び寄せることになった。定宿だったグラマシーパーク・ホテルから毎日のようにクルマでブルックリンのPooさんのスタジオに通ったものだ。時にはセントラル・パークに寄ってギル・エヴァンスをピックアップすることもあった。Pooさんは作曲を嫌い、気の赴くままにピアノでメロディを紡ぎ、カセットからギルが目ぼしいメロディを拾い出し、アシスタントのマリア・ジュナイダーに採譜させるという作業が続いた。Pooさんの目を盗んでMOMAに駆け付けふたりでパウル・クレーの大回顧展を楽しんだこともある。電話帳のように大部のカタログを数冊買い込んだ杉田の革鞄の取っ手が抜けたという笑い話も今となっては懐かしい思い出である。
杉田は他人の家を訪ねるのが趣味で編集長時代は自ら原稿取りに歩いたという。呑むとよく訪ねた家の話を披露してくれる。他人の家のことなどさして興味はないのだが話し出すと止まらない。横浜の拙宅にも数回顔を出した。そのくせ自分の家には人を寄せ付けない。僕が初めて杉田の鶴見の実家に足を踏み入れたのは数年前。街中で倒れ救急搬送された病院から呼び出された。鍵を預かり財布を取りに入ったのだが足の踏み場もない状態で探し出すのに苦労した。おそらく2階の書斎はきちんと整理されていたのだろうが。
唯一、心残りは著作集『失われたジャズを求めて』の刊行が間に合わなかったことだ。原稿を揃え、データ化し、残すは「あとがき」だけだった。母親の目の黒いうちにと励んだのが、母親はおろか本人が手にすることもできなかった。糖尿は治ったと酒を呑んんでいたが、病状は進行していたのだ。幸い版元の理解を得て今年の命日の前後には刊行できる見通しが立った。刊行記念には写真展とゆかりのミュージシャンによるライヴ演奏で祝う予定を立てている。(文中敬称略)

稲岡邦彌

稲岡邦彌 Kenny Inaoka 兵庫県伊丹市生まれ。1967年早大政経卒。2004年創刊以来Jazz Tokyo編集長。音楽プロデューサーとして「Nadja 21」レーベル主宰。著書に『新版 ECMの真実』(カンパニー社)、編著に『増補改訂版 ECM catalog』(東京キララ社)『及川公生のサウンド・レシピ』(ユニコム)、共著に『ジャズCDの名盤』(文春新書)。2021年度「日本ジャズ音楽協会」会長賞受賞。

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