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Jazz à la Mode 竹村洋子No. 262

ジャズ・ア・ラ・モード #30 キャブ・キャロウェイの燕尾服、ホワイト・テイルコート

30.Cab Calloway in swallow tailcoat
text by Yoko Takemura 竹村洋子
photos: Used by permission of the University of Missouri-Kansas City Libraries, Dr. Kenneth J. LaBudde Department of Special Collections, Library of Congress-William Gottlieb Collection, “50 Jazz Greats From Heaven (阿部克自著,1995)”, Pinterestより引用。

#261のコラム、ルイ・ジョーダンに負けず劣らず楽しいキャラクターの、ビッグバンドファンなら誰もが知っているだろうキャブ・キャロウェイ。大ヒットした<ミニー・ザ・ミューチャー:Minnie the Moocher 1931年>のコーラス部分の「ハイディ、ハイディ、ハイディホー」というフレーズから『ハイディホー・マン: Hi-de-ho Man』というニックネームでも知られるシンガーでバンドリーダー。響き渡るバリトンヴォイス、独特なスキャット、オーバーアクションのダンスを交えたキャロウェイのパフォーマンスは『エンターテインメントの神髄』とも言えるだろう。

キャブ・キャロウェイ(Cabel Calloway III: 1907年12月25日~1994年11月18日)はニューヨーク州ロチェスターで弁護士の父と教師でありオルガン奏者である母の元に生まれる。両親はキャブの才能を見抜き、5歳の時には歌の個人レッスンを受けさせる。子供の頃はボルチモアで育ち、ジャズクラブにも出入りするようになる。そこでドラマーのチック・ウェッブと出会い、指導を受ける。ハイスクール卒業後、ペンシルベニア州のリンカーン大学に進学するが、ミュージシャンとしてのキャリアを優先して中退する。

プロとしてのキャリアはシカゴでシンガー&ダンサーとして1930年頃に始め、徐々に成功を収めていく。その後ニューヨークへ活動の場を移し、1931~1932年にツアー中だったデューク・エリントンに代わりニューヨークの『コットンクラブ』に出演する機会を得、クラブのハウスオーケストラとして人気を博し、全国ツアーをもするようになった。当時、NBCが『コットンクラブ』での演奏をラジオで生放送したこともあり、キャロウェイのバンド『The Missourians』の人気は高まって行った。キャロウェイはビング・クロスビーの番組にも出演した。このラジオ出演はデューク・エリントンと共にキャブ・キャロウェイがアメリカのメジャーネットワークで人種の壁を打ち破ったことを意味する。

1930~40に於いてキャロウェイのバンドは、彼の明るく外交的なキャラクターによるパフォーマンスにより、大恐慌下に於いてもアメリカ合衆国で最も成功し最大級の人気を誇った。バンドのメンバーにはチュー・ベリー、ベン・ウェブスター、ミルト・ヒントン、コージー・コール、ディジー・ガレスピーなど多くの優秀なミュージシャン達がおり、数多くのレコーディングを残している。

1931年に<ミニー・ザ・ミューチャー:Minnie the Moocher (邦題:お嬢ミニー)>を録音。ミニーは女性の名前。ミューチャーは、タカリ屋、といったような意味で、ジャンキーで蓮っ葉な女性のことを唄った歌。この曲は『ベティ・ブープ』の短編アニメ『Minnie the Moocher (原題):ベティの家出(邦題)』で採用された。アニメの中では、当時最新のロトスコープの技術により、キャロウェイは歌の出演に加えアニメの中でダンスを披露している。そして映画の公開と自身のコンサートの時期を合わせ、更なる成功を収めた。現在ではコンピューター・グラフィックで簡単に制作できるだろうが、このヴィデオ・クリップは非常に楽しく面白いので、読者の皆さんには是非見て頂きたい。(添付のYou-tubeクリップ 5:00 あたりから)

キャロウェイのグループは1934年にヨーロッパツアーにも出かけ、この頃からいくつかのミュージカルや映画にも出演し始める。ハリウッド映画に黒人がまともな役で出演することが殆どできなかった時代に黒人の最高峰のパフォーマー、シンガーが出演した作品として知られている『Stormy Weather:1943』、ガーシュインのオペラ『Porgy and Bess:1952年』。スティーブ・マックイーン主演の『Cincinati Kid :1965年』、『Hello, Dolly! 1967年』、晩年には『The Blues Brothers:1980』、『セサミ・ストリート』にも出演し、若年層にも支持された。出演映画15本、ミュージカル5本に及ぶ。

キャブ・キャロウェイのプライベート・コレクションは1976年、ボストン・ユニヴァーシティに寄付された。2008年にグラミー賞の『特別功労賞生涯業績賞(Life Achievement Award)』を受賞、殿堂入りしている。
1988年、81歳の時に来日し、東京、横浜、神戸で公演を行なっている。この時、写真家の故阿部克自氏による素晴らしい写真が残されているので、このコラムで使用させて頂くことにした。

キャブ・キャロウェイといえば誰もがステージ上で燕尾服を着て歌い踊る姿を想像するだろう。

この燕尾服は男性の礼服とされている。『フロックコート(註)』も含めて上着の後部は腰を覆い、裾が燕の尾のようなスタイルなので、『テイルコート(tailcoat)』または『イヴニング・テイルコート(evening tailcoat)』とも呼ばれることが多い。デザイン的には、18世紀にイギリスで流行した乗馬服に起因する。乗馬の際に裾が鞍の上でもたつかないように長いコートのフロント裾をカットし、バックの裾にスリットを入れたスタイルで、それが昼と夜の正装というスタイルに進化した。
註)フロックコート:“フロック”とは上着の意味。英国ヴィクトリア王朝時代に着用された男性の昼間の礼服。基本はダブルブレストで色はブラック。丈は膝が隠れるくらい長い。フロックコートはその後、テイルコートに取って代わられて行った。現在ではシングルブレストの物や淡いグレーはじめ色物を結婚式で新郎が着る場面が見られることもある。

燕尾服については、欧米では昼と夜の礼服は明確に区別されており、モーニング・コート(昼の正礼装)とイヴニング・テイルコート(夜の正礼装)の2種類がある。日本は欧米に比べるとフォーマルな場面が少ないせいか、モーニング・コートとイヴニング・テイルコートとを混同している人が多いが、いくつかの違いがある。燕尾服にそれぞれ組み合わせるアイテムにも決まり事があり、そのルールに沿ってスタイルが構成される。

モーニング・コートは昼の正礼装のこと。結婚式、内閣総理大臣が宮中行事に参列したり、日本の内閣メンバーが組閣後行う認証式で着用したりする。上着は裾がフロントからバックにかけてカーブを描くように丸くカットされ、バックはテイルコート・スタイル。シングルブレストで襟はピークドラペル。上着とベストはブラック(ベストはシルバーや淡いグレイでも可)。ウィングカラー(立ち襟)またはレギュラー襟のホワイトシャツ。ブラックもしくはホワイトベースのレジメンタルタイ。コールパンツと呼ばれる縞のパンツをコーディネートするスリーピースが基本。

イヴニング・テイルコートは夜の正礼装で、オーケストラの指揮者、晩餐会、舞踏会、ノーベル賞授賞式でも見ることができる。上着のフロントはウエスト部分でカットされており、バックはテイルコート・スタイル。襟はピークドラペルで光沢のあるサテン地。ウィングカラーのイカ胸シャツ(燕尾服着用の際、胸の真ん中に勲章をしっかり止めるために、芯地を入れて糊で固めた“胸当て”を作り、シャツの上から首の後で結んで前に垂らした形状から日本のシャツ職人達に「いか」と呼ばれ、一般にも「イカ胸」の名が定着した。)パンツは上着と同素材で側章のついたもので裾はシングル。ホワイトのベストにホワイトの蝶ネクタイ、サスペンダー、ポケットチーフもホワイト。ドレスコードは『ホワイトタイ』と呼ばれ、現在では男性の最上級の礼服とされている。
素材はモーニング・コート、イヴニング・テイルコート共にカシミア、ウーステッド(組織が密な軽めのウール地)、ドスキン(目のつんだビロードのような光沢をもつ織物)などが用いられる。

キャロウェイのテイルコートについて注目すべきは、上から下まで真っ白な装いという事だ。男性の『全身ホワイト』というフォーマルなスタイルは存在しない。特に初期のキャブ・キャロウェイのものは、ピカピカに光沢のあるサテン素材を使い、デザイン的にも正式な燕尾服とは異なる部分がかなりある。ベストやジャケットの襟や裾を変形させたデザインだったり、太いベルトを締めたり、おそらくステージ衣装であることを意識し、デフォルメしてデザインされたものだろう。

そもそも何故、キャブ・キャロウェイがホワイトの燕尾服を着るようになったのだろうか?

1940年当時のバンドリーダー達の殆どはブラックのモーニング・コートかタキシード姿だった。デューク・エリントンやアール・ハインズ、ライオネル・ハンプトンなどが上下ホワイトのスーツやタキシードをよく着てはいたが、ホワイト・テイルコートではない。
全身ホワイトのテイルコートを着ていたのは、キャロウェイ以外殆どいない。キャロウェイは1940年代当時、流行ったズート・スーツやタキシード、ごくカジュアルなスーツ姿に於いても洗練された着こなしをしており、非常にダンディな人だった。そして晩年に至っても、自身のショウなど人前に出る特別な場面では必ず、『ホワイトのテイルコート』だった。このホワイト・テイルコートを着ると即座にスイッチがONになったように、エネルギッシュにステージ上で唄い、踊りまくり、バンドの指揮を取る。ホワイト・テイルコートはキャロウェイの『勝負服』のようだ。

アメリカは、第1次世界大戦後の1920年代は非常に華やかな時代だった。1920~1930年代のアメリカでは『白(ホワイト)』の服を着ることが人種や職業を問わず大流行した。F.スコット・フィッツジェラルド原作の映画『華麗なるギャツビー(1974)』では繁栄するアメリカ上流社会の様子をよく描いている。主演のロバート・レッドフォードが真っ白なスーツで登場する場面がある。若い頃のキャブ・キャロウェイはそんな最先端の流行に一早く飛びついた一人であるかもしれない。

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映画『華麗なるギャツビー』より。1974年。ロバート・レッドフォード演じるホワイトスーツのジェイ・ギャツビー。

キャロウェイが活躍し始めたのは1930年代に入ってからで、この時代、ジャズ・ミュージシャン達の多くはまだ大衆芸人の域を出ていなかった。しかし、『Kansas City Jazz, A history From Ragtime to Be_bop』の著者チャック・へディックス氏によると、キャブ・キャロウェイはショウビジネスが著しく繁栄していたカンザス・シティではプレイ・モア・ボールルームやエル・トレオン・ボールルームにも出演し、白人、黒人と人種を問わず大人気を博していたようだ。

キャブ・キャロウェイは非常に裕福な家庭に生まれた。インテリジェンス溢れ、大成功を収めた偉大なエンターテイナーである。彼のホワイト・テイルコート姿は、元は白人のフォーマルウエアだった燕尾服のコピーでありながら、彼自身が白人に媚びることも、迎合することなく創り出した極めてユニークなスタイルと言えるだろう。

元々、正装というのは、相手をリスペクトする意味もある。キャロウェイは全身ホワイトの燕尾服姿を観客に見せ、人種を問わず観客を如何に愉しませ喜ばせるかという事を常に考え、純粋にユニークなパフォーマンスを楽しんでいたと想像する。まさに『エンターテインメントの真髄』たる所以だろう。

<Stormy Weather>1943

<Minnie the Moocher: Betty Boop>1931

<Minnie the Moocher >映画『Blues Brothers』より1980

*参考文献

BIG BAND JAZZ by Albert McCARTHY :1983
Jazz A History of American Music by Geoffrey C.Ward & Ken Burns: 2000
Big Band Jazz : by Albert McCarthy:1974

竹村洋子

竹村 洋子 Yoko Takemura 桑沢デザイン専修学校卒業後、ファッション・マーケティングの仕事に携わる。1996年より、NY、シカゴ、デトロイト、カンザス・シティを中心にアメリカのローカル・ジャズミュージシャン達と交流を深め、現在に至る。主として ミュージシャン間のコーディネーション、プロモーションを行う。Kansas City Jazz Ambassador 会員。KAWADE夢ムック『チャーリー・パーカー~モダン・ジャズの創造主』(2014)に寄稿。Kansas City Jazz Ambassador 誌『JAM』に2016年から不定期に寄稿。

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