ジャズ・ア・ラ・モード #38 ジョン・コルトレーンの半袖シャツ
#38 ジョン・コルトレーンの半袖シャツ
38. John Coltrane in half sleeve shirts
text and illustration by Yoko Takemura 竹村洋子
photos : Pinterestより引用
ジョン・コルトレーン(John William Coltrane, 1926年9月23日 – 1967年7月17日)。ジャズ・シーンにおいて、チャーリー・パーカー亡き後、最も革新的で多くのミュージシャンに影響を及ぼしていると言われるサキソフォーン奏者。
人種差別の激しいノースキャロライナ州、ハムレットという小さな町で生まれ、その後ハイポイントに移り育つ。両祖父共に聖職者で、祖父母、両親、叔父、叔母、従兄弟が一緒という大家族で音楽と信仰が身近にある環境で育った。1938年、父親、叔母、祖父母が数か月以内に亡くなり、母親と従兄弟に育てられた。この頃音楽に目覚め始め、13歳でクラリネットを、15歳位の頃、母親が買ってくれたアルト・サックスを始める。
ハイスクールを卒業した1943年、フィラデルフィアに移る。働きながら音楽を続けていくつもりだったが、母親がプライベート・レッスンを受けさせてくれた。フィラデルフィアのオーンスタイン音楽学校のグラノフ・スタジオで学ぶが、ハワイの海軍に従軍しなければならず1945年~’46年の間、音楽を学ぶことができなくなる。
1946年に除隊後、正式にプロとして活動を始め、ジミー・ヒース、ハワード・マギー、ディジー・ガレスピー、アール・ボスティックやリズム&ブルースのミュージシャン達とバンドを組み、演奏活動を転々としていた。1953年頃、ジョニー・ホッジスのバンドに参加以後テナー・サックスに転向した。
1955年にマイルス・デイヴィス・クインテットに加わったが、それ以前から関わっていたドラッグやアルコール依存などの問題で、マイルスのバンドから解雇される。
その後、施設にも医療機関にも頼らずフィラデルフィアの自宅で、自力でドラッグを断つ決意をし、激しい禁断症状を体験しながらもドラッグ中毒を克服した。
1957年にセロニアス・モンクのカルテットに短期に参加。モンクから多くを学び影響を受ける。同年、初のリーダー・アルバム『コルトレーン』をレコーディング。
1958年、モンクの元を離れ、再びマイルスのバンドに戻る。キャノンボール・アダレイ、ビル・エヴァンス、ポール・チェンバース等と活動。『カインド・オブ・ブルー』のレコーディングに参加。同時に『ジャイアント・ステップス』をレコーディングする。
この頃から、自身が作曲した楽曲を世に送り出す機会を増やし、自身がリードをとるレコーディング・セッションを重ねていった。
1960年にマイルスのバンドを離れる。マッコイ・タイナー、エルヴィン・ジョーンズ、ジミー・ギャリソン等と活動。ソプラノ・サックスも演奏し始め、ソプラノ・サックスによる1961年の<マイ・フェイヴァリット・シングス>はコルトレーンの大ヒット曲となる。スタジオ・セッションも多くなり、オリジナル作品なども含めジャズ界を引っ張るテナー・サックス奏者として注目され始める。1961年にエリック・ドルフィーがバンドに加わる。
1960年代の中頃にはますます過激な演奏スタイルになっていき、音楽的にも豊かに、よりスピリチュアルになっていく。この頃からメンバーも頻繁に変え、ファラオ・サンダース、ラシッド・アリや後に妻となるアリス・コルトレーン他、多くのアフリカ音楽のインスピレーションを受けたミュージシャン達と活動を共にするようになり、フリー・ジャズにも取り組み始める。1964年、アルバム『至上の愛』、1965年『アセッション』を発表。
1967年、肝臓癌で永眠。享年40。
コルトレーンはジャズシーンの第一線で活動したのは僅か10年余りの短い期間であったが、エネルギッシュでアグレッシヴな演奏は『神格化されたジャズ界の聖人』といったイメージを定着させ、アルバムに換算して200枚を超える録音をも残している。
ジョン・コルトレーンのファッションを語るのも、チャーリー・パーカーのファッションを語る以上に難しい。
コルトレーンは音楽以外の事に全く興味がなかった。全ての興味を犠牲にして音楽に取り組んだ。友人だったジミー・ヒースは、「彼は夏にはショート・パンツを履いていた。クーラーのない安いアパートで暑い夏を過ごすのには、それが一番だったんだ。彼は汗だくになりながら、毎日練習をしていたよ。私の知る限り、あの頃彼ほど練習しているやつはいなかった。」と言っている。
「マイルス・デイヴィスは常に服装に気を使い、極めてお洒落だった。また、マイルスと一緒に活動をしていた頃、当時の正統的なジャズグループ同様、彼らも正装してステージに立っていた。とりわけマイルスは身だしなみにうるさく、彼はハーヴァード・スクエアのアンドーヴァー・ショップで誂えた見栄えの良いツイードのスーツを着ていた。コルトレーンは服装にあまり関心がなかった。彼の様子は真面目そのものだった。鳥のように細身のマイルスと違って、彼の体格はがっちりしており、ゆったりとした上着のダーク・スーツを着て細身のネクタイを巻いていた。彼には少しもキリッとしたところがなかった。彼の関心は奥深く広がる内面性にあり、表面的なものには興味はなかった。」と『ジョン・コルトレーン』の著者ベン・ラトリフ氏は書いている。
因みに、マイルスとコルトレーンは1926年生まれの同い歳である。
1950~1960年代半ばのコルトレーンのファッションを片っ端から見直してみたが、やはりどれを見ても『クール』とは程遠い 。背も高く、体格は確かにがっしりとしているが締まりが無い。ドラッグによる健康状態の悪さも影響していたかもしれない。また、ドラッグ中毒克服後も、コルトレーンには『過食』という悪習があった様で、それが原因で締まりのない太った体型になってしまったのかもしれない。
タキシードを着れば馬子にも衣装で、それなりには見えるが、タキシードにはルール違反のボタンダウン・シャツを平気で着てしまう人なのだ。
それでも人は何かこだわりがあるものだ。好き嫌いと言うべきだろうか?
実はコルトレーンも当時は大流行したアイビー・ルックの波に乗ったミュージシャンの一人だった。本人がアイビー・ルックを意識してきていたかどうかは大いに疑問だが。スーツ姿はお世辞にも素敵とは言い難い。ノーネクタイでジャケットからシャツの襟をだらしなく出している姿がとても多い。
夏場のファッションはカジュアルなアイビー・ルックがそこそこ格好良く見える。
コルトレーンのポロシャツ姿はアルバム『ブルー・トレーン』のアルバム・カバーでも見られるように、トレードマークと言ってもおかしくない程よく着ていた。演奏をする際、コットンの伸縮性があるジャージー素材のポロシャツは動き易かったからだろう。ただこのポロシャツには、袖口にはリブもついておらず、ブランド品ではなく、あまり質が良い物とは思えない。
ポロシャツ以外には当時のメンズ・ファッションの定番的コーディネートの布帛シャツ&パンツといったスタイルが多かった。半袖シャツはクーラーのない暑い夏を過ごすのには、一番快適だったからだけの理由からかもしれないが、ホワイト・シャツも好きだったようで、スタジオで撮られた写真に見られるホワイト・シャツ姿には、清潔感がある。
特に興味を惹かれたのが、半袖のチェック柄のシャツ姿だ。チェックでも様々な柄があるが、コルトレーンが特に好んで着ていたのは、マドラス・チェック。他にはギンガム・チェックの様な細かいチェック柄やトーン・オン・トーン柄。マドラス・チェックはアイビー・ルックには欠かせない柄だ。
半袖シャツは1950年代以前は下着の一つでもあった。当時は男性はジャケット着用が当たり前であり、半袖のドレスシャツはあり得なかった。話はそれるが、クラーク・ゲーブル主演の名画『或る夜の出来事(1934)』でシャツを脱いだら、下に何も来ていなかった姿に当時の日本人の観客は驚いた。
1950年代に入り、若者がファッション・リーダーとなり始めたと共にカジュアル・ファッションが台頭。それまで下着だったTシャツや長袖シャツが下着から外着として定着し始めた。その後、半袖シャツは柄物も増えますますポピュラーになり、やがてビジネス・シャツとしても着用されるようになった。
マドラス・チェックは本来、インドの南東部で生産された手紡ぎ、手織りの綿素材。最初、貧しい地元の労働者達の衣料用に使われていた。17世紀、英国東インド会社がインドから欧米へ紹介。これが、エキゾチックな夏用のシャツ地として注目を浴び、インディア・マドラス・コットンと命名された 。インディア・マドラス・コットンがメンズ・ファッション・シーンでポピュラーになり始めたのは1920年代。アメリカでは1818年創業のボタンダウン・シャツを考案した、アメリカン・トラッド・ファッションの老舗ブルックス・ブラザースが1902年に取り上げている。
ギンガム・チェックは、地色が白に、格子色は一色で構成され、縦横とも同じ太さの縞模様でできたシンプルな定番格子柄。
トーン・オン・トーン・チェック柄とは、同じ色相(同系統の色)で明度差を変化させた配色のチェック柄。落ち着いた配色で、シャツには多く使われる格子柄。
コルトレーンは半袖のチェック柄のシャツを夏場に好んで着ていた。どの写真を見ても、大きな体にピチピチかダボダボで、ちょっと野暮ったいがコルトレーンらしく似合っている。マイルスが着ていたブルックス・ブラザースやアンドーヴァー・ショップといったブランド物ではなく、ポロシャツ同様、どこか安物カジュアル・ショップで購入したものだろう。コルトレーンにとってのファッションは演奏がし易ければ何でもOK!だったのだろう。
それでも、この時代らしく装っているのがなんとも微笑ましく、こんな姿をみると額に皺を寄せて神がかったパフォーマンスをする、複雑で気難しいイメージのコルトレーンがとても身近に感じられる。
ファッションとは不思議なものだ。
尚、数ヶ月前からこのコラムのアイ・キャッチ写真を私自身が描いた拙いイラストに変えた。コルトレーンを描くのは非常に難しかった。白黒写真を見て鉛筆で描き、水彩で着色しているのだが、コルトレーンのイラストを描き終わった時、シャツの合わせを右上に間違って描いてしまった事に気づいた。最初から描き直そうかとも思ったのだが、ひょっとしたら婦人物を着てるかもしれない・・・アメリカはレディスでも大きなサイズは沢山ある。コルトレーンだったらそんなことも気にしないかもしれない。コルトレーンのファンには大変申し訳ないが、そんな冗談のような話があってもいいのではないかと思い、右上打ち合わせのままにしておいた。
<My Favorite Thing>1965
*参考文献
・『ジョン・コルトレーン 私は聖者になりたい』ベン・ラトリフ著(川嶋文丸翻訳)
・映画『コルトレーンを追いかけて: Chasing Coltrane』a film by John Scheinfeld
・The New Grove Dictionary of Jazz