カウント・ベイシー<愛さずにはいられない> 上野 勉
1960年代中頃、広島の片田舎で高校生活を過ごしていた私にジャズは無縁だった。映画や雑誌を通じての知識として気になる存在ではあったものの、親しむ機会に恵まれることはなかった。それが身近になったのは大学進学で上京した1966年以降のことである。
大学入学後、キャンパスでの強引な勧誘に負けて入部したのは応援団ブラスバンドだった。楽器経験のなかった私でも構わないという言葉に心が動いた。練習の間もなく始まった春の六大学野球、毎週末の神宮球場が手にしたトロンボーンのトレーニング場だったが、何とか校歌や応援歌について行けるようになったころにはリーグ戦も終わり、何とこのシーズンは10数年ぶりの優勝だった。
勝手なもので少し楽器が吹けるようになるともっと違う曲をやって見たくなり、目に入ったのがビッグバンド・ジャズだった。このバンドでベースを弾いていた同じクラスの友人に誘われ、やっとの思いでブラスバンドを抜け出した私はこのビッグバンドに参加した。
結成間もなかったこのビッグバンドは、レパートリーの拡大に腐心していた。当時、学生バンドの間で絶対的なアイドルはカウント・ベイシーだった。私の参加したバンドも例外ではなく、最初に取り上げたのはクインシー・ジョーンズがアレンジして大ヒットした『ジス・タイム・バイ・ベイシー』(リプリーズ)の中からレイ・チャールズの歌唱で大ヒットした“愛さずにはいられない”のカヴァー・ヴァージョンだった。5サックス、4トロンボーン。4トランペットにピアノ、ギター、ベース、ドラムスの4リズムで演奏されるアンサンブル、それをバックにしたアドリブなど、すべてが新鮮でたちまちそのサウンドの虜になった。ここからベイシー漬けの日々が始まった。『オン・マイ・ウェイ・アンド・シャウティング・アゲイン』、『ベイシー・イン・ロンドン』(共にヴァーヴ)など、LPの溝が擦り切れるほど聴き込んだものだ。
このバンドでの経験を重ねるにつれ、やがて自分の楽器演奏における才能の限界に気付くことになった。しかし共に時間を過ごしてきた仲間たちを思うとそのままバンドを去りがたく、MCとして裏方でバンドを支えようと心に決めた。それにもまして、そのままジャズと疎遠になることが耐え難かったのだ。
卒業後、縁あってレコード会社に就職した私は、やがて洋楽部のディレクターとしてジャズに関わるようになった。当初は契約先の海外レーベルの作品を日本に紹介する業務だったが、1974年には『サド・ジョーンズ=メル・ルイス・ジャズ・オーケストラ/ライヴ・イン・トーキヨー』をプロデュースする機会に恵まれ、以来国内外多くのミュージシャンを録音する機会を得た。1986年、ベイシー没後にフランク・フォスターが継承したバンドの『ロング・リヴ・ザ・チーフ/カウント・ベイシー・オーケストラ』(DENON)が、現時点で私最後のプロデュース作品というのも何かの縁を感じずにはいられない。
あの学生時代の混沌とした日々がなければ、もしあのバンドに参加していなかったら私の生涯はすっかり別のものだったであろう。
現役を退いて久しい私に、カウント・ベイシーの自叙伝『グッド・モーニング・ブルース』翻訳の機会が与えられた。ベイシーで始まった私のジャズは、どこまでもカウント・ベイシーだと言わざるを得ない。
上野 勉(うえの・つとむ)
1947年、広島県広島市生まれ。
1970年、立教大学文学部卒業後、日本コロムビア(株)入社、洋楽部にてジャズを担当。カウント・ベイシーを始めを始め国内外のジャズ・アーティストを録音制作、またルーレット・レーベルのベイシー作品など多くの海外ジャズ・レーベル作品を国内に紹介。その後コンパクトディスクが市場に導入されるや貿易部に移動し、同社の豊富なデジタル音源を使用したCDの海外販売に従事。
訳書に、スタンリー・ダンス著『カウント・ベイシーの世界』(スイングジャーナル社)、アラン・モーガン著『カウント・ベイシー』(音楽之友社)、バーネット・ジェイムス著『コールマン・ホーキンズ』(音楽之友社刊)。近刊予定に『カウント・ベイシー自伝〜グッド・モーニング・ブルース』(ロメロ出版)。