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特集『私のジャズ事始』

ジャズに触れるきっかけはテレビ 岡本勝壽

私たちの世代の多くは、「ジャズ」に触れるきっかけとして「テレビ」による影響をモロに受けている。「視覚」と「聴覚」から享受する「情報量」は、膨大なもので物心がついた子供にとっては、羅針盤を持たずに大海原に投げ出されたようなものだ。

私は、「テレビ」の本放送が開始された1953年に生まれた。
この年1月にジューン・クリスティ、11月JATP (Jazz At The Philharmonic)、12月ルイ・アームストロング楽団が来日し、日本各地で演奏活動を行った。メモリアル・イヤーに生まれたことを密かに自慢に思っているが、1960年代のジャズ演奏をホールで聴いた先輩たちを羨ましく思う世代の一人だ。

戦後、日本のジャズ・ブームは、長続きせず、この頃を境に下火になっていっていく。
下火のジャズ界に「救世主」が現れた。1954年、「マネジメントに専念し、ジャズの火を燃え続けさせる」と宣言したジャズ・ベーシストの渡辺晋だ。仙台を拠点に「オリエンタル芸能社」の看板を掲げた「オリエンタル芸能社(マナセプロ)」の長女として家業を手伝っていた曲直瀬美佐が、渡辺晋と「渡辺プロダクション」を立ち上げたのは、1955年だった。

渡辺晋は、演奏家から実業家に転身し、我が国の「ショー・ビジネス」を「エンターテインメント・ビジネス」に発展させた功労者と呼ばれるようになる。
「ブッキング」のみに留まらず、アーチストの「プロモーション」、「権利の保護」、「映画」、「テレビ」の世界にも進出し、渡辺プロダクションをビジネス王国に築き上げた。
「名プロデューサー」渡辺晋と呼ばれる所以はここにあるようだ。

私は、父の仕事先の都合で生後、間もなく蒲田(東京)から横浜に移り住んだが、海あり、山あり、田んぼあり。父の社宅(能見台)の向かいには、数多くのプロ野球選手を輩出している「名門高校」のグランドがあった。
この時、日本芸能界の大スターの名前を耳にした。
ある家にたどり着くと「ここが美空ひばりちゃんのお家(うち)だよ。」と父の声。「美空ひばり?」と聞き返す私。そのやりとりが、記憶の片隅に残っている。

我が家の茶の間にテレビが鎮座したのは、母親の実家がある仙台に一家そろって転居し、小学校に入学して暫くたってからのことだった。
お隣で「パン屋」を営む親せきの家に「テレビ」が届いたというニュースが瞬く間に広まった。
「日本プロレス中継」を視聴するため、ご近所から沢山の人が「パン屋」の茶の間に詰めかけると力道山の試合を今やおそしと待ち望んで観戦した。
力道山とフレッド・ブラッシーの対戦をテレビで観ていた二人がショック死したことをご存知の方は多いと思う。昭和37年(1962年)4月27日の出来事だ。
仙台の「パン屋」でもある事件が起きた。座敷に詰めかけていたご婦人が、興奮のあまり、目の前でテレビ観戦していた男性の右肩に咬みついたのだという。
この一戦から間もなくして、私の家にもテレビが到着したのだ。
エノケン(榎本健一)、柳澤愼一、ジャズ三人娘(美空ひばり、江利チエミ、雪村いづみ)、ハナ肇とクレイジーキャッツ、ザ・ピーナッツ、坂本九、ジェリー藤尾、中村八大・・。
1960年代は、テレビが娯楽の王様だった。
テレビCM「渡辺のジュースの素」の「あ~ら、おや、まあ・・」で始まる歌詞。「うちのテレビにゃ色がない・・」で始まる三洋電機のエノケンの唄声は、亡くなった父親が好んで歌っていた曲だった。

考えてみれば1960年代は、日本の高度経済成長が始まった頃で、共働きの両親、祖父、祖母、私たち兄弟が「卓袱台」に揃ったことなど少なかった。
それでも「しゃぼん玉ホリデー」が放映される日時には、家族全員が「卓袱台」に揃った記憶がある。 「ハナ肇とザ・ピーナッツ」のおかゆコントは、我が一家のお気に入りだった。
「おとっつあん、おかゆができたわよ(娘役のザ・ピーナッツ)」「いつもすまないねえ。ごほ、ごほっ(父親役のハナ肇)」
ハナ肇さんに一度だけお会いした。1985年1月末の東一番町だった。
少し、お疲れ気味のハナさんだったが、握手していただき記念写真に応じてくださった。

身近に「ジャズ」に明るい名伯楽が居れば話は別だが、私は「ワタナベクロダクション」、「マナセプロ」所属スターや「エノケン」「ジャズ三人娘」にテレビ番組で触れ、「ジャズ」に近付くことができた。
「夢であいましょう(1961年スタート)」「シャボン玉ホリデー(同年スタート)」は、一家だんらんの楽しかった思い出になっている。
放送作家のことに触れると話が長くなるので別の機会にしたいが、当時は、生放送、生演奏、一発撮りの番組が多かった。
着飾った華やかな歌手のバックで正装で固め、演奏するオーケストラ、ジャズ・バンド演奏の迫力に圧倒された。格好いいと感じた。

10代の終わり(1970年代始め)にジャズ喫茶の門を叩くようになり、「名伯楽」に巡り合うことができた。海外の一流ジャズマンが「楽都仙台」にやってきていた時代だ。
老朽化のため取り壊しと移転が決まった『宮城県民会館』で生れて初めてジャズの生演奏に触れ、市内レコード屋さん、ジャズ喫茶で店員さん、マスター、ママさんから「ジャズ」のいろはを学ぶようになった。市内レコード店のお姉さん、おじさん。ジャズ喫茶「ad’」の徳川正男さん、「JAZZ&NOW」中村邦雄さん、「バー裏町」の佐藤さん。上京した際に大木俊之助さん、中平穂積さんは、どんなにお忙しい時でも時間をさいてくださった。良い出会いだったと感謝している。
「スイングジャーナル誌」、「jazz (ジャズピープル社)」を「バイブル」のように貪るように読んでいた時代が懐かしい。


fbt

岡本勝壽(おかもとかつじゅ)

東京大田区生まれ。仙台育ち。幼少時にエノケン(榎本健一)、ジャズ三人娘(美空ひばり・江利チエミ・雪村いづみ)や彼女たちをバックで鼓舞するジャズ・バンドの演奏に魅かれる。
楽都仙台をベースに半世紀余り「ジャズ巨人達」の生演奏に触れる。
宮城芸術文化館理事(気仙沼市)、近代仙台研究会会員。
オーディオ仲間とレコード鑑賞会とジャズ・ライヴを企画開催(仙台良音俱楽部会長)
(展示企画)「楽都仙台と日本のジャズ史展(2019ー2024)」実行委員会委員長
(映像作品)ドキュメンタリー「楽都仙台と日本のジャズ史」2022年
〃     「楽都仙台と日本のジャズ史(特別編)」2024年
楽都仙台と日本のジャズ史制作委員会委員長
(寄稿)
・ドキュメンタリー「楽都仙台と日本のジャズ史(藤崎)」DVD作品ライナー
・ジャズ批評誌(Vol.107)「チェットベイカー特集号」ほか
(近著)
・「仙台ジャズ物語 楽都仙台と日本のジャズ史」(金港堂)2023年3月31日初版
・「仙台ジャズ物語 楽都仙台と日本のジャズ史」(金港堂)2023年4月12日第2刷
(出版協力)
・「Memory’s Jazz concert  60 years 石塚孝夫著」   2019年8月11日刊行

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