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ニューヨーク・シーン最新ライヴ・レポート&リリース情報Jazz Right NowInterviewsNo. 236

連載第27回 ニューヨーク・シーン最新ライヴ・レポート&リリース情報 ジェレマイア・サイマーマン・インタビュー

interviewed by シスコ・ブラッドリー (Cisco Bradley)
(Jazz Right Now http://jazzrightnow.com/
photo taken by Anjie Cho
translated by 齊藤聡 (Akira Saito)

クラリネット奏者、インプロヴァイザー、サウンド・アーティストのジェレマイア・サイマーマン Jeremiah Cymermanは、この10年でニューヨークの即興音楽シーンにおけるキーマンとして登場してきた。彼の仕事においては、インプロヴィゼーション、エレクトロニクスの操作による創作、ソロやアンサンブルでのさまざまな作曲的アプローチに関心を示してきた。その中では、ジョン・ゾーン John Zorn、トビー・ドライヴァー Toby Driver、マリオ・ディアス・デ・レオン Mario Diaz de Leon、ブライアン・チェイス Brian Chase、クリストファー・ホフマン Christopher Hoffman、エヴァン・パーカー Evan Parker、ネイト・ウーリー Nate Wooley、ジョシュア・ルビン Joshua Rubin、アンソニー・コールマン Anthony Coleman、マシュー・ウェルチ Matthew Welchらと密に仕事をしている。彼のアルバムは、Tzadikや、自身のレーベルの5049 Recordsなどから出ている。彼はポッドキャストのシリーズにおいて、仲間のミュージシャンたちにインタビューを行っており、百近い同時代人に光を当てるとともに、ニューヨークをはじめとする即興音楽のアーカイヴ形成に大きく貢献している。

サイマーマンのグループBloodmistは、最近、『Chaos of Memory』(ダウンロードのみ)を出したばかりである。また2017年10月6日にはH0L0において初ライヴを行っている。

ブラッドリー(以下B): どのような経緯でアーティスト・ミュージシャンになったのでしょうか。

サイマーマン(以下C): 最初の楽器はエレクトリックベースでした。家系の中で私が唯一のミュージシャンです。いとこもおばもおじも。私以外の誰も楽器を演奏しません。私にとって、音楽はいつも逃避先でした。リスナーとして、です。

演奏しはじめるのとまったく同じ時期に、録音にも没入しました。13歳のときに母親が4トラックを買ってくれて、そのあとすぐに最初のベースを手に入れました。それで、私の音楽やサウンド制作の最初のコンセプトは、本質的には、音響のアイデアを提示するだけでなく、音楽のダイアローグ自体においてそれが何の役割を果たすかというものなのです。私は本当に若い時にテープ作品を作り始めたのですが、それは、録音した音楽の世界において私自身を隔離することが、私の存在にとって絶対的に必要であり続けたからでした。このふたつはつねに明確につながっていました。録音する音楽と演奏する音楽とを別々のものとして見る人も多いと思いますが、私にとっては同じものです。

B: あなたにとって深く個人的な体験だったようですね。

C: まったくです。音楽とは、音楽に人生を捧げる人や、音楽に中心的な意味を見出す人のためのものだと思います。

B: 最初のころに夢中になった特定のアーティストはいましたか。

C: はいそれはもう。いまでもそうですよ。小さいころ、たぶん4、5歳のころです。ララージ Laraajiをご存じでしょうか。とても、とても重要なアーティストです。彼はエレクトロニック・ミュージックにおいて即興を行うだけでなく、インドの楽器によって、ヘルメス的・神秘的な数々のレンズを通してもいるのです。実は、私が小さいころ、ベビーシッターをしてくれたのです。私はニューヨーク北部の僧院で育ち、周りにはたくさんのシタールやタブラがありました。母親は、何というか、ニューエイジやワールドミュージックのイヴェントに関わっていて、それで私も早いうちからミッキー・ハート Mickey Hartやジミー・クリフ Jimmy Cliffらと一緒にコンサートに行ったりしていたのです。そんなわけで、それらが初期の音楽体験として私にとって大事でしたし、いまでもそうです。それから十代のころに本当に没入した音楽は違ってきていて、メタルやハードコア。デッド・ケネディーズ&サークル・ジャークス Dead Kennedys & Circle Jerksや、セパルトゥラ&スレイヤー Sepultura & Slayerといったバンドです。

それから、いつもそうだったのですが次第に薄れてきていること。本当に特別なアーティストだと思うと、たぶん入れ込みすぎてしまって、英雄崇拝のようになってしまいました。もうそのことに気づきましたし、今ではほとんどないのですが、確実に、何人かのアーティストは私にとって本当に人生の一部と言えるくらい重要でした。ビースティ・ボーイズ Beastie Boysとか、アルバート・アイラー Albert Aylerとか……。もっと最近、この15~20年では、エヴァン・パーカー Evan Parker、ジミー・ジュフリー Jimmy Giuffre、ジョン・ゾーン John Zorn、ジェルジュ・リゲティ György Ligeti、モートン・フェルドマン Morton Feldman、ザ・メルヴィンス the Melvins、リー・コニッツ Lee Konitz、レスター・ヤング Lester Young、ジョン・コルトレーン John Coltraneといったアーティスト。長い時間をかけて聴き、彼らから、本当に可能な限りのものを吸収しようとしました。最近では、多くのインスピレーションを得るアーティストは自分の仲間たちです。ネイト・ウーリー Nate Wooley、チャーリー・ルッカー Charlie Looker、マリオ・ディアス・デ・レオン Mario Diaz de Leon、トビー・ドライヴァー Toby Driver、ピーター・エヴァンス Peter Evans、マット・バウダー Matt Bauder、ブライアン・チェイス Brian Chase、他にもまだまだ……。

B: エレクトリックベースから演奏しはじめたのでしたね。すぐに次の楽器に持ち替えたのでしょうか。

C: はい。家族の誰もミュージシャンではなかったのですが、奇妙なことにそれで十分でした。家の中には小さな木製のインドの笛や、ジャンベ、ダラブッカ、フレームドラムなどさまざまなパーカッションが転がっていました。ハルモニウムやツィターもありました。そんなもので遊びながら成長していたのです。ミニ・モーグなんていまも母親の家にあります。おかしな楽器なんですよ。

クラリネットは17歳か18歳ではじめました。同時に、20世紀の曲、フリージャズ、ユダヤ音楽にもすごく興味がわきました。母親にクラリネットを演りたいんだと言ったところ、クローゼットの中で見つけて私にくれました。それでクラリネットをはじめて、ベースをすっかりやめたのです。私はほとんどいつも母親を悲しませてばかりいたようなものですが、音楽に取り組むことは熱心に応援してくれて、楽器やツールを入手するときにはいつも協力してくれました。

B: プライヴェート・レッスンは受けていましたか。

C: ベースに関しては、まったくレッスンを受けておらず独学です。エレクトリックギターやエレクトリックベースをやかましい音楽目的で手に入れた人が正式に勉強するなんて、普通はやりませんでしたよ。それよりも社会的な活動です。クラリネットを演奏し始めるまでに、つねに興味があって探索をしたい、いくつものアイデアを持っていました。何度かプライヴェート・レッスンも受けましたが、大体は、楽器の音の出し方や基本を習うためのものでした。クラリネットは独学ですし、他のミュージシャンと共演するときには最大限そうするようにしています。他の人と共演するときはいつも学んでいるのです。

B: どこで育ったのでしょうか。

C: まずはニューヨークの中心から45マイル北にある僧院。そこでは実にいろいろなインド音楽に浸かっていました。12歳から21歳まではジョージア州。それからアテネ、アトランタ。高校にはジョージア州の北部にある都市部で通いました。

B: 高校を卒業したあとは?

C: 1年半ほど大学に通いましたが、正直に言うと、そのときはまるでお金がなくてダメでした。あまり良くない学校に通って、何か面白いことを学んでいるわけでもなくて、お金もまったくなくて、何をしているのだろう、なんて感じてしまったのです。それでドロップアウトして仕事を見つけました。でも結局は学校に戻って、オーディオ・エンジニアリングと音楽制作を勉強して卒業しました。ですから、私の教育のバックグラウンドは音楽制作とオーディオ製作です。

B: なるほど。で、そのあとにニューヨークに来たのでしょうか。

C: 2002年にテネシー州ナッシュヴィルのSchool of Audio Engineering (SAE)を卒業しました。ここでは大きなカントリーのセッションをいかに録音するかを学びました。そのあと、まっすぐニューヨークに来たのです。

B: ニューヨークに着いたとき、誰とのつながりがあったのでしょうか。シーンはすごく巨大だし、いろいろなことが起きていますよね。どのように居場所を見つけたのか興味があります。

C: うーん、私にとっては、僧院で一緒に育った何人かの人たちの社会的なつながりがあって、いつも連絡を取っていましたので、難しいことではなかったですよ。子どものころ、毎夏にはコネチカット州のリベラル・アーツ・キャンプに行っていたのですが、参加していた子どもたちの多くがニューヨークに住んでいるのです。友人関係もそこでたくさん作りました。そんなわけで、ニューヨークにいる友人たちのかなりのネットワークがあったのです。

もっとも、ミュージシャンはいませんでした。私がニューヨークに来たのは、特に、TonicやThe Knitting Factory周辺のインプロヴァイザーたちや作曲家たちのシーンに入りたかったからでした。ここに来た2002年には、まだThe Knitting Factoryがその手のショウをやってはいたのですが、シーンは既にTonicのほうに移っていました。スタッフになりたいと強く思いました。

私がここに来たとき、まったくミュージシャンを知りませんでしたし、私自身がすこしシャイなこともあって、ひとりでショウを観に行くだけでした。最初に出会っていまも良い友人になっているミュージシャンは、キーボード奏者兼レコード・プロデューサーのジェイミー・サフト Jamie Saftでした。そのとき、彼はブルックリンのパークスロープにレコーディング・スタジオを持っていて、Tzadikレーベルのほとんどすべてのセッションがそこで行われていました。毛色の違うブルックリンのジャズ・ミュージシャンの多くのセッションも、ここで行われました。私は彼にスタジオのインターンになれないかなと尋ねたのですが、スタジオは彼の家の中にあったわけですし、普通ではなく奇妙なことに思えたのでしょう。彼はどうすればいいのかわからず、とりあえず、スタッフやプロ用ツールを見せてくれたり、レコード制作のことを話してくれたりしました。それから、じわじわと関係者たちと会うようになりました。

ニューヨークで最初に会って共演したミュージシャンは、クレイグスリスト(※訳注:アメリカのクラシファイドコミュニティサイト)に広告を載せて知り合ったのです。哀しいことですよ。こうして本当に凸凹な経験を重ねました。音楽的に何かを共有できる人たちと出会いはじめるまでに2年くらいが経ってしまいました。そしてついに、ブッチ・モリス Butch Morrisと一緒にやりはじめました。それからタイ・カンビー Ty Cumbie。タイとは、私がアッパーウェストのレストランで働いていたときに出会いました。タイは自分の活動をブックできる場所を探していて、ある日入ってきて、「ヘイ、奥の部屋があるだろう、即興音楽に使わせてくれないか?」と話しかけてきたのです。どうやら、いちどだけそこでショウをやったことがあるということでした。その成り行きで、ブッチのアンサンブルに私を入れてくれたのです。このとき、ネイト・ウーリー Nate Wooley、クリス・ホフマン Chris Hoffman、ジェームス・イルゲンフリッツ James Ilgenfritzともはじめて出会い、いまにつながっています。コラボできる人たちと会ったのはこれがはじめてでした。

B: 最近もっとも重要なプロジェクトについて話しましょう。あなたはとても多くの仕事をしたのに、録音はとても少ない。2004年以降の主要なプロジェクトは何でしょうか。

C: ニューヨークで最初に組んだグループは、チェロのクリス・ホフマン Chris Hoffman、ヴァイブのニック・マンシーニ Nick Manciniとのトリオです。ニックはいまはロサンゼルスにいます。ブッチと演っていたときに、彼らに出会いました。即興音楽のトリオです。その6か月ほど前に、私はたくさんのソロを録音しました。それは単なるクラリネット・ソロのつもりではありませんでした。本当に奇妙なもので、キーボードやノイズとの多重録音を行ったものです。既にジョン・ゾーン John Zornとは知り合っていましたので、それを送ってみました。彼は本当に思慮深いメールをくれて、「いまはTzadikレーベルでも何にもできないけれど、これを続けて、君自身のものを出すんだ」と書いてくれました。

それで、クリス、ニックと私のアパートに集まり、ある日の午後に録音して、配布だけのために30枚か40枚を手作りしました。売れるとは思いませんでした。尋ねてくれる人に差し上げるだけのつもりでした。小さな絵も描きました。実際、本当にクールなドキュメントでした。このグループ、この録音によって、The Stoneのような場所でのギグが実現したのです。ジョンにも送り、「ヘイ、あなたのアドバイスに従いましたよ。手作りのドキュメントです」と言ったところ、すぐに返事をくれて、「ヘイ、The Stoneでギグをやることになったぞ」と。彼は他の人にも推薦してくれました。私たちは、イーストヴィレッジにあったときのIssue Project Roomや、Anthology Film Archives、それに当時なにもかもが起きていた多くの場所―Elixir Juice BarやFreddy’s Back Roomなどでも演奏しました。

私にとっては、音楽が、自分が当時考えていたものとまったく整合していて、本当にエキサイティングな時間でした。何かが本当にやってきて自分の最初のアイデアを超えてしまったと感じたはじめての瞬間でしたし、ドキュメントを記録し、完成させ、他の人たちと共有する愉しさを知りました。

それ以降、働き始めました。ジョンがThe Stoneの仕事をくれて、おかげで、多くの人たちと出会う機会ができました。ここで音楽についてたくさんのことを学びました。音楽のまわりにいて、人びとを知り、共演する人たちと出会うだけでなく、そこにずっと居ることで、他の人たちがどのようにリハーサルし、サウンドチェックを行うのかを観察しました。ある夜などはたったふたりが現れて、バンドとして適切でない行動をしていたなんてこともありました。私にとっては学校でした。

これを通じて、マット・ウェルチ Matt Welchのような人とも出会いました。実際に、出会ってから数か月かそこらでデュオの録音もしたのですよ。彼は私にとってまた別の重要な人です。本当に勉強した作曲家・ミュージシャンであり、実に親切に、私のアイデアをより凝縮させ、うまくまとめることを手助けしてくれました。マットとの仕事をはじめたのはそのころです。マットを通じて、ジェシカ・パヴォーン Jessica Pavoneやメアリー・ハルヴァーソン Mary Halvorsonのような人たちとも知り合いました。そしてしばらくの間、彼らととても親しい関係でした。

ネイト・ウーリーはこのところ親友になったひとりです。彼とはいろいろと異なるセッティングで、4、5枚吹き込みました。今までに、6人から10人くらいのミュージシャンと親友になり、可能な限りすべての仕事をしてきています。

B: 深く信頼しあうようになったのは、共通の目標があったからだというように聞こえます。

C: はい、まったくです。100%そうです。それが最初からずっと大事です。

B: あなたの最初の録音はソロだと思います。これらのソロ・プロジェクトはどのようなものでしょうか。

C: 最初のソロコンサートは2005年でした。このことは話しましたね。ちょっと悲惨な体験でした。

B: 本当に?

C: ピーター・エヴァンスやネイト・ウーリーと友人でしたが、ご存じのとおり、ふたりとも実に尊敬すべきソロ音楽を何年間も手掛けていました。

それで、ミュージシャンがソロ・パフォーマンスを行う場合には、ソロに集中するか、ソロを活動の一部とするにとどめるのかについて本当に明確に区別されるのだと思いました。

しかし、ネイトやピーター、エヴァン・パーカー、ネッド・ローゼンバーグ、その他それに連なる人たちのように、私が人生全体をなにものかに進化させたいと思っていたということだけは言えます。

常にそうしなければならないことはわかっていたのだと思います。自分のクリエイティヴな思考のほとんどを、まるでスタンダップ・コメディアンのように、それに捧げなければならない。彼らは素材を使い、形にして、そこから再出発しているのです。

私は早いうちからそれに気づいていたのですよ。確かに、ピーターやネイトの近くにいたからでもあるでしょうね。ネイトは私より何歳か年上なだけなのに、いつも相談に応じていいアイデアをくれる存在でした。

私が最初のソロコンサートをやったときは、洗練されたセンスが欲しかったのに、自分は間違いなくそれを持ち合わせていませんでした。いくつかの曲をやって、5分くらいが経ちました。本当です、5分間。ブッシュヴィック(※訳注:ブルックリンの地域)にあった、Goodbye Blue Mondayという場でのことです。

B: そこは私が住んでいる場所のすぐ近く、家から3ブロックくらい。でも2014年に閉じてしまった。

C: Goodbye Blue Mondayはとても良い演奏場所でした。5分間のセットだってできるのですよ。一晩にたくさんのブッキングをして、観客はいつも少ない、だからプレッシャーは実に小さい。しかし、ピーター・エヴァンスが私の演奏を聴きにきてくれたのです。すっかり動転してステージから降り、「どうすればよかったのだろう?怖かったのだけど」と訊いたところ、彼は本当に良いアドバイスをくれました。「いいかい、5分間演奏しただろう。で、満足していないんだろう。5分間を本当にソリッドな代物にするんだよ。それが君のゴールだ。それができたら、次は10分間だ。」

それですぐに、2つの異なるソロのアプローチに取り組みました。どっちもエレクトロニックの要素が入っています。片方のソロのアプローチでは、ライヴサウンドの環境を創ります。PAを使って、本当に微かな音色にしたかったので、リヴァーブとディレイが重要でした。また同時に、マイク近くで拾い、編集やカットアップを即座に行うような録音のアプローチも手掛けました。

それで、私の最初のアルバムはTzadikから出ました。カットアップのシリーズで、最後の曲などは何千回も編集を行い、超イカレています。ミュージック・コンクレートみたいな感じです。

その頃、たくさんのソロ・ショウをやりました。ある場所では30日連続の30ショウのようなものもやりました。私にとっては大変な時期でした。Tzadikから出した音源は『In Memory of the Labyrinth System』というタイトルにして、細心の注意を払ってハイパーなカットアップの編集をして、本当に強い自分のステートメントになりました。ライヴのパフォーマンスもだんだん良くなってきたのですが、アルバムとはどんどんかけ離れたものにもなっていきました。両者がまるで連動しないのですよ。アルバムを創る方法はこれしかないし、ソロでクラリネットやエレクトロニクスのコンサートを行うのもこれしかないと分かったのですが、そのふたつの世界は百万マイルも離れている。私は長いこと、存在のあやうさを覚え、この両者をどうすれば近づけてひとつにできるかに挑みました。録音するものも、ライヴでやっていることと同じような息遣いをもったものにしたかったのです。しかしまた、ライヴについても、録音のように自然を操作するものにしようと思いました。

B: そんなふうに分裂し、橋渡しをしようとする人ははじめてです。興味深いですね。

C: いつも、レコーディング・スタジオでできることを想像してきました。特に家でラップトップを使うときには、です。もし自分自身を抑えつけないなら、私はなんでもできるのだと言ってしまう自分がいるのですよ。そんなクレイジーなサウンド・コラージュを創ることができました。

それは私には重要で、楽しみながらやりました。しかし、ミュージシャンができることのうち、パフォーマティヴな側面にとても根差した類のことは、もうやりたくないのです。

それで、『In Memory of the Labyrinth System』のようなアルバムをも作ることはなかったのです。どのアルバムもスタジオでの独特のアプローチによるものですが、しかし明らかに、ミュージシャンシップのアイデアや、ソロアルバムではあってもミュージシャンの間で起きる対話がその中心にありました。

B: ネイト・ウーリーについて何度かおっしゃいましたね。彼とのコラボレーションや、一緒に作ったアルバムについてはどうだったでしょうか。

C: ネイトとは3枚を一緒に作りました。

B: 『Fire Sign』もそうですよね?

C: そうです。ピーター・エヴァンス、マット・バウダーとのカルテットでも吹き込みました。それから、エヴァン・パーカーとのトリオ。

ネイトは親友のひとりです。私の知る限り、ミュージシャンとして、また人間として、数少ない驚くべき人です。人間として、音楽としての創造性、人間的な成長、そんなことは本当にネイトとの関係のおかげです。

ふたりともどうしようもない事務仕事をやって、まったく幸せでもなんでもなくて、G-Chat(※訳注:チャットアプリ)で音楽、人生や愛、関係、本などについて一日中費やしている時期が実際にありました。いまはお互いに本当に忙しくそんなに話したりはしないのですが、その頃は、ネイトと一緒に音楽のことを学んだ時期でした。

ネイトとは結構早く出会いました。彼がニューヨークに来たのは割と最近ですが、知り合ったときにはそれから数年経っていました。彼の音楽も、創造性や自己表現も尊敬しています。彼が私の世界に前向きに、情熱的に入ってきたことで、大きく信頼するようになりました。

他の親しいミュージシャンについても言いましょうか。ブライアン・チェイス。トビー・ドライヴァー、マリオ・ディアス・デ・レオン、チャーリー・ルッカー、マット・バウアー、ピーター・エヴァンス。みんな本当に親しいですし、自分のことと同様に、彼らのやることに興味があります。

B: 『In Memory of the Labyrinth System』の録音からそのあとのソロワークスへと、どのように移行したのでしょうか?

C: いろいろトライした時期でした。うまくいくことは続け、そうでないものはやめました。そのころ大きなギターアンプを買い、それを使ってできることを試しました。また、小さなグループ向けのグラフィック・スコアを多く書いた時期でもあります。

ある意味でとても現実的でした。やったことを聴きなおしたり、それに対して好むことと好まないこととを文字によって書き残したり、といったようなものです。私自身について言えば、自分の音楽的な強さや、改善する必要があることなどについて。

以前にジェイミー・サフトの場所によく出入りしていた頃、私がナッシュヴィルに住んでいた時分に録音した音源を彼に渡しました。文字通りキーボードで創った音楽なのですが、フレンチホルンか何かを演奏しているとリスナーが思い込むほど、キーボードで他の楽器を演じたものでした。彼は一聴して言いました。「いいかい、これはクールだけど―――。もし4トラックと、マイクひとつと、クラリネットだけが手もとにあるとしたら、それを使うだけの方がいい。それでできる最大最善のことだけをするんだ。キーボードでオーケストラを作っていると人に思わせるようなことにトライするんじゃない」と。

本当に打ちのめされました。そんなわけで、私は自分の周りにあるものを見て、それを使って最大限自分にできることにトライするようになりました。もしラップトップとクラリネットがあったなら、私にできる最大限のこと、つまりソロ録音をします。愛すべき、信頼できるミュージシャンが2、3人いれば、スモール・アンサンブルをやります。それで、Pale Horseというバンドを始めたのです。ラップトップと、音楽のつながりによって、他に何ができるでしょうか?そう、ポッドキャストをはじめなければならないのかもしれません。それなら自分にもできます。わかっています。

何年も、ジミー・ジュフリーにインスパイアされたプロジェクトをやりたいと思っていましたが、私はジミー・ジュフリーのようには演奏できないので、壁にぶち当たっていました。しかし、自分にできることを自分のやり方で演奏するのだと一旦受け入れて、できないことに挑むのをやめたら、とても救われたような気がしました。私にとって大きな啓示のようなものでした。本当にくだらなくてシンプルなことに聞こえますが、そこまでに何年もかかってしまいました。

B: くだらないとは思いませんよ。だって、多くの人がそれに取り組んでいるのだから。みんな、自分の裡にあるものを理解しようと挑んでいるのですよ。

C: もとの質問に戻ってクラリネットの話です。私は、しばらく練習してから、クールな音を好んだり、ほんの小さな音やちっぽけな音の断片を好んだりします。そのちっぽけな音の断片を見始めて、これで何ができるだろうと問います。これが私のできるアプローチのすべてです。

B: あなたのバンドPale Horseは、どんな経緯でできたのでしょうか。

C: ニューヨークでいちばんコンスタントに共演していたのがクリスでした。この時点で、一緒にプロジェクトをやるとなると、彼は、私が欲しいことをわかっていました。本当に話が早かった。彼こそ共演したい人でした。

ブライアン・チェイスとはデュオを始めて、すぐにとても直感的なものに育てあげました。それでTzadikから『Fire Sign』を出しました。最初3曲を作り、ゾーンに渡したところ、本当に評価して、「もう1曲作ってアルバムにしよう」と言ってくれました。

それで、クリスのチェロ、ブライアンのドラムスと1曲作ろうと思いました。スタジオで短いセッションをやって、30秒~2分ほどの小さなアイデアの束を録音しました。それを使って、編集作業で私のレンズを通過させようと思いました。ふたりとのインプロヴィゼーションを用いて4時間くらい作業したと思います。実現するために本当にソリッドな言語を話した明晰な時間でしたし、魅力的なサウンドを本当によく理解しえたと感じました。

B: 「Touched and Fire」のことのように思えるのですが、どうでしょうか。

C: その通りです。そのあと、私たちはトリオでのコンサートを2回やったのですが、良い瞬間はあっても本当に凝縮されたものではない、単なるフリー・インプロヴィゼーションでした。数年後、あるレーベルでEPとして出さないかと連絡してきた人がいました。予算がなくて、ごく限定的なリリースということなので、そのアイデアに乗りました。クリスとブライアンと組んで、スタジオ録音して限定リリースしようと思いました。私がクラリネットを吹き、トリオで演奏する。

それでスタジオに入り、欲しいサウンドのアイデアを持って、即座に形にしたところ、まるでエイリアンの音楽のように聞こえました。本当にエキサイティングでしたよ!この音楽に可能性を見出したので、もっと時間を割いてひとつのEP以上のエネルギーを注ぎ込みたいと気付きました。

それで、2枚のアルバムを作ったのです。3枚目ももうすぐです。同じことをやっています。2分間かそこらのためのアイデアに注力しています。解放されることのない緊張のようなものです。クリスと私はピッチを合わせました。もともとのアイデアは、長く、できる限りでたらめなピッチで演奏することでした。真ん中のピッチで演奏するようにしつつ、フラットになってきたら少し音を抑える。それが最初に決めた私たちのアプローチでした。

今ではコンサートをして、何も言わずとも、とても凝縮された演奏ができて、それがダメになれば今度はさえずるようなピッチでのヴォキャブラリーをもとに新たなアイデアを始めます。

このバンドは、私にとっては最も近しいユニットであり、いつも私のアイデアを試すところでもあります。いまだにどうなっているかわからないのですが、これこそ私自身が聴きたいものでもあるのです。

B: Pale Hoseは(※訳注:最初の『Pale Horse』に続き)2枚目の『Badlands』を最近出しましたね。また別のアイデアがあったのでしょうか。

C: 第1作は、一緒に潜在意識的に作り上げたという点で、私にとって本当に特別なアルバムでした。セッションをやって、帰宅して音源を聴いても、その音楽が何なのかもどこから来たのかもわからないのに、好きなのです!

第2作では共演を繰り返しました。第1作よりもどこか改善したと思えない限りは、2枚目を本当に作りたくありませんでした。

その観点では違う点がひとつあって、多重録音を行うつもりでした。第1作は単にトリオで演奏しただけのものです。第2作では、同時に4本か5本のクラリネットがいて、チェロやドラムスについても同様です。本当に好きだった2本の映画のことを特に考えており、それらのサウンドトラックのようなものを想像しました。

B: その特別な映画とは何でしょうか?

C: ええっと、テレンス・マリックの『地獄の逃避行』(※訳注:原題 Badlands)、それからポール・トーマス・アンダーソンの『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』。

B: それは本当に興味深い。私はアルバムを聴いたとき、本当に風景を視たのですよ。広い空間です。本当に、たくさんのイメージを心に届けるのだなと思っただけでしたが。

C: 録音する場所についても注意深く努力して決めました。これが重要なことなのかどうかわかりませんが、第1作の『Pale Horse』はプロスタジオとは言えないような場所で録音しました。『Badland』はすぐれたエンジニアがいる本当に良いスタジオでやりたいと思いましたし、そのおかげで、サウンドのクオリティが飛躍的に改善されました。

今のところ、この2枚は本当に対照的なものになったと思います。2枚目では改善もありました。しかし2枚とも短いのです。だいたい30-35分くらいで、15-20分くらいの2曲が収録されています。今のところ、これがバンドのアイデンティティです。

私たちは何人か別のミュージシャンを入れて、次のアルバムを作るつもりです。しかしやはり、たぶん2曲が入って35分という短いアルバムを考えています。

このバンドが愉しいのは、音楽を聴くのは30-35分と短い体験なのにそれがゆっくりに感じられる。つまり時間の流れ方が少し歪められて遅くなっている。この音楽を聴いたとき、どの時点でも退屈しませんし、35分間が過ぎた時点でも短かったなとは感じません。リスナーにとってこの音楽が面白い点は、時間の流れ方を各々が調整できることかなと感じています。

B: それは実に興味深いですね。私だってまったく短いと感じなかったのですから。アルバムが長いとも感じませんでした。

C: はい。『Badlands』は31分間です。

B: 私からみれば、とても慎重に作ったアルバムに思えます。あなたはカットして短くもしなかった。あるべき正しい長さのように感じます。今、他のプロジェクトは?

C: 次のソロアルバムを最終的に完成させているところです。タイトルは『Decay of the Angel』。今のところ、文字通り、4回か5回録音しました。なぜだか、戻って微調整し、もういちどやる必要を感じ続けるのです。いくぶんハワード・ヒューズ的な闇に入ってしまいつつあるようですが、その必要があると思うのです。また、パーカッションを入れて、新しいクラリネットのカルテットを結成しました。かなりエキサイティングなショウを、Firehouse 12とRouletteで行う予定です。

11月には、ピーター・エヴァンス、ネイト・ウーリー、マット・バウアーとのカルテットで2枚目のアルバムを録音します。前作は4-5年前の『Sky Burial』というアルバムで、Rouletteで行った一連のライヴコンサートの記録です。私はかなり編集に注力しました。2枚目の録音でも同じ制作のアプローチを取るつもりですが、適切なスタジオ録音にして、何本もマイクを近づけて真に極端な出たてのサウンドになるでしょう。

11月にはまた、マリオ・ディアス・デ・レオンとトビー・ドライヴァーとの私のトリオBloodmistで、2枚目のスタジオ録音を行う予定です。既に、2016年に出した1枚目が、もう百万年前に吹き込んだもののように感じられています。コンサートは本当に特別なものだったので、スタジオでもなるべくそのようにしたいところです。ちょうどダウンロードのみに対応するライヴ録音を出したばかりですが、聴けばそのことがわかると思いますよ。

(文中敬称略)

【翻訳】齊藤聡 Akira Saito

環境・エネルギー問題と海外事業のコンサルタント。著書に『新しい排出権』など。ブログ http://blog.goo.ne.jp/sightsong

シスコ・ブラッドリー Cisco Bradley

ブルックリンのプラット・インスティテュートで教鞭(文化史)をとる傍ら、2013年にウェブサイト「Jazz Right Now」を立ち上げた。同サイトには、現在までに30以上のアーティストのバイオグラフィー、ディスコグラフィー、200以上のバンドのプロフィール、500以上のライヴのデータベースを備える。ブルックリン・シーンの興隆についての書籍を執筆中。http://jazzrightnow.com/

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