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Concerts/Live ShowsInterviewsNo. 239

#1002 1971年新宿~2018年札幌。阿部辰也の過去と現在、2つの「フリージャズ最前線」をめぐって

text & photos by 定淳志 Atsushi Joe

 

(文中敬称略)
1969年11月から71年5月にかけて存在した新宿ピットインのニュージャズ・ホールは、副島輝人をオーガナイザーとして、ジャズの新しい表現を目指した多くの先鋭的ミュージシャンたちが実験的演奏を日々繰り広げ、1年半という極めて短期間ながら、日本フリージャズの揺籃期に確かな一ページを残した拠点であった。出演したミュージシャンは富樫雅彦、高柳昌行、吉沢元治、佐藤允彦、高木元輝、沖至、豊住芳三郎、阿部薫、藤川義明、翠川敬基など、日本のフリージャズ史を彩る綺羅星のごとき俊英ばかり。しかし、この「運動」に関わったのは、なにも有名な演奏家ばかりとは限らない。のちに盛名をはせることはなかったミュージシャンも存在する。たとえば、1962年から約40年間の日本のフリージャズの歴史を現場の視点でつづった副島輝人の名著『日本フリージャズ史』(青土社、2002年)にこんな記述がある。

ピアニスト原尞がニュージャズ・ホールに現われたのも同じ頃、七〇年の三月初めと記憶する。(中略)初めのうちはソロ・ピアノや、北海道から上京してニュージャズ・ホールの受付けの手伝いなどしていたソプラノ・サックスの阿部辰也とのデュオが多かった。(144頁)

本稿がクローズアップするのは、この、阿部辰也である。『日本フリージャズ史』における彼に関する記述はこの一か所しかない。彼は現在、中央のジャズシーンから離れ、郷里の北海道で、65歳の今もフリージャズを演奏している。じつは筆者は20年以上前から彼のことを知っているのだが、知り合った当時は「昔、東京でフリージャズを演奏していた」と聞いたのみで、それ以上深い話はしたことがなかった。ところがその後『日本フリージャズ史』で彼の名を目にしてから、いつか、ぜひともその時代のこと、そして現在に至る来歴を訊ねてみたいと思っていた。そこで彼からのライブ招待を機に、1月27日(土)、彼が出演する『札幌 Free Jazz 最前線』(札幌のジャズライブバー「D-Bop」で不定期に開催されているフリージャズ・ライブイベント)に足を運び、終演後に話を聞いた。前半に簡単なライブリポート、後半にそのインタビュー内容を紹介する。

 


2018年1月27日(土) 札幌 D-Bop
札幌 Free Jazz 最前線 vol.7

1st Set
Chants Neutral:大崎健太 (b) 大藤健 (tp) 伊東勝大 (ds)

初めて観るグループである。ベースとドラムは比較的オーソドックスなビートを刻み、ジャズ的なコールアンドレスポンスはそのままに、アドリブの方法論だけをフリーにしたような、極初期のフリージャズを思わせる寛いだ演奏が3曲続いた。

 

2nd Set
阿部辰也 (ts) 石橋マヤ子 (p)

ふだんは「阿部辰也 Trio」として出演しているそうだが、この日はドラマーの都合がつかず、デュオ編成になったという。セットはデュオ2曲の後、阿部がソロで1曲、最後にデュオ1曲の計4曲。阿部は「自分はフリージャズの最前線ではない。高木元輝や阿部薫のような、古い、日本のフリージャズだ」と宣言して演奏を始めた。リペアから戻ってきたばかりというテナーを朗々と響かせ、とくにソロではカリプソのような演歌のようなフレーズも挟みつつ、心から流れ落ちてくるようなナチュラルなフリージャズを聴かせた。音が途切れた直後、堪らずといった調子で「いぇーっ!」と発したのは、客席で観ていた吉田野乃子であった。

 

3rd Set
おまかせ:佐々木伸彦 (b) 吉田野乃子 (as) 西村伸雄 (tp, key harmonica, p) 渋谷徹 (ds)

こちらもふだんは6人編成だそうだが、この夜はサックス2人が欠席して4人編成。吉田野乃子は前日まで、ニューヨーク時代の盟友デイヴ・スキャンロンとの日本ツアーに出ており、この日は空港から直接会場に駆け付けた。セットは完全即興が2曲(そういえば吉田の完全即興を観るのは久しぶりである)。トランペットを除く3人は図らずも吉田の新バンド「エレクトリック・ヨシダ(仮)」(https://jazztokyo.org/reviews/live-report/post-22152/ 参照)のメンバーでもあって、同バンドのような即興演奏の指揮はないものの、冒頭から吉田のアルトサックスは軋むような高音とクラスターを発し、西村のトランペット、佐々木のギター、渋谷のドラムともども、ヘンな音とヘンなテクニックを満載し、幾つもの山と谷をフルスロットルで乗り越えながら、駆け続けた。

 


終演後の阿部辰也に話を聞いた。内容は以下の通り(雑談を、インタビュー形式に構成した)。

 

定:こういうかたちで、あらたまって話を聞くのはお互いとても恥ずかしいですが、我慢してお付き合いください。まずはサックスを始めた経緯を教えてください。

阿部:東海大四高(現・東海大札幌高)の吹奏楽部に入部して、バスクラリネットを担当したのが最初だった。中学生時代は合唱部にいた。でもトランペットとか花形楽器には空きがなくて、バスクラリネットだけが空いていた。というのは当時(1968年ごろ)、北海道の吹奏楽で初めてバスクラリネットを入れたのがうちの高校で、たしか札幌交響楽団にもなかったんじゃないかな。バスクラリネット用の譜面が無くて、すごく苦労した記憶がある。ソプラノサックスを始めたのは、16歳ぐらいだったかな、ラジオでスティーヴ・レイシーのソロを聴いたのがきっかけだった。親に頼み込んでソプラノサックスを買ってもらって、独学で練習した。当時はジョン・コルトレーンの<マイ・フェイバリット・シングス>が流行っていて、そういうふうに吹きたいとも思っていた。

定:高校時代は仲間を集めてジャズを演奏したりしていたんですか? 上京したのはプロを目指して?

阿部:じつは、高校時代は誰かと演奏するなんて考えたこともなく、ひたすら一人で練習していた。卒業後、進学も就職もすることなく、ソプラノサックス一本を持ってすぐに上京した。われながらすごく不思議なんだけど、ジャズミュージシャンになりたいとも、フリージャズを演奏しようとも思っていなかった。ただ東京でソプラノサックスを吹くことだけしか考えてなかったんだ。

定:そんな阿部さんが上京後、どういう経緯でニュージャズ・ホールに出演するようになったんでしょうか?

阿部:上京したその夜、新宿ピットインに行って、誰が出てるのかも知らなかったんだけど、出演していたグループのバンマスにいきなり、一緒に演奏させてくださいと頼み込んだんだ。そうしたら彼が「じゃあやろう」と言ってくれた。「バイ・バイ・ブラックバードは知っているか?」と訊かれて、本当は知らなかったんだけど「できます」と答えて、2コーラスぐらいフリーで演奏したのかな。終わった後に「きみ、面白いじゃないか」と言われた。そのバンマスは沖至さんだったんだけど、「きみのような若者が出る場所がある」と言って、すぐに副島(輝人)さんとニュージャズ・ホールを紹介してくれたんだ。

定:最初からすごい偶然というか幸運ですね。ニュージャズ・ホール時代の思い出を聞かせてください。

阿部:東京には2年ちょっといたんだけど、音楽以外の仕事はしていなかった。両親は、東京で学校に通っているものと思っていたらしい。演奏のギャラはいつも何百円かで、ほかには受付を手伝ったり、時々キャバレーでの演奏アルバイトを紹介してもらって、どうにか食いつないでいた。一番共演が多かったのは、直木賞作家になったピアニスト原尞さんとのデュオ。彼はビル・エヴァンスみたいな演奏も上手いんだけど、ライブでは絶対そういうふうには弾かなかったね。それから、これは副島さんの思いつきで、阿部薫との「阿部デュオ」というのがあった。ニュージャズはいつもお客さんが少なかったんだけど、ある時、阿部デュオで演奏していたら観客が一人ということがあった。そのお客さんは演奏が終わった後、阿部薫に「良かったよ」と言って帰っていったんだけど、その顔にすごく見覚えがあってね。あとで副島さんに訊いたら、俳優の殿山泰司さんだとわかってびっくりした。殿山さんは阿部薫が好きで、よく観に来ていたんだ。あと、思い出に残っているのは「ニュージャズ・オーケストラ」だね。佐藤允彦、富樫雅彦、高木元輝、藤川義明、翠川敬基、吉沢元治、阿部薫、原尞、沖至といった人たちと一緒に演奏した。沖さんが作った曲も演奏したんだけど、譜面には絵が描いてあるだけで、驚いたなあ。(筆者注。話の通りなら阿部辰也の上京は1971年3月。ニュージャズ・ホールは同年5月に閉鎖されているため、同ホールの後継拠点である渋谷プルチネラなどでの活動も含まれていると考えられる)

定:先ほど、東京での活動は2年余りと言ってましたが、その後はどうしたんでしょうか?

阿部:2年間、毎日3食インスタントラーメンしか食べていなかったら胃潰瘍になってしまって、札幌に帰ることにした。療養後は再び上京はせず、テナーサックスを入手して、すすきのでバンドマンを始めた。キャバレー、歌謡曲、ジャズ、いろんなバンドにいた。ある時、ツインテナーの歌謡バンドに引っ張られて、そのバンドでレコーディングしたこともある。キングレコードから『愛の狩人/平田満+シャネル・ファイブ』(1976年)として出て、メンバーにぼくの名前も載っているよ。フリージャズのトリオを組んでいたこともある。だけど、すすきのの衰退とともにだんだん音楽の仕事がなくなってきて、自衛隊の音楽隊に入隊して、ソリストとして活動した。自衛隊には4年ぐらいいたが、結婚して子供が増えて、音楽だけでは食べていけなくなったので、自衛隊を辞め、音楽もやめてしまった。82、3年ごろだったと思う。持っていた楽器を手放し、タクシーの運転手や会社経営などをしていた。

定:音楽活動を再開するきっかけは何だったんでしょうか。

阿部:94、5年ごろ、当時の勤め先の小樽で、小樽ジャズ倶楽部(小樽市内のプロ・アマ・学生によるジャズ愛好会)のリーダーだった小倉義満さん(ギタリスト、故人)に出会った。彼に誘われて、小樽ジャズ倶楽部の月例セッションに参加したのが、きっかけだね。音楽から離れている間にソプラノもテナーも手放してしまったけど、アルト一本だけが残っていて、それで参加したんだ。(なお、この時のセッションには、当時学生だった筆者も参加している。たしか<ソー・ホワット>だったか<インプレッションズ>だったか、いずれにせよ同じ曲だが、見知らぬ男性が曲とはほとんど無関係にひたすらフリーにブロウする姿に衝撃を受けたことを思い出す)

定:その後は、現在まで中断することなく演奏を続けてらっしゃいますね。何年か前、久しぶりにお会いした時にはジャズスタンダードも演奏されていて、驚きました。

阿部:小樽での仕事から離れた後も、いろいろな人たちが誘ってくれて、フリージャズばかりでなく、いろいろなグループやオーケストラに参加するようになった。その中でスタンダードの面白さにも気づいた。フリーをやる場所や人が少ないこともあって、今はスタンダードが7割、フリーが3割ぐらいかな。

定:最後に話は変わりますが、阿部さんがこれまで共演した、あるいは観た演奏家で、一番すごいと思う人を教えてください。

阿部:間違いなく阿部薫だね。高木(元輝)さんもすごかったし、そこにいる(吉田)野乃子さんもすごいけど、やっぱり阿部薫が一番だよ。ミュージシャンって演奏の合間に言葉をしゃべるでしょ。ぼくはあれは必要だと思っていて、楽器の音はその人の発する声や言葉につながっていて、観客も言葉から音に自然に入っていきやすいと思う。でも彼だけは言葉を必要としなかった。音だけで十分だった。彼とはデュオで演奏していたこともあったけど、じつはほとんど会話らしい会話をしたことがない。いつも会ったら「ょっ」とあいさつをして、演奏が始まるとまるでソロみたいにものすごい音で吹き続けて、終わったら「じゃ」と言って帰っていった。あとで彼が早死にしたと聞いたときは驚いたよ。

定:今、ミュージシャンの音はその人の声とつながっている、という話がありました。くしくも先ほどのライブでの阿部さんのテナーの音は、70年代の日本フリージャズの最前線から現在に至る、阿部さんの全ての遍歴と経験が詰まった声そのものなんだと実感しました。本日はありがとうございました。

阿部:それはうれしい感想だね。こちらこそありがとう。以前みたいに、次はきみも一緒にフリージャズをやろうよ(笑)。

定淳志

定 淳志 Atsushi Joe 1973年生。北海道在住。執筆協力に「聴いたら危険!ジャズ入門/田中啓文」(アスキー新書、2012年)。普段はすこぶるどうでもいい会社員。なお苗字は本来訓読みだが、ジャズ界隈では「音読み」になる。ブログ http://outwardbound. hatenablog.com/

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