ニューヨーク:変容する「ジャズ」のいま 第21回 ラン・ブレイク〜独創と孤独を泳ぐピアニスト〜
どんな経緯だったのかは上手く思い出せないのだけれど、数年前に私はあるレコードに夢中になった。ジーン・リーとラン・ブレイクのデュオ録音『The Newest Sound Around』(1962, RCA Victor)だ。ニューヨーク出身のシンガー、ジーン・リーの声はミステリアスで儚い魅力をたずさえている。それは例えば、西日の差し込む薄暗い部屋でまどろんでいる間に夢と現実の境目からうっすらと聞こえてくる、そんな少し非現実的な歌声なのだ。正直、始めのうちはそんなジーン・リーの歌声に取り憑かれてこのアルバムを聞いていたのだが、何度もアルバムを聴き返すうちにラン・ブレイクのピアノの素晴らしさにもすっかり心を奪われてしまった。彼のピアノ演奏はとてもユニークだ。下記のインタビューの中で本人が「ビバップの波には乗り遅れた」と言っているように、このアルバムの彼の演奏からはビバップの要素がそれほど聞こえてこない。だけどそれが逆に功を奏してか、時代を感じさせない音になっているように私には思える。ビバップの要素が少ないとは言っても、ブルースやゴスペルの残響がそこかしこに聞こえるのに加えて、時折モンクの弾くような断定的なリズムで鍵盤を叩くこともある。ラン・ブレイクのピアノから聞こえてくる音楽の幅はとても広い。アルバムに収録されている「Summertime」なんかはものすごく大胆な解釈だと思う。原曲の雰囲気を壊さずにここまで独創的な演奏にしてしまう2人の稀有な才能は、残念ながら一般的なジャズ批評の世界からはふさわしい評価を受けてこなかったようだ。だが、ニューヨークで現在活躍するミュージシャン達との対話の中でジーン・リーやラン・ブレイクの名前が上がると、必ずと言っていいほど彼らの音楽に関する会話は白熱する。多くのニューヨークのミュージシャン達は2人に対して深い敬意を抱いているということをここに記しておきたい。
photo (above): ©Roberto Masotti
以下は詩人で批評家のバイロン・コーリー氏によるラン・ブレイクへのインタビュー記事だ。幸運なことに翻訳の機会を得ることが出来たのでここでシェアしたいと思う。このインタビューの原文は編集がされていないものである。それに加え、瞬間的に脳裏に浮かんだ事柄について、まるで散文詩の様に次々と言葉を並べていくラン・ブレイクの話し方のおかげで少し分かりにくい部分もあるかもしれないが、インタビューで語られている逸話の数々はとても興味深いものになっている。
バイロン・コーリー(以下B): 学生時代からピアノは弾いていましたか?
ラン・ブレイク(以下R): クラシック音楽専門の高等学校時代に、『Arsenic and Old Lace(邦題:毒薬と老嬢)』という映画の音楽プロダクションを手伝った。(中略)全校集会でも毎週ピアノを弾いたよ。プレリュードなんかをね。サフィールド・アカデミー(注:コネチカット州にあるボーディングスクール)の音楽教師にミスター・リンドストロムという人が居た。その先生は「白い鍵盤だけ弾きなさい」とかそんなことを言っていたけど、僕は確かブルースノートを弾いたりしていた。学校では賛美歌も習わないといけなくて本当にうんざりしたよ。僕は好き勝手にやってはいたけど、それでもあの学校からは一刻も早く出たいと思っていた。レコードコレクションの部屋があって、そこからマハリア・ジャクソンやモンクを知ったんだ。ビバップはもっと後になって聞くようになった。プロコフィエフの「スキタイ組曲」がとても好きでね。それからもちろんドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」も。
『Spiral Staircase(邦題:らせん階段)』(注:1946年のミステリー映画)でロイ・ウェブが担当した音楽はどちらかと言えば凡庸なものだったけど、映画の後半で殺人が始まると音楽がとてもドラマチックで深みを増した。この映画のサウンドトラックにはテルミンが使われていた。それから何だっけ、オンド・マルトノ(注:フランス人電気技師モーリス・マルトノによって1928年に発明された、電気楽器および電子楽器の一種)? あの楽器の音の方が僕はずっと好きだけどね。最近好きな映画音楽はピエール・ジャンセンによるものだ。サフィールドにはDVDやビデオカセットがなかったから、トンプソンビルにある映画館にいつも行きたくてしょうがなかった。ある時は『A Streetcar Name Desire (邦題:欲望という名の電車)』を見にヒッチハイクしてスプリングフィールドに行ったこともあった。
(中略)両親はこう言ったんだ。「映画のことなんて忘れなさい。どうして私達がこの場所に引っ越してきたか分かってるのか?」と。それで僕は音楽教師に対して反抗した。楽譜を読むのは大嫌いだった。スケールやアルペジオは割と簡単だったからそればかりやっていた。先生の夫はとても優しい人だった。 最初の先生はマルベリー通りのジャネット・ウォーラス、その後はユニオン通りのロイド・ストーンマンだった。一時間に6ドルという値段は僕の両親にとっては贅沢の極みだったらしい。(中略)ハートフォードではレイ・カサリーノに師事した。この頃からブロックコードや即興演奏を弾き始めたんだ。レイのおかげで古いスタンダードのレパートリーを沢山習得することが出来た。あとの時間はレコード集めに精を出していたね。
B: その当時弾いていた内容はあなたの得意とする種類の演奏でしたか?
R: その頃やっていたのはほとんど映画音楽か自分自身のプロジェクトだった。だけどその当時の連中は頭が固かったからね。エルビスやレース・ミュージック(注:1920年代から40年代にかけての黒人大衆音楽をさす総称)かスイングの様なクールで知的なジャズかのどちらかという様に分類されていた。僕はビバップの波には乗り遅れたんだよ。その頃、ミュージシャン達はビバップをどれだけ弾けるかで評価されていた。もちろん、バド・パウエルがやったことをきちんと勉強するのは良いことだ。だけどその当時は、どういうミュージシャンになるのかを明確にする必要があった。オーケストラをやるのか、とにかく技術を磨くのか・・・。カサリーノ先生とは、スケールの勉強もしたけどレパートリーをどんどん学んでいった。彼は教本を僕にくれて、その後僕はみんなに「フェイクブックなんか燃やしてやる」とふれまわっていたわけだけど、とにかく譜面を読むのが苦手だった。ラジオでは色んな音楽が流れていた。そのうちにエラ(フィッツジェラルド)やサラ・ヴォーンやナット・キング・コールなんかのアルバムを集めるようになった。とにかくシンガーが好きだったからね。もちろんチャーリー・パーカーやディジー(ガレスピー)もなかなかよく聞いたし、スタン・ケントンに夢中になってその後ビル・ルッソと演奏したりした。そのうちにたくさんのスタンダード曲を弾くことが出来るようになったんだ。今ではガーシュウィンの曲だけでも50曲ぐらい頭に入ってるよ。すべての曲を上手く弾けるわけじゃないけどね。ウィンザー・ロックス(注:コネチカット州にある町)ではエディー・ホワイトのロックバンドに入ったんだ。僕の弾くリズムは気に入ってくれたけど、コードはあまり受けなかった。最初のうちはリズムさえも気に入ってもらえなかった。僕はスイングできなくて、ドラマーと上手くやれなかった。ウィンザー・ロックスにはVFWを始めとして色んなクラブがあったんだけど、他のピアニストはギャラが高すぎたから僕を雇ったのかもしれない。
(注:ここからはジーン・リーについて話している)
R: そうだよ、彼女が部屋に入ってきてこう言ったんだ。「あなたの演奏はアート・テイタムみたいだわ。」ってね。
R: 確か僕達は同じ年に入学したはずだけど、僕はサフィールド・アカデミーで1年余計に過ごしたから、僕の方が1歳か2歳年上だったんだろう。ジーンとは同じクラスで勉強した仲で、よく家にもよってジョークを言い合った。バード・ホールで出会ったんだ。初めて一緒に演奏した曲は、「Jeepers Creepers」だった。スプリングフィールドにあるレコーディングスタジオで録音もしたけど、この時に作ったアルバムはどうなってしまったのか分からないんだよ。彼女の両親はとても素敵な人達だった。母親のマデリーンは長生きだった。ジーンと僕は長いつきあいになるだろうと僕は感じていたんだ。マデリーンは才能あるダンサーで、Over 70 という名前のダンスグループに所属していた。ジーンの父親のアロンゾは郵便局員でとても威厳のある人だった。『The Pawnbroker(邦題:質屋)』や『To Kill a Mockingbird(邦題:アラバマ物語)』にも出演した俳優のブロック・ピーターズとアロンゾは親しい仲だった。ブロンクスのフリーマン通りとプロスペクト通りに住んでいて、週末になると僕はよく彼らの家を訪れたものだった。彼らの家の裏には、ネリー・モンク(セロニアス・モンクの妻)の姉のスキッピーが住んでいた。
B: バード大学に在学中にレコーディングをしたんですね?
R: プライベートでね。100ドル自費で支払った。ジーンはその頃ブロードウェイのピアニスト、ジョナサン・チュニックとよく演奏していた。2年生、3年生の時はあまり顔を合わせることがなかったけど、4年生になってからまたよく演奏を共にするようになったんだ。 それから僕はニューヨーク市の下宿宿に引っ越した。
B: アトランティック・レコードの話を聞かせてもらえますか?
R: まず僕はトム・ダウドのアシスタントになったんだ。それから、のちにアレサ・フランクリンをレーベルに紹介したジェリー・ウェクスラーと出会った。僕がギリシャから丁度帰ってきた頃にアレサはブレイクしたんだ。ヴィレッジ・ヴァンガードで彼女のコンサートを見た時に、8つか9つぐらいテーブルが空いていたのを覚えているよ。だけど68年に「I Never Loved A Man(貴方だけを愛して)」がいきなり大ヒットしたんだ。
バード大学では12人の教授に小論文を提出しなきゃいけなかったけど、その他にフィールドワークをやる期間があったから僕はウェスト・ハートフォードにある小さなレコード屋で働くことにした。週に20ドルと10枚のレコードが報酬で、この頃に本格的にレコードを集めるようになった。(中略)1月の月曜日にスタジオ(注:アトランティック・レコードのスタジオ)に着いた時、誰も僕が何者なのか知らなかった。僕を雇った張本人のネシュイ・アーテガンは出張で居なかったんだ。(中略)その日の午後に出張から帰ってくると、ネシュイはこう言った。「ラン・ブレイクだね。ここで何日間か働いてもらうよ。」ガンサー(注:ガンサー・シュラー)は僕がスタジオの床を掃いていたのを覚えているんじゃないか。ガンサーも10丁目とレノックスで同じことをしていた。
レイ・チャールズの「Green Dollar Bill」の素晴らしさを僕に分からせようとする人も居た。リー・コニッツは怪物みたいだったしトリスターノも・・・ だけど僕はマハリア・ジャクソンが一番好きだった。「ラン、どうしてエディー・ホワイトのバンドに入ったんだ?」と誰かに聞かれた気もする。ロックはあまり好きじゃなかったけれど、リズム&ブルースを聞いたり、あらゆるミュージシャンが出入りするのを見ているだけですごく楽しかったんだ。
B: 当時、トリスターノはアトランティックに所属していましたね。
R: そうだね。ロングアイランドのトリスターノの家まで行ってレッスンを受けたよ。するとジョージ・ラッセルが遊びに来てね。彼はとても料理が上手かった。ビル・ルッソも来ていたし、ある時はオスカー・ピーターソンが来て僕に2回レッスンもしてくれた。でもその時のレッスンの支払いには10年もかかったよ。(中略)クリス・コナーは、僕が思うに非黒人の歌手ではただ1人の良いシンガーだった。アトランティックに所属していたスター達のことはみんな好きだったけどね。MJQ、ジョン・ルイス、パーシー・ヒース、コニー・ケイ、ミルト・ジャクソン・・・彼らはスタジオによく遊びに来ていて、時々コーヒーに誘ってくれることもあった。「ラン、一緒にコーヒはどうだい?」ってね。だけど僕は自分がただそこで働いているだけだってことも分かっていた。クライド・マクファターやトリスターノのスピードについていけない自分の演奏にもどんどん嫌気がさすようになっていった。ラヴァーン・ベイカーはベッシー・スミスの曲をレコーディングしていた。そんな素晴らしいスタジオにいれるということが僕にとっては重要なことになっていた。僕の人生の中のひとつの大きな出来事だった。僕よりも上手くR&Bをプレイするミュージシャンは沢山いた。僕はアル・グリーンやレイ・チャールズの演奏が大好きだった。
B: 小さなスーツケースのシンボルは?
R: (中略)ああいうタイプの黒い鞄はとてもありふれたスタイルだった。僕はあの鞄にセロニアスっていう名前をつけたんだ。ポール・ブレイのレーベルから出した『Breakthru』(1976, Improvising Artist)以外のアルバムには大体モチーフとして使われているよ。ジョージ・アヴァキアン(注:米国の音楽業界の発展に大きく貢献したロシア出身のレコードプロデューサー)について質問があったね。僕達がどうして(RCAビクターに)入ることが出来たのかは分からない。オーネットに比べると僕達はアヴァンギャルドとは言えなかったしね。ジョージ(アヴァキアン)はそういう音楽のプロデュースでよく知られていた。彼は沢山の音楽をプロデュースしていた。(中略)ジーンと僕がRCAビクターレコードに所属したきっかけは・・・ 丁度その頃ジョージはソニー・ロリンズのアルバム、『The Bridge』(RCA Victor, 1962)を製作していたんだ。僕にはガイ・フリードマンという素晴らしいマネージャーがついていて、地元での演奏のチャンスを見つけることは出来なかったんだけど、突然ビクターレコードとの契約を持ってきてくれたんだ。僕の両親にはそれが信じられなかったみたいだ。僕とジーンはヨーロッパで2度のツアーを成功させて、ファーストアルバム(注:『The Newest Sound Around』のこと)がリリースされた時には何度かニューヨークでも演奏した。リー・モーガンが撃たれたクラブで演奏したんだ。日曜日の午後のセットだったかな。それからアポロ・シアターにも出演した。最初のラウンドでは勝つことが出来たけど、4週間連続勝利は出来なかったから、なかなか演奏の仕事も来なかった。
B: 1962年のモントレージャズフェスティバルで演奏したんですね?
R: そうだね。イオラ・ブルーベック(注:デイヴ・ブルーベックの妻)が飛行機に乗っていたのを覚えているよ。僕はその時初めて飛行機に乗ったんだ。サンフランシスコにも行ったかな。モントレーではあまりオーディエンスの反応は良くなかった。スウェーデンの「ゴールデン・サークル」やノルウェーのベルゲン、フランスのアンティーブ・・・ ヨーロッパ各地でのツアーを成功したのにも関わらず、アメリカでは僕らの音楽に対して何の反応もなかった。ローマに住むデイヴ・ブルーベックの友人のビル・スミスが、ローマとパレルモでのコンサートは手配してくれたんだ。そこでのコンサートではオーディエンスから良い反応をもらえたよ。マックス・ゴードン(注:ヴィレッジ・ヴァンガードの初代オーナー)にはこう言われた。「君はまだヴァンガードで弾くには早い、もっとリラックスしないと。」とね。オーディションでの僕はきっとガチガチに緊張していたと思う。それに僕はスイングするタイプのピアニストじゃなかった。ビートがなかったんだ。僕とジーンはバラードを弾く方が好きだったから、それもクラブにとっては良い傾向じゃなかっただろうね。コペンハーゲンでも、モンマルトルでも、評判は良くなかった。僕達は「ゴールデン・サークルではどうしてあんなに上手くいったんだろう?」と振り返った。ソロピアニストとしても、僕はあまり成功は収めなかった。ただひとつ成功したと言えば、マドリッドのウィスキー・ジャズ・クラブでの演奏かな。(中略)
B: あのアルバムは賞も取っていますよね?
R: ビリー・ホリデイ・アワードを取ったよ。でもあの賞をもらえたのは、ほぼジーン・リーの音楽的解釈の賜物だ。パレルモではジーンはビリー・ホリデイの再来だと謳われていた。ストックホルムでもとても良い論評を書いてもらえた。ベルゲンのホテル・ネプチューンに1か月滞在したんだ。友人の友人の紹介でね。サン・ジェルマン・デ・プレのケニー・クラークのクラブでも演奏した。パリでのコンサートは少し物議を醸した。ストラヴィンスキーほどじゃないけどね、「ジャズはどこへ行ったんだ?」なんて言う人達がいたんだ。ニューヨークの六番街にあったクラブ、トゥルード・ヘラーの奴らはジーンに僕を首にするようにアドバイスしたらしいしね。もちろんジーンは色んなミュージシャンと共演していたけど、その時には「ランとの演奏は続ける。」と言ってくれたらしい。一番大事なのは音楽だからね。セシル(・テイラー)の様なタフさは僕の演奏にはなかったんだ。
次号につづく
このインタビューは「WIRE」誌に掲載された記事をもとに、許可を得て翻訳され転載されたものである。
(全文訳:蓮見令麻)
This transcript was originally published in English at https://www.thewire.co.uk/in-writing/interviews/ran-blake-interview-transcript.
参考動画