連載第37回 ニューヨーク・シーン最新ライヴ・レポート&リリース情報アミナ・クローディン・マイヤーズへのインタビュー
Text by ヒラリー・ドネル(Hillary Donnell)
Translated by 齊藤聡(Akira Saito)
作曲家・ピアニスト・オルガン奏者・歌手のアミナ・クローディン・マイヤーズ Amina Claudine Myersは、座って、これからのいくつかのプロジェクト、もっとも記憶に残っている共演、そしてAACM(Association for the Advancement of Creative Musicians:創造的音楽家たちの進歩のための協会)での仕事について語ってくれた。
ヒラリー・ドネル(以下HD): ウィンター・ジャズ(※註 毎年ニューヨークで開催されるジャズ祭)の最終日にシーン・センターで演奏なさって、いかがでしたか。楽しみましたか。
アミナ・クローディン・マイヤーズ(以下ACM): とてもうまくいきました。ウィンター・ジャズで演奏するのは3回目です。最初はオルガン・トリオで。2回目は、自分で制作したCD『Sama Rou』の曲をソロで。今回は「Generation IV」と。グループとしては2回目の演奏です。
HD: 「Generation IV」について、またどんなふうにできたのか、教えてください。
ACM: ピエン・スレッギル Pyeng Threadgill(※註 ヘンリー・スレッギル Henry Threadgillの娘)が、ゴスペルの歌唱とインプロヴィゼーションのハーモニーについて学びたいと私に言ってきたのです。彼女はしばらく勉強して、彼女の14歳の娘ルナ・スレッギル・モーダーバッヒャー Luna Threadgill-Morderbacherにもゴスペルの歌唱を経験させたいと決めました。一緒に3人で歌っているといい感じだったので、「これは記録しないと」と思いました。リチャーダ・エイブラムス Richarda Abrams(※註 ムハール・リチャード・エイブラムス Muhal Richard Abramsの娘)が何年間も公私ともに私のもとで勉強していて、彼女も入れれば完璧ではないかと感じました。4人のうち3人がハーモニーを担当するのです。これはそんなふうにはじまりました。AACMのムハール・リチャード・エイブラムスを称えるシリーズで演奏する機会がありました。ムハールは最近亡くなりましたが、AACMの初代総裁・共同創始者です。私たちは、50年代以降の女性のゴスペル歌手たちを称えました。
HD: 他のアーティストを称えるといえば、今年のウィンター・ジャズのパネルのひとつは「喚起」でしたね。あなたは1980年に『Salutes Bessie Smith』を録音しています。ベッシー・スミス Bessie Smithの仕事につらなり、ご自身のやり方で表現するのはどのようなものだったのでしょうか。
ACM: ベッシー・スミスの曲を演るというアイデアは、Leo Recordsのレオ・フェイガン Leo Feigin が出したのです。それで私はベッシー・スミス曲集を買ってきて、すべての曲を読んでみたのですが、彼女の音楽がとてもスピリチュアルだったのだと気付きました。ブルース、ゴスペル、ラテン、どんなスタイルでも演奏できます。歌詞は現在起きていることでした。彼女のブルースの中には喜劇がありますが、実体験に基づく深刻な物語もあります。とても興味深く思いました。
HD: アルバムに収録する曲はどのように選んだのでしょうか。
ACM: ベッシー・スミスのクラシックスのソングブックを読んで、本当に好きと思える曲を選びました。「Jailhouse Blues」は私に本当に語りかけてきました。こんなふうにはじまるのです。「神様、神様、神様。この家が襲われそうになっています(Lord, lord, lord. This house is about to get raided.)」。当時、家賃を払うために多くの人たちが家でパーティを開いていましたが、そのようにしてお酒を飲んでお金を得ることは違法でした。警察が来ては彼らを皆投獄したのです。このブルースでは、彼女はひとつのヴァースに何かを書いて、次のヴァースではまったく違ったことを書いています。それほどに自由です。彼女のブルースは開かれていて、「Dirty No Good Blues」なんてユーモラスですけれどシリアスでもあります。こういったことがいまでも起きているので、人びとが物語と関連づけられるのです。
HD: そうですね。昔の黒人女性は、ミュージシャンであれば、そのような場を使って、女性(特に黒人女性)が従来の公共の場では無理なことを言うために使っていました。
ACM: 女性が客間や家で演奏しなければならなかったからです。ルイ・アームストロング Louis Armstrongの妻リル・ハーディン Lil Hardinのように。彼女は偉大な人でした。演奏も歌もできる多くの女性にとって、パフォーマンスの場は限られていました。しかし、ベッシーは強くて、9歳のときにはお金を稼いて家族を助けるために、ストリートで歌っていました。彼女は美しいミュージシャンです。
それからマ・レイニー Ma Raineyがいました。ベッシーも一緒に仕事をしています。彼女はヴォードヴィルのテントで演りながら車で南部を旅しました。ベッシーがショウをやったときには、外にテントを張ったそうです。ダンサーのひとりが中に入ってきて、ベッシーに、クー・クラックス・クラン(KKK)が外にいると言いました。ベッシーは外に出て、「ここから立ち去りなさい」と言い放ったのです。彼女はKKKを恐れませんでした。
HD: あなたはインプロヴィゼーションの場でもよく演奏していますね。ご自身の音楽をどのようにとらえていますか。スピリチュアルであると同時にアヴァンギャルドでもあるということでしょうか。
ACM: もとより自分の音楽がスピリチュアルなのかどうか知りません、人びとはそう言いますけれど。アヴァンギャルドに関して言えば、その言葉は好きではありません。屋根の上にのぼってピアノを投げるようなものに聞こえるからです。もちろん前衛音楽を意味するのだろうということはわかりますけれど、私は特にそのようなことは気にしません。
私は「拡張形」(extended forms)という言葉を使うのが好きです。ムハールが使っていました。音楽は開くものだからです。私は、「Misty」や「Moonlight in Vermont」といったスタンダードを演奏するような場で育ちました。AACMに加入したら、ロスコー・ミッチェル Roscoe Mitchellやムハールがいて、音楽を開いていたのです。それはいつも同じ形ではなく、音楽が育っていて、好きでした。そんなふうに、演奏されるときには常に新しく眼が醒めるようなものでした。それで私も始めたのです。
音楽を拡張すれば、音楽は育ちます。クリエイターには、私を活用してそのように音楽を演奏して欲しいです。
HD: あなたの2枚目のアルバム『Song For Mother E』には、どのような創造プロセスがあったのでしょうか。
ACM: まず、フェローン・アクラフ Pheeroan akLaffとのデュオをやろうと決めました。ふたつのコードを書いたら讃美歌のようになりました。でも今ではマザーEはそこからかけ離れています。普段曲を書くと、いくつかは何年か経って本当に落ち着き場所を見つけるのです。CDでのマザーEはとてもシンプルですが、それははじめての演奏だったからです。マザーEとは私の母親のエリアノーラ Eleanoraのこと、CDは母に捧げました。コーラス、パイプオルガン、パーカッションのインプロヴィゼーションを想定して「Have Mercy Upon Us」を書きました。そのとき、インプロヴィゼーションの設定でオペラの声を聴かせたいなと決めたのです。それで、パイプオルガン、ドラマーふたり、歌手16人を集めました。歌手はアルヴィン・エイリー Alvin Aileyの聖歌隊。このビルに住む女性もいました。何度も共演して、まったく異なったものになりました。とても印象的で、拡張されたものになったのです。
HD: マザーEとは「Mother Earth」なのだと思っていました。あなたの初期の活動の話をしましょう。ずいぶん前、AACMに加入してどうでしたか。初期のエネルギーはどのようなものだったでしょうか。
ACM: 素晴らしかった。もう何年もこのことを繰り返し話しています。蜂の巣をつっついたような活動でした。メンバーになってから皆がやっていることを見たら、たくさんの愛がありました。ジョセフ・ジャーマン Joseph Jarmanはさながらマルチシアター。ロスコーはいつも煙草入れを持ち歩いていて、中身を入れてくれないかと聞いていました。翌週にはその煙草入れからなにかを取りだしてその人に贈ったりするのです。私はキーチェインに付ける小さい骨をもらいました。ははは、手放せませんね!
彼らはAACMであらゆることをやっていました。単に歩いていって参加するというのは無理です。私は学校で教えるために越してきたのですが、アジャラム Ajaramuがその私をAACMに入れてくれたのです。彼はドラマーで、当時のボーイフレンドでした。そのときに、音楽の道に進みたいと思い始めて、もっと切り開いたのです。音楽を演奏し、信頼し、自由になるのはとても愉しいことでした。もちろんテクニックのための練習はしますよ。でも、もっと重要なことは、オープンになり、魂が自分の中から出てくるようにすることです。私がAACMで学んだことはそれです。
クラブはシカゴの南側に集まっていて、北側に移動しつつありました。クラブが閉鎖される頃は、5ドルで入っていました。シーン全体が変わっていたのです。
学校で教えるのを辞めたのは音楽を切り開くことに専念するためでしたが、稼ぎがなくて、シカゴの教会で演奏し始めました。十代になる頃にやっていたことですし、何だか後退しているような気がしました。それで、ニューヨークかLAに行く必要があると思ったのです。しかし、すべてはAACMとともにありました。AACMは私にとって永遠の存在です。(アミナは胸の前で腕を組んだ。)
HD: ブラックパンサー党については?映画は観ましたか?
ACM: 凄かった。観たら誇らしい気分になりました。美しかった。
HD: メアリー・ルー・ウィリアムス Mary Lou Williamsの生誕百年を記念してあなたが作曲したことについても聞きたいと思います。どのような意図で作曲なさったのでしょうか。
ACM: 私がやらなければならなかったのです。メアリー・ルーに会って、家にも招待されました。彼女のために演奏して、「歌も歌います」と言いました。「Fine and Mellow」を演ったと思います。彼女は、「OK、歌えるのですね」と言ってくれました。
HD: あなたをテストしなければならなかった、ということでしょうか。
ACM: 彼女が「歌わないで」と言ったから、歌おうと決めたのですよ。たぶんそれで「Fine and Mellow」を演って、私が歌えることを知ってもらおうと思ったのです。彼女はその時代の偉大な偉大な作曲家でした。何でも書きました。セシリア・スミス Cecilia Smithがブルックリンでマリンバを演奏したとき、メアリー・ルーのアレンジを使いました。私たちはバンドと聖歌隊とともに演奏しました。このときはじめて彼女の長い曲を見たのです。彼女は熟練した作曲家です。私も全貌がつかめません。
彼女はこの曲をデューク・エリントン Duke Ellingtonのために書きました。私たちは、「難しすぎるからデュークも演奏しなかったに違いない!」なんて言っていました。難しかった!
HD: ワオ!メアリー・ルーはそれほど天才的な作曲家でもアレンジャーでもあったのですね。そのことが前よりは知られるようになってきています。
ACM: 亡くなったあとに知られるのは、よくあることです。他にドロシー・ドネガン Dorothy Doneganも良いピアニストでした。彼女のヴィデオがあって、キャブ・キャロウェイ Cab Callowayと一緒に出ています。人びとは彼女がドロシーだと知らないのですが、彼女のピアノと歌はみごとなものですよ。2台の白いグランドピアノです。
HD: 2台のピアノと言えば、あなたとムハール・リチャード・エイブラムスとのデュオ作品を思い出します。
ACM: はい。ムハールと私とのデュオでヨーロッパツアーをやりました。ムハールとは『Lifea Blinec』とか、何枚かのアルバムを出しました。好きな盤ですよ。彼は刺激的で、コンサートで彼を聴くたびに、家に帰って演奏したくなりました。それが演奏しながら彼から学んだことです。
レスター・ボウイ Lester Bowieとも共演しましたし、アート・アンサンブル・オブ・シカゴ Art Ensemble of Chicagoともいちど、ブルースのプロジェクトをやりました。それからジョセフ・ジャーマンは「If you never sat down/on a pillow that’s round」なんて歌詞の曲を書いてくれました。「Hail We Now Sing Joy」という、瞑想的なブルースです。ああ、美しい歌。
パリで、ロスコー、ジョージ・ルイス George Lewis、私でコンサートをやりました。私の更衣室は彼らの隣。いちどならず、演奏しようとする内容について話し合いました。ロスコーはパリに画家の友人がいて、彼は、私たちの演奏中に神を見たと言いました。いい褒め言葉です。
私は単に演奏しているだけではありません。意味があるのです。意味がないことだってあるだろうと言われるかもしれませんけれど。私が大学にいたとき、オーネット・コールマン Ornette Colemanがジュークボックスに入っていました。何なのか知りませんでしたけれど、好きでした。黒人のクラブに行くような人たちはオーネットが好きで、だからジュークボックスにもあったのですよ。
HD: ロスコーと共演して、音楽が身体の中を通過したとおっしゃいましたね。リスナーとして予期しなかったことだったけれど、ご自身を開いてこの種の音楽を受け容れたということですね。
ACM: 他者を聴かなければなりません。ときには演奏しないときでも。音楽は飛翔させてくれるものです。自分自身を信じ、その感覚について理解しなければなりません。オープンになって、恐れないこと。
恐れてはなりません。アート・ブレイキー Art Blakeyが私に「恐れるな!」と言いました。私も「恐れてはいません」と答え、アート・ブレイキーと共演しました。美しい体験です。彼は、「あなたはメアリー・ルー・ウィリアムスみたいだね」とも言ってくれました。「恐れるな」、「アート、私は恐れてはいません」。
HD: 彼はあなたを恐れさせようとしたのですか?
ACM: みんなメアリー・ルーのことを愛していて、私が彼女のようにみえてピアノを弾いてもいたから、彼も私を好んでくれたのです。ウォルター・デイヴィス Walter Davisが彼のバンドのピアニストでしたが、出たり入ったりでした。ジョアン・ブラッキーン Joanne Brackeenと私だけが、メッセンジャーズで演奏した女性なのですよ。歌えるんだとアートに言ったところ、メッセンジャーズで歌ったりもできたのです!彼と共演することは美しい体験でした。とても刺激的でした。アートはドラムスを演奏する間も叫んでいて、周りを見渡しては「アアアア!恐れるな!」なんて。
それはいちどだけのギグでの共演です。彼はすぐにこう言いました。「パスポートを作ってブラジルに行こう、パスポートを作ってブラジルに行こう」。77年か78年のことです。
HD: レスター・ボウイとも共演なさったのですね。バンドのこと、それから同じ78年のレコード『African Children』について教えてください。
ACM: 良い経験でした。アーサー・ブライス Arthur Blythe、マラカイ・フェイヴァース Malachi Favors、レスター・ボウイ。楽しかったですよ。彼らとの共演は良いものでした。みんな若かった。紅一点であることもしばしばでしたけれど、みんな丁寧でした。音楽は良くて、ただ演奏しました。グループも楽しみました。レスターのNYオルガンアンサンブル、ブルース歌手のシカゴ・ボー Chicago Beauとヨーロッパツアーもやりました。
大事なことは、触れて、人びとを触発して、愛を与えることです。
HD: いまの仕事について。
ACM: アーチー・シェップ Archie Sheppと、霊歌などのプロジェクトを進めています。彼は今2曲のゴスペルを作曲していて、私がそれを歌います。彼と共演するのは面白い……。彼はストリングスを入れたビッグバンドを組成し、ツアーもしています。
HD: テーブルの上に交響曲のスコアらしきものがありますが、これは?
ACM: 「Night」という名前の交響曲を完成させようとしているところです。
ここに87頁の交響曲もあります。ハリエット・タブマン(※註 奴隷、後に奴隷解放運動家、女性解放運動家)という題名です。これに何年も取り組んでいます。バンジョーの演奏から始まります。奴隷が、奴隷小屋でささやかに愉しんでいるのです。この場面では振付もしていて、ふたりが関心を持ってくれています。弦楽四重奏で、人びとが踊っているのは農業小屋です。私は、奴隷小屋でバンジョーを愉しむ人が逃げ出す場面から始めたかったのです。振付師のひとりは、舞踏室でハリエットが客に食べ物を運んでいる場面で始めることを考えました。そこでは白人たちがワルツで踊っています。もうひとりの振付師が私の案に乗りました。それから、タブマンがシャーマン将軍(※註 アメリカ南北戦争における北軍の軍人)を助けています。彼女は若い時に奴隷主に頭を殴られたために、てんかんを起こしていました。ここでは彼女の声をヴィオラで表現しています。彼女が意識を失うと、弦楽四重奏が入ってきて演奏し、翌朝起きるところでピッコロやフルートの音を当てます。だから演奏は主に夜の場面です。
HD: たぶん、財務省が新紙幣にハリウッド・タブマンを刷ったときの除幕式で、この曲が使われますよ。(※註 2020年に発行される新20ドル札の表面に、タブマンがデザインされる予定である。)
ACM: ああ、それは良いですね!
(文中敬称略)
【翻訳】齊藤聡(Akira Saito)
環境・エネルギー問題と海外事業のコンサルタント。著書に『新しい排出権』など。ブログ http://blog.goo.ne.jp/sightsong