ニューヨーク:変容する「ジャズ」のいま 第4回 ジェン・シュー:古代と現代を繋ぐ芸能~インターメディア~
Text and photo by 蓮見令麻 Rema Hasumi
土着文化、伝統、実験、革新、都会、舞踏、土、ステージ、儀式、夢、昔話、紡がれる歴史、切り開かれる今、月琴、唄と踊り、ヴィジュアル・アート、自然。
ジェン・シューの表現する世界に思いを巡らせてみると、キーワードが次々に浮かんでくる。
彼女の創りあげるものについて、一言で説明することは到底できそうにない。
それはあらゆる角度へと表現の枝を伸ばす立体的な芸術作品であると同時に、多言語、多文化を渡り歩き、一見して関連性のないように見えるもの同士を繋ぎ合わせ新しいものを構築する、ある種の現代的ユートピア思想のシニフィアンとして捉えることもできる。
多才な経歴
今春、ジェイソン・モラン、フレッド・ハーシュ、ヘンリー・スレッギルなどの著名アーティスト達と並び、ジェン・シューはドリス・デューク・アーティスト賞を受賞した。
彼女の活動は、日本でこそ未だ知名度はさほど高くないものの、ニューヨークの音楽シーン、特にジャズのコミュニティにとってはなくてはならない存在である。さらに今回のドリス・デューク・アーティスト賞受賞により、アメリカの音楽界におけるジェン・シューの立ち位置が明らかになった。
彼女の経歴について少し説明すると、スタンフォード大学をオペラで卒業した彼女の専門はもともとはクラシック・バイオリン、そしてバレエだったが、クラシックピアノの腕もまた素晴らしく、13歳にしてシンフォニー・オーケストラとの共演を果たしている。
それぞれ東ティモールと台湾出身の両親を持つアジア系アメリカ人であるジェンは、十数年前からアジア各地などに渡り、現地の伝統音楽と伝統舞踊を研究し始めた。ニューヨークとアジア各国を行き来する合間にも、スティーブ・コールマンのアルバムなどにボーカリストと参加し、また、女性アーティストのリーダー作としては初めてPi Recordingからベーシスト、マーク・ドレッサーとのデュオ・アルバム『Synastry』(Pi Recordings, 2011)をリリースした。
そんな彼女の最新作、『Jen Shyu & Jade Tongue / Sounds and Cries of the World』(Pi Recordings, 2015)についてまず紹介したい。
このアルバムには、ダン・ワイス(ドラム)、トーマス・モーガン(ベース)、アンブローズ・アキンムシーレ(トランペット)、マット・マネリ(ビオラ)が参加しているが、楽器編成としては、マネリのビオラとジェン・シューのボーカルの絡み合いが独特の音楽観を作り上げるのに一役かっている。
楽曲の構成や、ダン・ワイスとトーマス・モーガンの演奏アプローチには非常に現代ジャズ的な音が聞こえるのだが、同時にこの二人の紡ぎ出す音のキャンバスには、良い具合に崩されたリズムと絶妙な「隙間」があり、そこに上質の絹でできた布の様に潜り込んでいくジェン・シューのボーカルとマット・マネリのビオラが、音と音の「隙間」を繋げ、空間を伸縮させていく。
この作品は、母親の故郷である東ティモールを2010年に初めて訪れた時に見た数々の印象深い夢をもとに作られたと彼女は私に教えてくれた。前作品『Synastry』では、マーク・ドレッサーとのコラボレーションという意味合いが強かったのだが、今回の『Sounds and Cries of the World』を制作する前にインドネシア、東ティモールに渡った当時、何かとても個人的な創作経験が訪れる予感がしていた、と。
その言葉通り、『Synastry』で表現された、ベースとボーカルのみのミニマルなインプロビゼーションの世界とはうってかわって、この作品では沢山の物語が饒舌に語られている。それは、ひとりの人間の、他者との関わり合いの中で紡がれた個人的な物語の音楽という言葉を用いた朗読とも呼べるかもしれない。
銀色の鵞鳥の唄
3月の終わりに、ジェン・シューの新しい戯曲、『Song of Silver Geese』のプレミア・コンサートが行われた。このパフォーマンスが行われた会場、ルーレットの公式ウェブサイトには、「多言語的儀式音楽演劇」として紹介されている。この紹介文を見ただけでは首をひねってしまう人も多いかもしれないが、一度彼女のステージを実際に見ることがあればきっと納得がいくだろうと思う。
まったく新しい形のパフォーマンスであるからこそ、言葉ではそう簡単に説明がつかない。だがそれは確実に演劇であり、舞踏であり、音楽がもちろん主体にあり、儀式的であり、そして多言語を通して表現されたひとつの舞台なのだ。
この日ステージに立ったのは、ジェン・シュー(ボーカル、ピアノ、月琴、伽耶琴、舞踏)、ダン・ワイス(ドラム)、トーマス・モーガン(ベース)、マット・マネリ(ビオラ)、クリス・ディングマン(ビブラフォン)、アナ・ウェバー(フルート)からなるグループ「ジェイド・タン」に、クラシック、現代音楽など広く活躍する弦楽四重奏団、ミヴォス・カルテット、そしてサトシ・ハガ(舞踏、振り付け)だ。
ステージの手前にジェイド・タンが構え、後方にミヴォス・カルテットの四人が観客に背を向ける形で座った。ジェイド・タンのエキサイティングなリズムとインプロビゼーションにミヴォス・カルテットの織りなす美しい四重奏が加わり、物語のムードが少しずつ形作られていく。その上にひとつひとつの曲を、ジェン・シューは楽器や言葉を変えながら唄っていくのだが、それはさながら、古代の宮廷舞踏音楽を思わせるほどに、伝統的な風情を持ち、芸能の成り立ちそのものに忠実な出で立ちのものであった。
ステージの空間を最大限に生かしたサトシ・ハガの舞踏も圧倒的な存在感をはなっていた。
このステージを見た数週間後に、私はセシル・テイラーと田中泯の共演を見ることとなったのだが、それは舞踏というパフォーマンスの素晴らしさを実感する出来事となった。
セシル・テイラーのパフォーマンスにおいても、詩の朗読や踊りなどの要素が頻繁に取り入れられてきたことはよく知られていると思うが、このアプローチが、いわゆるインターメディアと呼ばれるものだ。さまざまな芸術的媒体を取り入れ、従来のように一面的でなく、より多面的に芸術を捉えるというやり方である。
このようなアプローチをとっている音楽家というのは、現代のいわゆるジャズシーンにはほとんどいないように思えるが、例えばアート・アンサンブル・オブ・シカゴやサンラ・アーケストラがやっていたことなんかはインターメディアのひとつの形であると言うことができると思う。
もともと、古代の人間にとっての音楽というのは伝統儀式にかかせないものであって、当時の人々は例えば仮面だったり特定の衣装を着用してそれぞれの儀式に望み、そこには身体表現:踊りも否応なく存在していたということを考えれば、このインターメディアというやり方は我々人間にとってごく自然な形の表現技法であるように私には思える。それに加え、音楽の無価値化のすすむ現代社会においては、その場所に実際にいなければ体験することのできない包括的な表現体系を持つということ、その根源的な強さは、何か不敵な予感を我々にもたらしてくれる。
インタビュー
3月のある日、ジェンがインタビューに答えてくれるというので、アーユルヴェーダの食事を出すカフェで落ち合い、温かいチャイを片手に私達は深く会話に没頭した。
ここでは、ふたつの質問とそれに対する彼女の答えを紹介したいと思う。
蓮見: 非西洋的な音楽要素を、「ジャズ」またはそれに近い音楽に取り入れることはあなたにとってどのような意味を持ちますか。
シュー: ふたつまたはそれ以上の異なった背景を持つ音楽の要素を混ぜ合わせる時、その瞬間は、それを意図して行っているわけではありません。
だけれど、私が芸術的表現を行う理由のひとつに、西洋に向けて、東洋文化の影響を受け継いだ音楽を通した新しい視野を紹介するという目的があります。ステレオタイプはまだはびこっているし、たくさんの素晴らしい音楽が世界に知られることなく埋もれています。例えば東ティモールの伝統音楽なんてほとんどの人が知らないと思いますし、記録自体がされておらず、主流のメディアで知ることはまずできません。この音楽を私は多くの人に知ってほしいし、実はそこにはネイティブアメリカンの音楽やアフリカ音楽に通じる部分があるということも紹介したい。もっと多くのレファレンス、<参照となる対象>を音楽リスナーに与えたいのです。
例えば、日本の音楽はこんなもので、中国の音楽はこんなもので、という大体のイメージのようなものを持っている人々は割と多いと思いますが、私達(アジア各国)が持っているもっともっと多様な音楽の形を人々が知る機会が増えることは素晴らしいことだと思うのです。そういたことがいつも私の創作への大きなモチベーションのひとつになっています。
まだ小さかった頃に、私は周囲の大多数が白人という環境で育ったのですが、私のことを見てクラスメイトは中国人でしょ、と言うんです。そこで私は「私のママは東ティモールの出身だから中国人とは違うのよ。東ティモールって知ってる?」と返します。私はその頃から、人種差別というのは無知から生まれるものだと理解していました。だから、もしその子がきちんと私と話をした結果として私達が友情を築くことができたら、その子が他のアジア人の子に対して傷つけるような言動をとることはもうないだろうと確信したのです。
でも、作曲する時にこのような内容のことを考えることはもうほとんどありません。
ただ、このような経験からくる背景は、私の創作するものの水面下を流れるひとつの潮流になっていることは確かです。
私は、ふたつの一見相容れない様に見える要素の間に立って、その両者を繋げる役割を担うのが好きなのです。この感覚が自然であればあるほど、音楽的表現においての「関係性」もより自然に、より真実味を帯びてくると思います。
一貫して「新しいもの」を作りたいということもいつも思っています。
(古い音楽を参照にして新しい音楽を作る時)原型の音楽の断片がわかりやすく反映されていればいるほどに、その再構築された音楽は「新しい」とは到底呼べないものになってしまうと思うのです。
そういうパターンを何度も見てきました。物事は変容し続けるべきです。
蓮見: アーサー・テイラーの『Notes and Tones』を読んでいると、多くのミュージシャン達が「ジャズは黒人的経験に基づいた文化である」という話をしています。現代の私達が「ジャズ」と呼ぶ音楽は、ここ過去十数年の間に、より普遍的で多人種的な言語となり得たと思いますか?また、そういった変化があるとすれば、アメリカという国自体の社会的変化との関連性はあると思いますか?
シュー: ジャズが黒人的経験から生まれたということは否定しようのない事実です。ジャズと呼ばれる音楽の素晴らしい録音の数々を私達は聞くことができて、その経験がまた、アメリカそのものに影響を与えたと思います。私達アーティストは、社会における理想主義者なのであって、その私達が、社会の向かう方向をさだめる羅針盤になっているといっても過言ではありません。そんな理想の世界に身を置くからこそ、あまりにも急進的な考えを持つアーティストの友人達ばかりに囲まれていることになりますが、そうするとこの国の別の場所には全く異なった考えを持つ人々が居ることを忘れてしまいがちですけれど。
とにかく、本当の変革を求めるのならば、音楽をひとつの場所からまた別の場所へ送ることもひとつの手立てですが、正面と向かって誰かと話し合うことが必要になると思います。そういった理想主義だとか、社会をどこに向かわせたいのかという意志においては、すべての文化のすべての人々が協力して進んでいくことが必要だと思うのです。
私がベイエリアに住んでいた頃、私は数人のアジア系アメリカ人のアーティスト達に師事していたのですが、彼らは当時、ジャズの伝統を継ぐアフリカ系アメリカ人のミュージシャン達の手助けをし、また一緒に活動をしていました。アジア系アメリカ人である彼らにとっての苦難というのは、「アメリカ人」になりたくてもなれないというもので、それは当時のアフリカ系アメリカ人達の公民権運動と平行して存在する別の種類の苦難でした。移民である苦労、平等への希望、人種差別、そういうものを私達は今でも共有しています。
ジャズという音楽は、個人の尊重、表現の自由をはじめとして、あなた自身の声をあげること、あなた自身の表現を表現すること、それを通して社会に貢献することを提言する芸術であって、そういうジャズの特性というのは本当に素晴らしいものです。これはある意味では伝統と呼べるものかもしれませんが、ジャズの素晴らしさというのは、自身の核を見つけること、そしてそれをどのように表現するか考え出すこと、唯一無二のものを作り出すということにあるのです。
表現の自由を追求することについて、誰かが教えてくれる機会というのはほとんどないと思いますが、ジャズを通してその経験をすることで、社会において自分自身がどのような立ち位置にいて、何をしようとしているのかということをより明確に理解することができると思います。
現代アメリカとその表現者達
ジェン・シューが話してくれた、アジア系アメリカ人の「アメリカ人になりきれない」苦難というのは、アメリカという国そのものが反映されるジャズの媒体におけるアジア系アメリカ人の立場についても示唆する。このことについてはヴィジェイ・アイヤーも話をしているが、アイヤーやジェン・シューの様なアーティストが、自らの民族的アイデンティティや、その文化から受けた影響を反映させ、ジャズの媒体を通して画期的な表現のかたちを創り出しているということは本当に素晴らしいことだと思う。ただ、ひとつ述べておきたいのは、本人達は多くの場合、「ジャズ」ミュージシャンと呼ばれることを好まなかったりする。それはまた、「ジャズ」という呼び名の由来がもともと差別的なものであること(※)、その呼び名が私達の芸術的感性の幅を狭める可能性があるためだと推測する。このスタンスについては本当に沢山のいわゆる現代「ジャズ」ミュージシャン達が述べているので、機会がもしあれば日本の批評家やリスナーの方々もこのことについて是非考えをめぐらせてみてほしい。
この文章を書いている今日は、奇しくもマルコムXとユリ・コウチヤマ(日系アメリカ人の活動家)の誕生日だ。マルコムXそしてキング牧師が暗殺され、60年代後半から70年代にかけ公民権運動は終結した。だが、2016年の今、アメリカにはブラック・ライヴズ・マター運動があり、それは例えばケンドリック・ラマーの音楽に繋がっていく。アメリカがより多民族的な社会になりつつあることにより、マイノリティ達が「私達もここに存在している」と声をあげ、その声を反映できる表現者達が表舞台に出てきた。かつてアフリカから渡ってきた黒人達が、自身の音楽を忘れることなく、コンゴ・スクエアに集まってリズムに身を委ねたように、アジアから移民として渡ってきた者達にもそれぞれの血に流れる旋律やリズムというものがあるはずで、それを堂々と臆することなく表現することは現代社会における多様性への寛容をうながしてくれるはずだ。そしてその温床が、ジャズの共同体となることは、ごく自然な成り行きに思える。「ジャズ」と呼ばれる音楽そのものが、海を渡り続け多種多様にその形を変化させ続けてきたディアスポラなのだから。
(※)アーサー・テイラー著の『Notes and Tones』では数人の音楽家達によりこの話がされている。
ロン・カーターはジャズという言葉のもともとの意味は「性交」だったと述べ、ジョニー・グリフィンは「白人が作った差別的な言葉」だと述べマックス・ローチは「売春宿」の名前だったと述べている。
言葉自体の起原にとらわれず、ジャズという名前のついた音楽の築いた功績とその素晴らしさに焦点をあてるべきだという声もあると同時に、「誰かが自分たちの音楽に勝手につけた名前」であるという意識は往々にしてあったようだ。