#43 女たちのムーヴメント in 1980’s:
フェミニスト・インプロヴァイジング・グループ、イレーネ・シュヴァイツアー、カネイユ
text by Kazue Yokoi 横井一江
私がフリージャズ/即興音楽におけるフェミニズムを知ったのは1987年のことだった。この年、初めてメールス・インターナショナル・ニュージャズ・フェスティヴァル(以下メールス・ジャズ祭と略する。現在の名称はメールス ・フェスティヴァル)を訪れた私は、その年のテーマのひとつが「女性」であることを知るのである。
なぜメールス・ジャズ祭に行こうと思いたったのかということから話を始めよう。当時、私には行ってみたいフェスティヴァルは3つあった。イタリアのピサ・インターナショナル・ジャズ・ミーティング、スイスのジャズ・フェスティヴァル・ヴィリサウ、そしてドイツのメールス・ジャズ祭で、いずれもレコードから知ったフェスティヴァルだった。ピサは『Schlippenbach Trio /DETTO FRA DI NOI: LIVE IN PISA 1981』(Po Torch)、ヴィリサウは『John Tchicai – Irène Schweizer Group / Willi the Pig: Live at the Willisau Jazz Festival』(Willisau Live Records)、そしてMoers Musicからリリースされていたレコードから、それらのフェスティヴァルの存在を知り、興味を持ったのである。今考えれば、相当な変わり者だったと言っていい。メールスはジャズ評論家の故副島輝人他が書いていた文章でフリージャズ・ファンには知られていたものの、ヴィリサウに関してはその存在すら知られていなかった。だが、ピンクの豚が横断歩道を歩いているシルクスクリーンのジャケットがひどく気に入ったこともあって、当時定期購読していたジャズ雑誌 Cadance か CODA のどちらかに載っていた広告を見て興味を持ったのだと思う。ちなみにヴィリサウのオーガナイザー(1975〜2009)のニクラウス・トロクスラーはグラフィック・デザイナーとして著名な人で、ポスターやアルバムのジャケットデザインなども手がけており(『Willi the Pig』のジャケットもそう)、日本でも個展を行なっている。実際に行ったのはメールス・ジャズ祭だけだったが、奇しくもピサのオーガナイザーだったフランチェスコ・マルティネリとヴィリサウのトロクスラーとは後に会う機会を得た。縁は異なものである。
前置きだけで長くなりそうなので、本題に戻ることにする。1987年のメールス・ジャズ祭には女性のみのグループが4つ出演していた。その年のテーマのひとつが「女性」であることを知ったのは、プログラムに4ページに亘って「女性のジャズ」という文章が掲載されていたからである。日本から訪れた私にはそのような視点があったこと自体に驚かされた。当時、日本のジャズ界では女性の歌手やピアニストはいても、それ以外の奏者は稀だったからである。フリージャズの女性ミュージシャンといえば、イレーネ・シュヴァイツアーこそ知名度があったが、それ以外はほとんど知られていなかった。
4つのグループは、その年ベルリンに移住する高瀬アキとマリア・ジョアンのデュオ、カナダのカルテット「ワンダー・ブラス」、ドイツの若手ビッグ・バンド「ライヒリッヒ・ヴァイブリッヒ Reichlich Weiblich」は後に女性で初めてアルバート・マンゲルスドルフ賞を受賞したウルリケ・ハーゲやサックス奏者シビル・ポモリーンの作品を演奏していた。そして、スイス、デンマーク、オランダ、フランス4カ国のミュージシャン、イレーネ・シュヴァイツアー(p, ds)、アニク・ノザティ (voc)、マリリン・マズール (perc)、アンヌマリー・ローロフス (tb)、コ・シュトライフCo Streif (reeds)、ジョエル・レアンドレ (b, performance) による「カネイユ Canaille」。ちなみにカネイユとは悪党、ごろつきという意味である。他にスペシャル・プロジェクトでは、ペーター・コヴァルトの招きでブッパータルに滞在していた日本を代表する詩人白石かずこがコヴァルトと教会でポエトリー・リーディングを行い、最終日のアフターアワーズにディー・レーレDie Röhreでハンス・ライヒェルとツアー中の、これまたブッパータルに滞在中だった日本の女性サックス奏者の草分け早坂紗知が演奏したのも時の巡り合わせだろう。
メールスで知った「カネイユ」は、70年代終わりからの女性インプロヴァイザーの動きを調べるきっかけとなった。メールス・ジャズ祭に「カネイユ」が出演する前年、1986年にフランクフルト、そしてチューリッヒでカネイユという名前のフェスティヴァルが開催され、ヨーロッパ即興音楽シーンで活躍する女性ミュージシャン達が集合していたことを知る。出演したのは、イレーネ・シュヴァイツァー、マギー・ニコルス (vo)、アンヌマリー・ローロフス、リンゼイ・クーパー(bassoon)、コー・シュトライフ、ジョエル・レアンドレなどで、さまざまな編成で即興演奏が行われた。シュヴァイツアーとファブリーク・ジャズが協力してチューリッヒで開催した第二回でその存在がより知られるようになったのは、スイスの新聞などのメディアで取り上げられたからだろう。シュヴァイツアーの知名度はもちろんだが、スイスでレズビアンによる運動が起こっていたことも関係したと考えられる。カネイユ・ファスティヴァルはその後も毎回場所を変え、その土地の女性ミュージシャンが主体となって行われた。これもまたミュージシャン主導のフェスティヴァルだったのだ。
シュヴァイツアーは、1984年にチューリッヒにあるローテ・ファブリークを会場にスタートしたタクトロス・フェスティヴァルを立ち上げたメンバーのひとりでもある。このこともカネイユ・フェスティヴァルがそこで行われるきっかけとなったのだろう。会場のローテ・ファブリークはチューリッヒ湖沿いにあるその名のとおり赤い煉瓦の建物で、取り壊される予定だった工場跡を改装して作られた文化施設である。当初は工場を取り壊して湖沿いに高速道路を造る予定だったが、工場を取り壊して再開発するのではなく、そこを文化施設にすべきだということで立ち上がった人々がいた。彼らは、政党と協力してモノを言うだけではなく、デモやシットインなど直接的な行動したと聞く。長い闘いの結果、チューリッヒ市からその改装資金や運営面での援助を得ることが出来たという。カネイユの録音をリリースしたインタクト・レコードの第一作は、シュヴァイツァーの『Live at Taktlos』(1986) である。タクトロス・フェスティヴァルの主催団体の一員であったパトリック・ランドルトは、ライヴ音源のレコード化を幾つかのレコード会社に持ち込んだが、全て断られたことから自分達でレコード制作を始めたのである。断られた理由は、シュヴァイツァーが当時盛んだったレズビアン・フェミニズムの運動のシンボル的存在とみなされていたことが暗に作用していたようだ。そして、カネイユ・フェスティヴァルのライブ盤が『CANAILLE International Women’s Festival of Improvised Music at the Rote Fabrik, Zurich, 1986』としてインタクト・レコードの第二作目としてリリースされる。このアルバムが出たことが、彼女達の活動を知らせるひとつの契機となったように私は思う。
ところで、カネイユ以前の女性インプロヴァイザーによる活動はどうだったのだろうか。おそらく世界で最初に女性インプロヴァイザーによるバンド、フェミニスト・インプロヴァイジング・グループ (FIG) が出来たのは1977年のイギリスにおいてだ。それはミュージシャン・ユニオンでマギー・ニコルスとヘンリー・カウのメンバーであったリンゼイ・クーパーが出会ったことに端を発する。ロンドンで最初のコンサートを開催しているが、それはシアター的な要素を取り込んだステージだった。その後、FIG はヨーロッパをツアーする。クーパーはヘンリー・カウのチューリッヒ公演に来ていたシュヴァイツァーと出会い、グループに誘う。シュヴァイツァーは、1969年のFMP主催トータル・ミュージック・ミーティング (TMM) でスポンテニアス・ミュージック・アンサンブルの一員として出演していたニコルスとは既に面識があった。1978年にシュヴァイツアーの参加で、ジャズをバックグラウンドに持つミュージシャンがFIGに加わったのである。そして、FIGはアンネマリー・ルーロフスなどを取り込んでいく。1979年にはTMMにも出演する。クリスチャン・ブロッキングの著書『This Uncontainable Feeling of Freedom』には、アレクサンダー・フォン・シュリッペンバッハはそれに批判的だったとヨスト・ゲーバースが述べているが、シュリッペンバッハ 自身は男か女かは問題ではなく、それはあくまでも演奏、音楽的なことに対してであったと語っている。それはともかく、論争を引き起こし、物議を醸したことは間違いない。1983年、シュヴァイツアーはアニク・ノザティ、ジョエル・レアンドレが参加し、ユーロピアン・ウィメン・インプロヴァイジング・グループ (EWIG)を立ち上げた 。グループ名に使われた単語が「フェミニスト」から「ウィメン」となったのには、「フェミニスト」という言葉が必要以上に政治的に捉えられたことがあったのかもしれない。EWIGにはコ・シュトライフなどの一世代下のミュージシャンも参加する。
カネイユ・フェスティヴァルには様々なバックグランドを持つミュージシャンが集ったことも時代性が現れている。そして、1990年代初頭にかけては、ヨーロッパでは女性ミュージシャンがクローズアップされ、メールス 以外のジャズ祭でも女性特集が組まれた。それにはシュヴァイツアーやマギー・ニコルスのような第一世代に続いて、コー・シュトライフのような若い世代のミュージシャンが続々と出てきたことがあったからではないだろうか。若い世代は第一世代ほどフェミニスト色が強くなかったこともあると考えられる。日本ではこのような動きがリアルタイムで取り上げられることはほとんどなかった。だが、振り返ってみると日本における女性サックス奏者の草分けである早坂紗知が頭角を現してきたのも、ニューヨークでモリイクエや天鼓が活躍し始めたのも80年代の半ば頃である。考えてみれば、日本で男女雇用機会均等法が成立したのが1985年で施行は1986年だった。やはり女性ミュージシャンを巡る状況変化にもなんらかの社会状況の変化に伴うものがあるに違いない。
しかし、女性ミュージシャンについてのメディアの取り上げ方は日本とは随分と違うものだった。日本での女性ミュージシャンの話題といえば、女性ピアニスト・ブームがあったが、それは音楽シーンから立ち上がってきたものというより、レコード会社の商品戦略から出てきた謳い文句にしか見えなかった。「女子ジャズ」という言葉もあったが、それにも「ジャズ」をいかに売るかという意図が見え隠れした。もちろんフェミニズムとは縁もゆかりもない。ここには大きな落差を感じた。ヨーロッパでは「はじめに音楽ありき」であり、女性であることを商品価値にしているのではなく、その逆でさえあったからだ。時代的に女性を取り巻く社会的状況も着実に変化してきたこともあるだろう。女性のピアノ以外の楽器の奏者も増えた。女性であるからと話題になるなどということはあり得ない。とはいえ、昨今ヨーロッパのイベントで見られるジェンダー・バランスに対する過度な配慮というのもいかがなものかと思う。音楽家にとって第一義に問われるべきなのは、音楽そのものであるべきだ。私にとっての理想は男性とか女性、あるいはLGBTなどのバイアス抜きで、個々の音楽が評価され、語られることに尽きる。
参考資料
Chiristian Broecking ,“This Uncontainable Feeling of Freedom: Irène Schweizer – European Jazz and the Politics of Improvisation” Translated from German by Jeb Bishop, Broecking Verlag, 2021
Val Wilmer, “Mama Said There’d Be Days Like This: My Life in the Jazz World” The Women’s Press, 1989
“FMP Im Rückblick – In Retrospect 1969-2010” FMP Publishing, 2010
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Reflection of Music Vol. 18 イレーネ・シュヴァイツァー@ローテ・ファブリーク、ウンエアホェルト!2007
http://www.archive.jazztokyo.org/column/reflection/v18_index.html