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CD/DVD DisksNo. 234

#1449『Todd Neufeld / Mu’U』

今月の Cross Review #2:『Todd Neufeld / Mu’U』

text by Hiroyuki Masuko 益子博之

Ruweh Records Ruweh 005
Todd Neufeld electric guitar
Thomas Morgan acoustic bass
Tyshawn Sorey drums, bass trombone (5 and 7)
Billy Mintz drums, congas (2)
Rema Hasumi voice (2, 5, 7, 8)

1. Dynamics
2. Echo’s Bones
3. Entrance
4. C.G.F.
5. Contraction
6. Taunti
7. Novo Voce
8. Kira
9. Nor

All compositions by Todd Neufeld except 3 and 9 by Neufeld and Mintz
Produced by Todd Neufeld
Executive Production by Rema Hasumi and Todd Neufeld
Recorded October 09, 2016 at Sear Sound, NYC
Engineered by Aya Merrill
Mixed by Owen Mulholland
Mastered by Luis Bacque
Design by Karol Stolarek
Photograph by Jesse Wakeman
Artwork from Swindon Viewpoint


『Mu’U』という奇異なタイトルは、日本語の「無有」であり、存在しないことと存在すること、その境界線を表しているという。この説明を知ったところで、非存在と存在の境界線は、常識が教えてくれるように自明のものなのだろうか、という素朴な疑問が湧いてきた。

普段、アラビア数字以外の数字を使うことのほとんどない私たちにとって、ローマ数字は縁の薄い存在だ。そこには、ゼロという表記と概念(および桁という表記と概念)が存在しない。つまり、存在しないことが存在しない。存在することのみがある。人間の認識の枠組みによっては、境界線どころかその一方しか存在しないことになってしまうのだ。

いや、それはあくまで数を巡る問題であって、存在しないこと、することとは別問題だと言われるかもしれない。しかし、世界、宇宙は元々万物で満たされているのであり、そのうちのどこかに何かが存在するのか、しないのかということは徹頭徹尾、人間にとっての問題、人間が認識し、判断している問題でしかない。

認識に先立つ感覚はどうだろうか? 錯視が明らかにするように、あるはずのものが見えず、ないはずのものが見えることは日常茶飯事だ。また、何かの作業中に極度に集中度が高まったとき、自分の肉体を、時には使っている道具までもまるで存在しないかのように感じてしまうことがある一方、事故や病気で身体の一部を失った人は、ないはずの部位に痛み等が生じ、欠損部分が存在しているように感じることがあるという。

人間の感覚や認識というものが、このような曖昧さを生んでいるというなら、人間の介在しない物理的な世界はどうだろう? 空気の粒子さえ存在しない真空状態はどうだろう? それは真の非存在ではないのだろうか? だが残念ながら、真空とそうではない空間を明確に区切る境界は、人為的に膜なり壁なりを作らない限り存在しない。自然の世界では、空気などの粒子の濃薄のグラデーションという曖昧な領域が広がっているだけだ。

長々と屁理屈を弄しただけに思われたかもしれないが、存在しないこと、存在することは、あくまで人間の認識や思考の枠組み、概念の問題だということを確認しておきたかったのだ。存在しないことは存在することを否定することによって顕現する。それは地と図のように相互依存的な関係にある。そして、何かが有る、無いということは単なる存在の有無についてだけでなく、特定の性質を備えているかいないかについて言及することでもある。

音楽は、音が存在する時間と存在しない時間の組み合わせによって成立している。誰かが音を発しない限り、音楽は始まらないし、音を止めない限り終わらない。音楽における沈黙と発音も、地と図のように相互依存的な関係にあると考えて間違いないだろう。そして、私たちはどのような性質を備えているのかいないのかを感じ、認識することによって、その音楽を良し悪しを判断しているのだ。

* * * * *

トッド・ニューフェルドというギタリストを知ったのは、スイス出身のトロンボーン奏者、サムエル・ブレイザー『Pieces of Old Sky』(Clean Feed/2008年録音)を通じてだった。以降、タイション・ソーリー『Koan』 (482 Music/2009年録音)、アレクサンドラ・グリマル『Andromeda』(Ayler/2011年録音)を経て本作まで続くトマス・モーガン、タイション・ソーリーとのトライアングルは、この録音を契機に誕生した。

2008年から2009年の間に、ニューフェルドはフラット・ピックから指弾きに奏法を変更している。それは恐らく技術的な要請に基づいたものではなく、ソーリー、モーガンを通じて得た菊地雅章との邂逅の結果に違いない。菊地の演奏を特徴づけているものの一つが、あの唸り声であることは言を俟たないだろう。管楽器奏者ではない多くのジャズ・ミュージシャンが、歌ったり唸ったりしながら即興演奏を展開することは良く知られている。彼らは頭で考えたり思い浮かべたりしたメロディを歌いながら弾いているのではない。彼らの即興演奏においては、指(や腕や足)と喉と呼吸が同期しているのだ。

菊地の声は、それとは全く違う。あの唸りは、指が鍵盤に触れる前から既に始まっており、指が鍵盤を離れた後にも続いている。あれは「気合」だ。人間の肉体は限界まで能力を発揮しようとすると、その負荷に耐え切れないため、通常はリミッターがかかっている。そのリミッターを外す方法の一つは、大声を発すること。音楽が生まれようとしている場に蠢く潜勢、気配を探索し、掴み取るために、菊地は唸り、「気合」を入れることで聴覚や触覚の感度にかかったリミッターを外そうとしているのだ。

だが、ニューフェルドは指と喉と呼吸が同期するタイプの奏者である。そこで、その潜勢、気配を探索し、掴み取るために、指で弦に直接触れるという方法を選んだのだろう。指で直接触れることで、ギターのボディや弦を「受信器」と成し、潜勢、気配を探索する感度を上げる。鋭さを増した感度は、沈黙と発音との境界に、ぱっくりと口を開けた無限とも思われる深淵の存在を垣間見ることになるだろう。この深淵を飛び越えようとする瞬間の畏れ、躊躇い、慄きが、発する一音一音の強さや大きさを激しく変動させ、些か滑らかさに欠けるものにしているのだろう。時に痙攣しているかのような、たどたどしく、ギクシャクしたフレーズになるのも、また然り。

もう一つ指摘しておくべきことは、ニューフェルドが極端に寡黙な演奏者であるということだ。「必要な音だけを弾く男」と呼ばれるモーガンより更に寡黙に感じられるほど音数が少ない。発音より沈黙を優先する。それは、彼が潜勢、気配を掴み取り、他の奏者の反応を引き出す役割に徹しようとしているからなのだろう。ブラジル音楽に根差したセルジオ・クラコウスキー『Pássaros』(Ruweh/2015年録音)やヴィートル・ゴンサルヴェス『VitorGonçalves Quartet』(Sunnyside/2015年録音)では一聴、滑らかで饒舌な演奏に聞こえる部分もあるのだが、それは進行中の音楽にそうした潜勢、気配を嗅ぎ取っているから

であって、根本的な姿勢は変わらない。

* * * * *

さて、ようやく本作である。件のトライアングルに加えて、二人目のドラムスにビリー・ミンツ、そしてヴォイスに専念する蓮見令麻(ニューフェルドの細君であり、レーベルの共同経営者)を迎えている。

ミンツは、ポール・モティアン没後のニューヨークで急速に評価を高めているアンドルー・シリル、ビリー・ハートといった一連の「老人力」ドラマーに連なる一人といって良いだろう。1947年ニューヨーク生まれの彼は、所謂ミュージシャンズ・ミュージシャン。デイヴィッド・ボウイとの共演で知られるマイク・ガーソンやアラン・ブロードベントといったピアニストと西海岸を拠点に長く活動を共にし、教育者としてのキャリアも積んでいる。近年はニューヨークに戻り、自身のバンドを率いつつ、活動の場を広げている。

最初にミンツの演奏を耳にしたのは、西海岸時代のトニー・マラビーの双頭リーダー2作『Tony Malaby/Joey Sellers Quartet / Cosas』(Nine Winds/1993年録音)、『Dave Scott Tony Malaby Quartet』(同/1995年録音)だった。既にこの時点でマイケル・アティアスが「まるで水のようだ」と讃える、シンバル・レガートに頼らず、身体全体で大きくリズムを取って、うねらせる流動的/流体的な奏法は確立されている。本作では、③Entrance、⑨Norの2曲をニューフェルドとのデュオで収録。②Echo’sBonesでは、コンガをオーヴァー・ダブし、ダブル・ドラムスの演奏とは異なるムードに更新させるなど、キーとなる大きな役割を担っている。

一方、蓮見は『Utazata』(Ruweh/2013年録音)で披露した日本古来の歌謡を意識した唱法を今回は用いていない。ジャズ・ヴォーカルでもなく、演劇的でも器楽的でもない、素の声を活かした歌唱やテクスト・リーディングを行なっている。冷え冷えとした重さを感じさせるその声の質感は、類例を見つけることが難しく、聴き手に深い印象を刻む。

デビュー作には後に開花する要素が全て盛り込まれていると言われるものだが、本作でもジャンルで簡単には括れない多彩な音楽性が展開されている。特に、アルバム中盤に配された最も長尺な⑤Contractionには、フリン・ヴァン・ヘメン『Drums of Days』(Neither Nor/2014年録音)やラファエル・マルフリート『Noumenon』(Ruweh/2015年録音)でも聴かれたコンテンポラリー・クラシカル、アンビエント、フィールド・レコーディング等の影響が色濃く反映されている。

その一方、⑥Taunti、⑧Kiraの2曲では、ジョン・アバークロンビーやミック・グッドリックを彷彿させるコンテンポラリー・ジャズ・ギターのマナーを発揮していて、ルーツとしてのジャズの存在を再確認できる。

構成の有無、旋律の有無、ハーモニーの有無、コード・ストラクチュアの有無、調性の有無、リズム・フィギュアの有無、歌詞の有無、そして発音と沈黙=音の有無といった多様な無と有の対比を経糸に、二人のドラマー、ギターとベースの弦楽器同士、声とトロンボーンの異なる息遣いといったテクスチュアの対比を緯糸に織り成すことで、アルバムを通して常に変化し続ける複雑な色合いをもたらすことに成功している。

ジャンルやスタイルに回収できないニューフェルドの音楽は、決して聴き易いものでもなければ、わかり易いものでもない。しかし、そこに定着された、潜勢や気配から発すべき音を掴み取り、無から有へ跳躍するその瞬間の生々しさには抗し難い重力、強度が宿っているのだ。


益子博之(ますこ・ひろゆき)

1965年、東京生まれ。ニューヨークのダウンタウン~ブルックリンの現代ジャズを中心に、周辺ジャンルへと関心を広げる。年1回のニューヨーク滞在でシーンを定点観測。「ジャズけものみちを往く」を『ジャズ批評』120~125号に連載した。『Jazz The NewChapter 1~3』、『ジャズ・サックス(ディスク・ガイド・シリーズ NO. 33)』、『ジャズ・ピアノ(ディスク・ガイド・シリーズ NO. 38)』(シンコーミュージック)等に寄稿。

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