#1566 『山内 桂|千野秀一|宮本 隆|木村文彦/LIVE AT FUTURO CAFE』
text by Yoshiaki Onnyk Kinno 金野Onnyk吉晃
jigen-019 ¥2000
山内 桂 YAMAUCHI Kastura : sax
千野秀一 CHINO Syuichi : keyboard
宮本 隆 MIYAMOTO Takashi : electric bass
木村文彦 KIMURA Fumihiko : percussio
Recorded by Sawai Daisaburo(DOMONSOUND) at Futuro Café Osaka2017.11.11
Edit and mix by Miyamoto Takashi
Mastered by Owa Katsunori
Produced by Miyamoto Takashi for Jigen Production
Photo by Kouzu Yoshinori
『山内殿、ご出陣!』
山内桂の演奏には、何度も接した。彼の真骨頂はソプラニーノサックスのロングトーン。それは彼の呼吸、いや呼気そのものである。彼の演奏は、演奏というより「吹定(すいじょう)」に近いだろう。吹定は、海童道祖が曲を奏でることにおいて法竹を鳴らす方法である。
これは気息=プネウマのexpirationであり、当然その逆のinspirationが対になっている。呼/吸のバランス、調息こそはあらゆる身体技法の根底であり、頂点である。それは同時に身体表現でもある。
楽器ではなく、音こそは演奏者にとって身体の延長である(いや、スタンドかな?)。
山内の演奏にはいつもストイックな人柄がにじみ出ていると思うのだが、間章にかなり影響されてフリーな音楽を始めたというのが、私と境遇が良く似ているとはいえ、なんと違う所に行ってしまったのだろう。彼が定年直前に退職し、音楽に専念するという覚悟を決めたのにも唸った。定年が近づく程、そこまではなんとか続けようと思う気持ちが強くなるから。私には出来なかった。
そして彼は「音響派」が話題になった頃、ジャズでもクラシックでもない、特異なサウンドと純粋な構成力によって、大いに若い世代への浸透を果たした。また海外でも、丁度ジョン・ブッチャーやミシェル・ドネダといった、まさに音響派的なサックス奏者が進出してきたなかで、独自路線を貫き、海外にもファンを獲得した。
その後はアンサンブルのワークショップを各地で開催したり、既に3本の自主制作映画を国際映画祭に出品、全国を巡回上映したり、次の一手が読めない面白さだ。
その彼がカルテットでのライブ。私は山内のフリージャズを初めて聴いたように思う。トラック4が特にそう思えるし、このアルバム内でもベストだ。
「時弦プロダクション」を主宰する宮本の持ち味は、当初ビル・ラズウェルや、アミン・アリを思わせるベースラインだが、最後にはジャーマンプログレのようなサウンドも聴かせる。
ドラムの木村とは相性のいいスタイルを感じる。河瀬勝彦門下というが背景にジャズを感じないのはやはり世代の齎(もたら)すものだろうか。
いや世代論で語るのは危険だ。だが、いきおいリズム隊(というのは語弊があるにせよ)の緩急自在パルスに対抗する2人の達人の出方に関心が行く。
実際、山内というサックス奏者は、インタープレイという概念が通用しない。まあそれは、彼と共演らしきことをした私フゼイが言うのも憚(はばか)られるが、周囲のサウンドに動じないのである。それはそれで重要な事だ。何かチョッカイを出してみたり、付和雷同する演奏者(=私)ほど情けない者はない。
嘗(かつ)て高柳昌行は、ニューディレクションのメンバーに「人の音なんて聞かなくていい」と語った。これは反語的に解釈すべきだろう。というのは他人の音が聞こえていない限り、聞かないでおくという態度には出られないからだ。それは無視というのが、最大の注視であるようなものだ。
演奏の選択のひとつには「何もしない」という両刃の剣がある。敢えて伝説のマイルスvsモンク喧嘩セッションを持ち出すつもりはないが、そこに「無音」ではなく「沈黙」があるのは共演者にとって極めて恐ろしいことでもある。バカでない限りはその沈黙にこそ一番耳が行くだろう。その意味を考えるだろう。これまた古い話だが、第一期山下洋輔トリオで、あまりにも山下と森山が丁々発止とやりあうので、中村はテーマ以外敢えて沈黙してしまったというエピソードもある。
山内桂の演奏は、沈黙でも無音でもなく、その音のシンプルさと、「間(ま)」の存在感が中心にあり、フレージングがどうのこうのというレベルではない。
話を戻せば、其の彼がトラック4では、まさかと思うような饒舌さを見せているのだ。<「フリージャズ」=「サウンドの奔流」>、という図式を肯定するのではないが、驚いた事は確かだ。
ひょっとしたらだが、千野という存在がそれを促したのだろうか。明らかにリズム隊(失礼!)は同胞一族の共感があり、それに対する千野、山内はそれぞれに幾多の山野を跋渉してきたことか。
千野のアナログシンセの闇のような音色。リチャード・タイテルバウムもかくやと思わせるような「<異>を以て貴しとなす」とも言うべき禍々(まがまが)しさがある。これではバランスが悪い(笑)。そこで山内は遂に撃って出た。初めて見る山内流空間処理。彼自身もまた鵺(ぬえ)に変容した。
しかし最後には、木村の一人サムルノリのような連打の中で、山内は何事も無かったかのような無表情なブロウをしている。
荒海の波濤、其のうねりの中に、山内の乗った小舟は彼方に消えてゆく。
このCDを聴いて、最初に私が思った事。「これを一番聴かせたいのは橋本孝之だ」。なぜそう思ったか。私が彼のアンサンブルを聞いた事が無いせいだろう。
いや、もう彼はこのCDを聞いているかもしれない。どうでしょうか橋本さん。
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