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Concerts/Live ShowsNo. 316

#1315 斉藤圭祐 × チェロしおり「Dual Archeologism」

And the music continues to evolve  vol.29「Dual Archeologism」

斉藤圭祐 (alto sax)
チェロしおり(cello)
2024年7月4日 江古田「フライングティーポット」

ライブ企画者:野田光太郎

いやはや、自分で企画しておいて言うのも何だが、この日もすばらしいライブでしたね。「こういうものが聴きたかったんだよ!」という気持ちにさせてくれる出演者にはいつも敬服のいたりです。

斉藤圭祐のサックスは驚嘆すべき達成度。今回は叙情的な内向性に絞った演奏で、「美の凶暴さ」を遺憾なく見せつけてくれた。それでいてバイタリティの強度や引き締まったソノリティの密度は落ちていません。じつによく錬磨されている。嵐の前の静けさ、嵐の最中のもの狂おしさ、そして嵐が去った後の虚脱した爽やかさ。それらが刻々と表情を変えながら訪れては去っていく。身につけた語法の豊かさと、それらを流暢にまた自然とわき出るようにつなぎ合わせたり、あるいは虚を突いて食い違わせたりする、手際は鮮やかで澱みがない。八方やぶれの攻撃性や悲痛なトーンを前面に押し立てなくても、十分に説得力のある表現をなし得ることを彼は証明した。共演者の資質を察して演奏の方向を設定し、その枠組みを抜かりなく掘り下げながら、時に突き破ったり揺さぶりをかけることで、枠を拡張しながら自己を主張していく、というバランス感覚はある種の風格や成熟すら感じさせる。こういうコラボレーションは阿部薫にはできなかったものであり、もう「あまりにも阿部薫に似すぎている」とは言わせません。

フリージャズのアルト・サックスには弦楽器を起用したフリージャズ流のバラードの系譜がある。この日の斉藤のプレイはその系譜を受け継ぎつつ現代的にビルドアップした趣がある。すなわち、エリック・ドルフィーやオーネット・コールマンに始まり、「フリージャズの吟遊詩人」と呼ばれたマリオン・ブラウン、ベースの弓弾きやバイオリンを取り入れたソニー・シモンズの「バーニング・スピリッツ」の一幕、そしてオリヴァー・レイクが「ヘヴィ・スピリッツ」で弦楽四重奏をバックに取ったソロや、チェロのアブダル・ワダドと組んだジュリアス・ヘンフィルなど。それらはビバップのイディオムをある程度消化しつつ、十二音技法以降のクラシックが足を踏み入れた不安でひび割れたサウンドにインスピレーションを受けている。スタンダード・ナンバーを背景にしたメロ・ドラマティックなモダンジャズのバラードから、より硬質で荒涼とした、現代人にふさわしい心象風景へ。凍えるような寒さの中でふと蘇ってくる懐かしさのようなものがそれだ。

かつてそれらの奏者の録音から受けた感銘を惹起されつつ、「もっとこういう風にも展開しうるのではないか?」と抱いた私の不満が、斉藤の手で見事に解消されていく。構築と方向転換を司る抜群のセンス。加えて、彼は現代の新しいフリーク・トーンを随所に入れることで、もっと飛躍の多い展開を作ることができる。多彩だが緊密に凝縮された模範的なプレイですね。フリージャズの歴史的遺産にはそのような豊かさもあるのであり、力任せのラウドでワン・パターンな演奏が「フリージャズ的」なのだという通俗的な思い込みを軽々と乗り越えていく。

チェロしおりは一つ一つの音をゆるがせにしないように弾く。私はクラシックは無知なのだが、おそらくまったく正統派の奏法で、均整の取れたフォームからわずかな手首の角度で音の高低や質感を変化させていく。「料理人によって味が変わってしまう」とさえ言われる刺身包丁での魚の薄造りを思わせる、慎重で時に思いきりのいい手さばき。日頃は抜かぬ妖刀を抜いたという感じで、陰にこもった不吉な音色で来るが、それでいてまろやかで典雅な響きは失われていない。相手の出方に煩わしく左右されずに、しかし耳を澄ませながら、己の目指す音を抽出する。手先は悠揚と、しかし頭脳は機敏に。

一見するとフリージャズとクラシックという異なるルーツの奏者が、互いを無視して勝手に各々の演奏をしているようでいて、時おり相手のフレーズを鏡のようにトレースしたり、リズミックなパターンに対して歩調をそろえて拍車をかけたりして、せめぎあいつつも噛み合った局面を生み出しながら、ふいに手を止めて、また方向を変えて自分の領分に戻っていく。この付かず離れずの間合いがユニークだ。

即興でのデュオ、それも初顔合わせともなれば、どことなく「試合」のような雰囲気が漂う。ただし何が「試し合い」されているのかというと、自分の音楽に対する確信の深さである。つまり音楽への愛、その証である日頃の鍛練と探究ということになる。チェロしおりの演奏からはクラシック音楽から受けた感銘への責任感とでもいうべきものが伝わってくる。威厳と崇高さに満ちた過去の名演奏、そこから受け取った有形無形のものを、己の手で今この場所へ甦らせ、再び生きたものとして世に放とうとしているのか、という印象すら受ける。もちろん弦を斜めに擦り下ろしてざらざらした質感を出すとか、弦を片手で押さえてさまざまにミュートするとか、あまり古典的ではないように思われる奏法もかなり織り交ぜてくるが、あくまで「奏でる」というスタンスは崩さない。昨今、楽器をノイズ発信器のように用いる奏者が多い中で、このアプローチは逆に新鮮に写る。

また相手がサックスというアタックの強い楽器でありながら、PAで最大限に音量を上げているとはいえ、力任せに対抗するのではなく、あえて細くて小さな音をも用いて、それを場に通す(聴き手の耳に届ける)ことができる。針の穴に糸を通すような所業ですね。これは自分の音色に自信があるだけでなく、相手の出している音域を察知してその裏へ回るという能力がないとできない。どの音がどこから鳴ってくるのか不分明なのだが、その蚊の鳴くような音が存在を主張する。結果として音の残像が幽霊みたいに浮かび上がるわけです。

しかしながらチェロしおりは即興演奏に恒常的に取り組んでいるプロパーではないため、フレーズや手法の持ち札はあまり多くはない。それでも擦弦楽器に疎い私には見覚えがないさまざまな技法を駆使してくれたのだが、斉藤の驚異的なフレーズの多産性の前にはどうしても受け身に回りがちになる。また展開の読みの深さや共演者への即応力ではまだ柔軟さに欠ける面がある。高名なバイオリンやヴィオラの奏者が得意とする変則的なパッセージを矢継ぎ早に繰り出す、というトレーニングを殊更に積んでいるようでもないので、斉藤の畳み込むようなギアチェンジの前では「併存」よりも「伴奏」という形になりやすい。チェロという楽器の特性からすれば、これは別におかしなことではないのですが。

セカンドセットの終盤はさすがにインスピレーションが尽きたのか、こういった弦楽器の即興にありがちな「ギコギコ」と鳴らす展開になってしまいましたが、それでも雑な弾き方にはならず、最後まで音楽への敬愛の念を貫いた。手札が尽きても「もう一手」「もう一手」と挑み続ける姿勢は称賛に値します。長時間の演奏の最中で自分の中身が空っぽになる体験は「フリーフォームの即興演奏」を作り出した人たちがそもそも目指していたものであり、真に優れた奏者になるためには必須の体験なのだ。斉藤の扇情的なサックスの音色にさらされながら、己を失わず冷静に本領を貫くことは容易ではなく、彼の演奏にここまでじっくりと付き合えたプレイヤーはそうはいないです。なんといっても彼女には「即興脳」とでもいうべき鋭い判断力が備わっており、さらなる研鑽を積むことで未知の領域を切り開くことを期待します。

何よりもこれは妥協や馴れ合いを排した真摯な即興演奏でしたね。だからこそ、思いもかけぬ調和の光に満ちた静穏な美しさや、緊迫感あふれる丁々発止の掛け合いなど、はっとするような瞬間が訪れつつも、そこに耽溺することなく、次なる未知の局面へと歩を進めていく。サブタイトルには「Dual Archaeologism」という名前をつけたが、これは企画した私のイタズラで、楽器編成を参考にした向井千惠と浦邊雅洋のデュオによる名盤「Dual Anarchism」のもじりである。Archaeologismなどという言葉は本来ないようなのだが、この二人の奏者は過去の音楽的遺産をしっかりと引き受けながら、それを巧みに組み換えて現在に活かしているところに共通性があり、その反時代的なまでに厳密な考古学者 (archaeologist) のような趣には、しかし、なぜか今、新鮮さが感じられる。それから一応、私もミシェル・フーコーの「知の考古学」なんて本の題名だけは知ってますがね。

それにしても斉藤はまたしても新たな一面を見せてくれました。リリカルでスタティックな展開でも十分に説得力のあるプレイができることを証明した。これなら勢い任せの演奏家などという誤解はもはや生じないだろう。彼の演奏へのひたむきさと軽やかな自在さの共存には底知れない可能性があり、自分はこのような演奏家が現れることを長い間待っていたような気がする。新しいジャズの可能性、即興演奏が再び創造性を取り戻すための突破口は、彼が突き進んでいる方向の先にあります。あとはどれだけの人間がそのことに気づいてくれるか、だ。

 

野田光太郎 

野田光太郎 Kohtaro Noda 1976年生まれ。フリーペーパー「勝手にぶんがく新聞」発行人。近年は即興演奏のミュージシャンと朗読家やダンサーの共演、歌手のライブを企画し、youtubeチャンネル「野田文庫」にて動画を公開中。インターネットのメディア・プラットフォーム「note」を利用した批評活動に注力している。文藝別人誌「扉のない鍵」第五号 (2021年)に寄稿。

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