#927 「マイケル・ティルソン・トーマス&サンフランシスコ交響楽団」2016年アジア・ツアー東京公演
2016年11月21日(月)サントリーホール
Reported by 伏谷佳代 Kayo Fushiya
マイケル・ティルソン・トーマス ( Sir Michael Tilson Thomas):指揮
ユジャ・ワン (Yuja Wang):ピアノ*
マーク・イノウエ (Mark Inoue):トランペット*
サンフランシスコ交響楽団 (San Francisco Symphony)
〈プログラム〉
ブライト・シェン:紅楼夢 序曲(サンフランシスコ交響楽団委嘱作品/日本初演)
ショスタコーヴィッチ:ピアノ協奏曲第1番ハ短調op.35(ピアノとトランペット、弦楽合奏のための協奏曲)*
*幕間アンコール (ユジャ・ワン&マーク・イノウエ)
ユーマンス:二人でお茶を
チャイコフスキー:四羽の白鳥
<休憩>
マーラー:交響曲第1番ニ長調
指揮者もピアニストもまったく同じ組み合わせでサンフランシスコ交響楽団(SFS)を聴いたのは4年前。今回は韓国・中国・台湾をめぐるアジアツアーのフィナーレを飾る日本公演である。過去の記事を振り返ってみて、ピアニストのユジャ・ワンは、賛否両論ありつつも、着実に自らのスタイルを進化させていると実感した。マイケル・ティルソン・トーマス(MTT)の知的かつハートフルな指揮はますます成熟味を増し、もはや静謐な凄みさえ感じさせる域に達している。前回も書いたことだが、スターふたりとこのオーケストラが全身から発するのは、アメリカ文化がもつ「ステージ力」ともいうべき、舞台芸樹の厚みである。ジャンルによらずステージ人を目指す者の成功は、苛烈な競争の果てにあり、たとえばこのユジャ・ワンに代表されるスターが身にまとっているオーラは、徹底的にプロである。聴かせ、見せる(魅せる)存在—–そこにはスターだけが課せられる、厳然たる前提条件の高さがある。
「紅楼夢」は日本初演。SFSが誇る透明感のある弦の美しさはハープも含め健在だが、楽曲自体がもつ東洋的なエキゾチズムが、二管編成のもとで華やかに会場に充溢する。スコアを入念に細分化し、パートごとのくっきりとした響きを導きつつも、ダイナミックなうねりを醸成するMTTの手腕は凄腕のひと言。オープニングが、各パートの自然なプレゼンテーションと化しているのもスマートだ。続いて、ユジャ・ワンによるシスタコーヴィッチ。大胆なスリットの入った深いグリーンのスパンコール・ドレスで登場したユジャは、その筋肉の隆々とした美しい動きそのままに、二手の絶妙なバランスのうえにたつプレイを聴かせる。トランペット・ソロとの掛け合いが聴きどころのこの変則協奏曲にあり、楽器間の対話はいわずもがな、すでにピアニストの二手が独立性に富み、まさに生龍活虎とよぶにふさわしい。あくまで軽妙なメロディラインを浮き立たせることに特化しつつも、決して軽薄には堕さないギリギリのラインをキープしている。コントロールされつくされた打鍵。挑発的な肘鉄や派手なグリッサンドよりも、ピアニシモの匂い立つような美しさが群を抜く。あらゆる音域や弱強で全く破綻のない強靭な滑らかさ。唐突に頭を急降下させるユジャ独特のお辞儀はこの日の客席から楽しい笑いを誘い、エンタテインメント性も抜群である。
後半はマーラーの「巨人」。グラミー賞にも輝いた、MTTによるマーラー・プロジェクトの醍醐味をつぶさに体感できる。長大なマーラーにおいて、冗長さを感じさせる瞬間が微塵もないところがまず凄い。細部へ冴え渡る慧眼、焦点のブレないドラマ性の構築で、多層的かつ求心力のある展開。ドイツ的な骨太のマーラーではない。しかし柔軟でウィットに富んだ指揮者の人となりが波のように伝播し、多文化を呑みこんできたサンフランシスコという街自体の来し方、寛容さが暖かなテンションとなって音楽のなかに維持されている。メンバー同志の信頼関係はもとより、地域と文化の関わりについても思いを馳せずにはおれない。(*文中敬称略。11月23日記。伏谷佳代)
*関連レヴュー
http://www.archive.jazztokyo.org/live_report/report492.html