#1342 サー・アンドラーシュ・シフ/ピアノ・リサイタル2024
2024年12月14日(土)鎌倉芸術館 大ホール
Text by Minako Ukita 浮田 美奈子
出演:サー・アンドラーシュ・シフ
使用ピアノ:ベーゼンドルファー・インペリアル
【曲目】
J.S.バッハ:ゴルトベルク変奏曲 BWV988から 「アリア」
J.S.バッハ:半音階的幻想曲とフーガ ニ短調 BWV903
ハイドン:ピアノ・ソナタ ト短調 Hob.XVI-44
J.S.バッハ:「音楽の捧げもの」 BWV1079から「3声のリチェルカーレ」
モーツァルト:幻想曲 ハ短調 K.475
J.S.バッハ:フランス組曲第5番 ト長調 BWV816
モーツァルト:アイネ・クライネ・ジーグ ト長調 K.574
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第13番 変ホ長調 Op.27-1「幻想曲風ソナタ」
ピアノ・ソナタ第24番 嬰へ長調 Op.79「テレーゼ」
ピアノ・ソナタ第30番 ホ長調 Op.109
(アンコール)
シューベルト:ハンガリー風のメロディ D817
ブラームス:インテルメッツォ 変ホ長調 Op.117-1
ベートーヴェン:6つのバガテル Op.126から 第4曲 ロ短調
モーツァルト:ピアノ・ソナタ第16(15)番 ハ長調 K.545から 第1楽章
シューマン:「子供のためのアルバム」Op.68から「楽しき農夫」
信じられないほどの音楽への集中と熱量で、音楽への恐ろしいまでの誠実さと真摯さを感じさせてくれる名演だった。16時から始まり、途中20分休憩をはさんで終演は19時過ぎ。曲目を見て頂ければわかると思うが、相当なボリュームである。シフのバッハは以前から定評があるが、それ以上にベートーヴェンのピアノソナタ3曲が圧巻であった。
近年、シフはプログラムを事前に発表をせず、当日に演奏時に本人からの紹介という形をとっている。なので、この日も曲ごとにシフ自身が少したどたどしい日本語で全曲を紹介した。これは事前にプログラムの予習をしていきたい観客には残念かもしれないが、観客にもずっと「演奏が始まる前の静寂」が大事だから集中してもらいたいと、著書【静寂から音楽が生まれる】(2019年:春秋社刊)でも語っていたシフには、いいやり方なのかもしれない。全体を通して感じたシフの素晴らしさは以下の点だ。
- 録音も素晴らしいが、生で聞く方が何倍もその凄さを感じさせる
- 曲の冒頭の1小節を弾いた、その一瞬だけで聴衆の心を楽曲の世界に引き込む力の強さ。
- 各声部の性格を驚くほど明確に弾き分け、有機的に組み合せた表現(バッハ)
- 積み重ねた音の響きがちゃんとオーケストラとして聞こえる(ベートーヴェン)
- 深い楽曲理解による、表現構成の巧みさ
1. 録音も素晴らしいが、生で聞く方が何倍もその凄さを感じさせる
私が何よりも驚いたのは、シフの実際の生演奏は録音よりも遥かに良い事だ。今まで聞いたどのピアニストよりもそれを感じた。実は私はシフのアルバムはよく聞いていたものの、なかなか都合が合わず、今回初めて実際に聞いたのだが、今まで見なかったことを深く後悔した。例えばシフには、2016年にチューリッヒのトーンハレでライブ録音された、ベートーヴェンのピアノソナタ全32曲のアルバム(ECM 2000:廃盤)がある。これは間違いなく偉大な作品だが、実際の演奏はそれを完全に上回るものだった。
公演後に調べたところ、これは私だけの感想ではなく、多くの人が抱いているもののようだ。そしてシフ自身もあくまでも演奏家としての立場を重要視している。それは演奏活動から早くに引退して、膨大なテイクを編集して録音する作業に熱中した、シフと同じバッハの偉大な演奏家であるグレン・グールドとははっきりと異なる。そしてそれは、シフが上記の著書の冒頭で語っている言葉でも理解できる。
−あなたにとって音楽とは、音楽の本質とは何か? シフはこう答える。
【はじめに静寂があり、静寂から音楽が生まれます。そして、音響と構造からなる実にさまざまな現在進行形の奇跡が起こります。その後、ふたたび静寂が戻ってきます。つまり、音楽は静寂を前途としているのです。(中略) 音楽とは精神そのものであり、精神的な行為なのです。】
この言葉はシフが音楽というものを、時間芸術であり「精神的な行為」として捉え、それを観客と共有することこそ、存在意義があると思っている証だろう。
2. 曲の冒頭の1小節を弾いた、その一瞬だけで聴衆の心を楽曲の世界に引き込む力の強さ。
1曲目J.S.バッハ:ゴルトベルク変奏曲 BWV988の「アリア」の、あの有名な1小節目を弾いただけで、この演奏者が尋常ならざる存在であることがわかった。多くの演奏家も、このように冒頭で作品に聴衆を引き込む。しかし、シフはその力がずば抜けていると感じた。それは勿論、曲の冒頭だけではなく、曲の中でテーマや変奏が変わった瞬間も同じだ。どうもこの人の録音やYouTubeの動画などでは「大人しく行儀がいい」とか「端正な演奏」といった形容詞を付ける人が多いようだが、実際のシフの演奏はもっとエモーショナルだ。
あとは、やはり音だ。録音だとシフの音に、少し目立つ華やかさに欠ける大人しい印象を持つ人がいるようだが、とんでもない話である。それはバッハの時とモーツァルトとベートーヴェンの演奏時で音が全く異なることでもわかる。単に「綺麗な音」と語れない音がある。強いて言えば、最上級の真珠やシルクの輝きを持つ音が、その作曲家の意図によってさまざまな変化を見せる。
3. 各声部の性格を驚くほど明確に弾き分け、有機的に組み合せた表現(バッハ)
バッハのフランス組曲第5番 ト長調 BWV816が大変素晴らしかった。バッハの曲の特徴でもある多声の同時進行は、時に演奏者を苦しめる。あまりにも多くのことに同時に気を配る必要があり、暗譜も難易度が上がる。しかし、シフの場合はその曲の演奏に初めて取り組む前には数小節ずつ、過去からの膨大な楽曲分析を紐解いて研究するそうだ。そしてその分析作業の間に徹底的に曲が頭に叩き込まれ、実際にピアノに向かうときには全てのことが頭に入っているという。また、毎日をシフはバッハの練習でスタートさせるそうだが、そうすると「バッハを演奏すると魂が解放される」と語る。
シフの演奏には絶妙な「揺らぎ」が存在し、それが観客に強いエモーショルな感情を誘引する。これは一つ間違えば、音楽は崩壊するが、シフの「揺らぎ」は勿論リズムは崩れない。
【私は多くの偉大な音楽の中でも、特にバッハにおいてはリズムは中心的な存在だと考えている。多くの人はリズムを誤解しており、何かメトロノームの出す機械的なビートと混同している。しかし私にとってリズムとは、人間の心臓の作り出す鼓動のようなものであり、みごとな弾力と可変性に富んだものである。】−バッハ:平均律クラヴィーア曲集・第1巻、第2巻 BWV 846-893(48の前奏曲とフーガ)ポリドール POCL-2220~3のライナーノーツより
シフの演奏は、独特の間合いやアクセント、音の長短の付け方が実に絶妙だ。しかもそれは人間の自然な呼吸や鼓動に基づいていて、あらゆるリズムの表情の付け方が「多彩」なんていう言葉では語れないほどの変化を見せる。それがバッハの多声の弾き分けと組み合わさって表現されるわけだ。しばしば「歌うバッハ」と形容される、即興性と知的な深い陰影を兼ね備えたシフのバッハは、人間と神とを最も強く結びつける音楽に思えた。
4. 積み重ねた音の響きがちゃんとオーケストラとして聞こえる(ベートーヴェン)
素晴らしかったベートーヴェンのソナタ3曲。最初の第13番 Op.27-1『幻想曲風ソナタ』は、この曲はこんなに素晴らしい曲だったのかと再確認。第24番 Op.79『テレーゼ』の第1楽章の序奏~第1主題がこれほど優しさと愛らしさに満ち溢れていると感じたことはない。そして、シフ自身が「私がベートーヴェンのソナタの中で最も好きな曲です」と紹介した3曲目の第30番ホ長調Op.109は、陳腐な言い方だが、「これを聴くことが出来て、生きていて良かった」と思えるほどのものだった。
多声部の同時進行によるバッハの曲を、「横方向へ各声部が交錯しながら同時進行し、最終的に豊かな和声として螺旋状に絡み合って昇華する音楽」とすると、ベートーヴェンは明確なメロディとテーマと形式を持ち、縦方向に重層的に積み重なる和声が特徴であり、その積み重なっている音はオーケストラの各楽器の音を想定しているので、当然奏者はそれを意識しながら表現をする必要がある。それはシューベルトの曲でドイツ・リートを無視して演奏できないのと同じだ。
しかし、それは勿論容易にできるものではないし、その和声の構成音それぞれに割り当てられた音を正しく響かせないと、たちまち耳障りな音になる種類のものだ。しかも、ベートーヴェンの時代のピアノと、今のピアノは楽器そのものが違っているから、大きなホールで響かせる事を想定している今の楽器は基本的に「うるさい」のだ。だから、シフはベートーヴェンに限らず、その時代に存在した楽器を使ったピリオド奏法に拘っており、ECMニューシリーズの録音にも何度も古楽器を使用してきた。それらの古楽器で演奏する事によって、より繊細な表現方法、そして本来の作曲者の意図をより正しく汲み取れるからだ。
シフは上記の著書の中でこのような事を語っている。ベートーヴェンの32曲のピアノ・ソナタを弾けるようになるまで、50歳まで待たねばならなかった、そしてその取り組みは大変困難な作業だったが、自分を大きく成長させてくれたと。
−あなたにとってベートーヴェンとはどういう意味を持っていますか?
【評価してもしすぎることはないでしょう。最近私は、ベートーヴェンをモーツァルトよりも上位に置いています。というのは、ベートーヴェンは人間の存在にかかわるもっとも重要な部分に触れているからです。彼の偉大な作品群に、バッハと同じような超自然的な何か、宇宙的な何かを感じるのです。】
−ベートーヴェンは人生を変えますか?
【確かに、わたしはそうなりました。ベートーヴェンによって私のピアノの音色はより芳醇で、そして多彩なものになりました。ベートーヴェンを徹底的に弾いた後、私のシューベルト演奏は音色がより凝縮したものに変化しました。ベートーヴェンは非常に指いっぱいに和音を書いていて、(中略)モーツァルトやシューベルトと違って6音や8音からなる和音が頻出します。しかし、このような密集した和音においては声部の区別、いわゆる『ヴォイシング』というものが非常に重要になります。】
5:深い楽曲理解による、表現構成の巧みさ
シフの演奏は非常に「自然に聞こえる」が、結構実験的な事や、シフ以外はあまりやっていないような表現を積極的にやる。わかりやすいのはペダルの使い方だ。シフのベートーヴェンのピアノ・ソナタ第14番(Op27-2)『月光』は出だしの数小節をダンパー・ペダルを踏んだまま弾くという、通常はやらない「異質」なペダルの使い方をしているが、勿論それにはちゃんとそうする彼の「根拠がある」。この辺の説明は長くなるので割愛するが、一度聞いていただければわかると思う。
本編ラストのベートーヴェン、ピアノ・ソナタ第30番 ホ長調 Op.109。この曲のハイライトは第3楽章のホ長調 Andante molto cantabile ed espressivoだ。(下動画の06:30辺りから)「じゅうぶんに歌い、心の底からの感情をもって」と付記されている3/4拍子の主題と、その第6変奏を経て、最後に主題が完全な形で再現されて(下動画18:14辺りから)楽曲を閉じるが、最初に出た主題と最後に再現されたテーマは、同じ旋律であっても与えられた意味は当然違うはずだ。しかし、私はこの回帰されたテーマをここまでドラマチックに、感動的に締めくくる演奏を聞いたことがなかった。テーマからの各変奏の表現が驚くほど変化に富んでいるのだ。だから最後にテーマが戻ってきた瞬間に、信じられないほどのドラマ性を帯びた結末として提示される。ただ、それは決して過剰でも感情的でもなく、深い楽曲への理解と洞察をベースに、絶対的な「理性」が存在し、コントロールする。私はこの絶妙なバランスこそが、シフの演奏の醍醐味だと感じた。
実際、この曲の途中から会場の空気が変わった。明らかに観客の感情が昂って、会場の温度が上がったように感じられたし、私の隣の観客も泣いているようだった。私も自然と涙が溢れた。そして演奏が終わり、シフはその場でしばらく動かなかったが、誰もがその余韻をずっと感じていた。アンコールも5回と大サービス、終演後は皆口々に「あのベートーヴェンは本当にすごかったですね」と話していた。
最後に、紹介したシフの著書【静寂から音楽が生まれる】は音楽を愛好する人、特に実際に演奏する人にはおすすめの本である。400ページ超で、内容もとても濃いので簡単に読み進められるものではないが、本当に示唆に富んでいる。そして何よりもすごいと思うのは、ここで本人が語っている事は間違いなく完全に「実践されている」のだ。これが「音楽的な誠実さ」と言わずに何というのだろうか。
2025年サー・アンドラーシュ・シフ指揮/ピアノ&カペラ・アンドレア・バルカ公演
https://www.kajimotomusic.com/concerts/2025-cab/
3.21(金)神奈川/ミューザ川崎シンフォニーホール[プログラムA]
3.22(土)大阪/フェニーチェ堺(堺市民芸術文化ホール)[プログラムA]
3.23(日)京都/京都コンサートホール[プログラムB]
3.25(火)東京/東京オペラシティ コンサートホール[プログラムA]
3.26(水)東京/東京オペラシティ コンサートホール[プログラムB]
[プログラムA]J.S.バッハ
ピアノ協奏曲第3番 ニ長調 BWV1054
ピアノ協奏曲第5番 へ短調 BWV1056
ピアノ協奏曲第7番 ト短調 BWV1058
ピアノ協奏曲第2番 ホ長調 BWV1053
ピアノ協奏曲第4番 イ長調 BWV1055
ピアノ協奏曲第1番 ニ短調 BWV1052
[プログラムB]モーツァルト
ピアノ協奏曲第23番 イ長調 K.488
交響曲第40番 ト短調 K.550
オペラ「ドン・ジョヴァンニ」K.527 序曲
ピアノ協奏曲第20番 ニ短調 K.466
【参考】先月日本ツアーを行ったサー・アンドラーシュ・シフ。来日中に行われた記者会見で、2026年に自らが主催するカペラ・アンドレア・バルカの活動を終了すること、また今年3月に予定している日本、中国、韓国公演をもって最後のアジアツアーになることをシフ本人が発表した。会見時に語られたシフ本人の言葉、そして記者との質疑応答の様子をまとめたレポートを紹介する。
https://www.kajimotomusic.com/articles/cab-asia2025/