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Concerts/Live ShowsNo. 213

#857 〜80歳記念来日公演〜 ミハイル・ヴォスクレセンスキー ピアノ・リサイタル

2015年10月30日(金) トッパンホール
Reported by 伏谷佳代 Kayo Fushiya

ミハイル・ヴォスクレセンスキー(Mikhail Voskresensky):ピアノ

《プログラム》
-スクリャービン没後100周年記念-

スクリャービン:
練習曲嬰ハ短調Op.2-1
二つの詩曲Op.32 第一曲嬰ヘ長調
第二曲ニ長調
二つの小品Op.57「欲望」「愛撫の踊り」
左手のための前奏曲と夜想曲Op.9
グリーグ:
ピアノ・ソナタホ短調Op.7
ブラームス:
ピアノ・ソナタ第三番ヘ短調Op.5

*アンコール
シューマン:
「幻想小曲集」より「なぜに」
ショパン:
別れのワルツ
ワルツ第14番


人生そのものを語る肉厚なサウンド、壮大なスケールで織りなされる音楽

名演奏家は名教師にあらず、という言い古された格言にこの人ほど当てはまらない人はいまい。名伯楽ミハイル・ヴォスクレセンスキー、80歳。1963年から現在に至るまでモスクワ音楽院で教鞭をとり続け、世の中へ送り出した演奏家は数知れず。レフ・オボーリン門下であった自身も、弱冠22歳でショスタコーヴィッチのピアノ協奏曲を、作曲者本人を前にヨーロッパ初演したのをはじめ、ベートーヴェンとスクリャービンのピアノ・ソナタ全曲演奏、ショパンの全作品演奏、モーツァルトのピアノ協奏曲連続演奏など、次々と打ち立てられる偉業は枚挙にいとまがない。録音もこれまでに50タイトル以上、傘寿を迎えた現在でも世界中の若手ピアニストにレッスンを施す合間を縫い、ほぼ毎月コンサートをこなしているというから恐れ入る。

この日はヴォスクレセンスキーの代名詞ともいえる「お国もの」スクリャービンを皮切りに、グリーグとブラームスのソナタと進む。壮大なロシアン・ロマンティシズムを、時代を遡りながら味わえる極めて魅力的なプログラムである。まず、このピアニストの群を抜いたスケールの大きさを前にしては、あらゆるフルコンサート・グランド・ピアノも小さく見えてしまう。これは堂々とした体躯のみならず、発せられる音が最速であることに起因する。脳からの指令により指が動くのではなく、両手十指がそれぞれ独立の生を生きているかのごとし。電光石火、落雷のように音が降り注ぐのだ。鍵盤はいともやすやすと鳴らされているように錯覚する(調律の際の鍵盤の設定を疑うほどだ)。とりわけ左手の雄弁さは群を抜く。片手でも語られることの総量に何ら変化がないことは、「左手のための前奏曲と夜想曲」でたちどころに明らかとなる。一見容赦ないエネルギーで鍵盤が御されるなか、音間から立ち上るスクリャービン特有の複雑な和声は、馥郁(ふくいく)とした味わいとともに極めて知的なクールさも保持しつづける。激情と怜悧の二重唱、それが肉厚なサウンドのなかに盛り込まれる。ヴォスクレセンスキーの最大の魅力のひとつだ。

グリーグへと進み、その楔が打ち込まれるような打鍵に耳も慣れてきたころ、聴き手には様々な問いが自然と投げかけられる—–ロマンティシズムとは何なのか、音楽における洗練とはどのようなものなのか、等々。ヴォスクレセンスキーの音楽は、ことごとく既成概念の再考を迫る。表面をすべるような夢見がちのロマンとは真逆を行く野趣溢れるエレガンス、骨太に歌い尽くされる音塊、音の割れを補って余りあるエナジーの横溢、どんな微細な感情の襞をも逃さない響きの処理、最大限に引き出される楽器の複合的機能。どの瞬間も生きていることの証のような音楽なのである。

ブラームスの5楽章からなる大作ソナタも、ヴォスクレセンスキーの手にかかれば程よいヴォリュームに感じられる。ここでも自在な左手は縦横無尽に舵をとる。メリハリの効いた楽章間の連結、大局的ともいえる深いフレージングなど、広大な大地を思わせるさすがのスケールと貫禄。時おり仮借ない音圧で空間に強い爪痕を残すフォルティッシモや低音の同音連打など、空間への抜群の描写力は容易に到達しえぬ次元にある。一瞬一瞬が、無尽蔵の色彩で彩られるのだ。会場には若いピアノ学習者らしき姿も多く見受けられたが、さまざまな示唆に富んだ貴重な機会であったに違いない(*文中敬称略。10月31日記)。

http://www.mikhailvoskresensky.com/

伏谷佳代

伏谷佳代 (Kayo Fushiya) 1975年仙台市出身。早稲田大学卒業。欧州に長期居住し(ポルトガル・ドイツ・イタリア)各地の音楽シーンに通暁。欧州ジャズとクラシックを中心にジャンルを超えて新譜・コンサート/ライヴ評(月刊誌/Web媒体)、演奏会プログラムやライナーノーツの執筆・翻訳など多数。

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