#447 アンリ・バルダ ピアノリサイタル
2012年7月12日(木) @東京・浜離宮朝日ホール
Reported by 伏谷佳代 (Kayo Fushiya)
Photos by 林喜代種 (Kiyotane Hayashi)
アンリ・バルダ (Henri Barda): ピアノ
≪プログラム≫
ラヴェル;高雅で感傷的なワルツⅠ~Ⅷ
ソナチネ
クープランの墓
<休憩>
ショパン;4つの即興曲op.29, 36, 51, 66「幻想即興曲」
ソナタ第3番ロ短調op.58
*アンコール
ショパン;ワルツ
マズルカ
ラヴェル;高雅で感傷的なワルツ
スカルラッティ;ワルツ第33番
それ自体で発光する音色
ほぼ一年半ぶりにアンリ・バルダを聴いた。予想通りの興奮、といったらよいか。案の上時間はあっという間に過ぎる。前半はラヴェル、後半はショパンというバルダのピアニスティックな側面が存分に堪能できるプログラム。とにかくあらゆる打鍵の瞬間が魔法である。発光する音色、濃厚に立ち込めるムードの揺らぎ、その場の空気がヴェールをまとってはふわりとした風を孕(はら)む。否応なくぐいぐいと惹きこまれるのだ。それは、例えば非常に魅力のある人間に出会ったときの感慨にちかい。黙っていてもおしゃべり、という華やかな人が稀にいるが、まさにバルダの音である。一粒がふくみ得る領域は、異様なほど多岐にわたる。何かの投影ではなく、それ自体が光を放つ。
大胆に打ち放す残響—新たな音を生む温床
ラヴェルの曲が連続すると、凡庸なピアニストならば途中退屈におもわれる瞬間があるものなのだが、バルダの場合、どんな淡いタッチの色彩も冗長に感じられることはない。振り子の原理とでもいえようか、相反する両極のあいだをいとも自在に行き来する鋼のようなリズム感覚がある。微細なニュアンスも、リズムのなかへと還元できる。逆をいえば、リズムの細分化がそのまま色彩の拡散として収斂する。チカチカとしたフリッカー効果と深い黙考とのあいだを、ピアニッシモとフォルティッシモとのあいだを、怒涛の追い上げとほとんど放置にちかいドローンとのあいだを、そのピアニズムは表裏一体のごとくすり抜けてゆく。行き先のわからぬスリル。アルペッジョや同音連打、トレモロなど、あらゆるピアニスティックな側面は、水流のような浸透力となめらかさ、飛沫の跳ね上げ感をもつ。そしてバルダの十八番のひとつといえる、ほとんど打ちっ放しの長い残響。これが曲と曲とのあいだに挿まれるとき、音から響きが生じるのではなく、響きのなかから新たな音が生まれてゆくような錯覚を生む。音が生まれる背景に、もうひとつのBGMがある。常なる重奏の世界に、出発点が目くらましにされる幻惑。鍵盤にふれている時間が、バルダと音楽のミューズとの掛け合いのときとすれば、この残響部分はひと足さきに駆け抜けたバルダが後ろを振り返っているような、自己回想のシーンとしても見えてくる。『クープランの墓』の終曲「トッカータ」では打って変わってのみごとなジャズ・エンディング。パーカッシヴの極みだ。煮えくりかえるような低音域の沸点を維持したまま逃げ切った感が爽快。
あらゆるリズムに歌としての感情が
後半のショパン。まず即興曲4曲は、甘ったるい情緒とは無縁の仕上がりである。伸びやかに歌われるどころか、リズム的には非常にタイト、杓子定規ともいえる精確さでこちらの意識を囲い込んでくる。ラヴェルで音の色彩を解放したのとは対照的に、ショパンでは核へと迫るような、求心力を増した深く渋みのある音色である。そこではペダル効果もさほど要しない。垂直な粒立ちを増しながら、即興曲第3番からほとんど間を置かずに突入した「幻想即興曲」は、瞬発力抜群の、アタックが効いたかなり骨太なものだ。一音一音の柱が太く打ち立てられた見通しの良い響きの構築には、いぶし銀の貫録がただよう。締めの「ソナタ第3番」では、極端な緩急のコントラストが印象的。テンポ・ルバートとすらいえないほどの、くっきりとした色分けである。狂騒状態と凪との対比—なるほど落差が激しいほどにドラマティックだ。第一楽章からして圧倒的に速いテンポで推し進められる。溢れんばかりのエナジーを封じ込めて、無理やり一筆書きにしたような疾走。左手パッセージの攻めは、ブルトーザが土埃を上げんばかりの破壊力である。フィナーレは、クラシックでは珍しく弦切れが心配されるほどの強打であった(単音ですら)。バルダの音楽には、どの部分を切り取ってもストーリィがあり、多弁だ。しかし、ほとんどの表情は鍵盤のバウンドのみを駆使して極めてシンプルに造られていることに注目する。それがかくも多彩で陰影に富むのは、リズムをそのままメロディ(歌)として採り込んでしまう稀有な才能のゆえか。アンコールがすべて舞曲であったことも、何かの示唆のようにおもえてくる(*文中敬称略。7月12日記)。