追悼 杉田誠一さん by 小川隆夫
杉田誠一さんはずっと怖いひとだと思っていた。1960年代末から杉田さんが主宰していた雑誌『JAZZ』は毎月購読していたが、フリー・ジャズを中心にした記事は難解でチンプンカンプン。しかも超過激な文体である。そういう時代でもあったが、それで勝手に杉田さんはおっかないひとのイメージが出来上がった。
ぼくが音楽についてなにかを書くようになったときの杉田さんは、映画のカタログやそちらの関係で本を出していたようで、接点はなかった。90年代の終わりに杉田さんが始めたジャズ雑誌の『Out There』からも声がかからなかったし、もっともぼくのことなんか知っているはずがないと思っていた。
杉田さんは天上のひとだった。考えていることのレヴェルが違いすぎて、相手にしてもらえないことはわかっていた。しかしあるとき、駒場東大前で定期的にやっていたぼくのトーク・イヴェントに来られて挨拶されたときは心底ビックリした。こちらはまったく心構えがないのに、あのおっかない(と勝手に思っていた)杉田さんがニコニコしながら目の前にいたのだ。イメージとはあまりに違う。その日は、イヴェント終了後、かなり長い時間、お互いの話をしたものだ。それからはたまに連絡を取り合いながらの時間がすぎていく。
60年代から70年代にかけて、フリー・ジャズ・シーンの現場にいたのが杉田さんだ。貴重な写真もたくさん撮っている。そういうお話をされるときは本当に楽しそうだった。困ったのは、いつまで経っても終わらないことだ。でも、それが楽しくて、面白くて、別れたあとはまたすぐに会いたくなる。これってマイルス・デイヴィスと同じだ。
裏話もいろいろとご存知で、ミュージシャンについての書けない話をたくさん教えていただいた。ぼくも体調の悪い時期があったので、めったに会うことはなかったけれど、それでも会えば、あの怖いと思っていた杉田さんが飛び切りの笑顔で接してくれた。
大先輩の杉田さんから見ればぼくなんか相手にしてもらえないはずなのに、いつも気さくに接してくれたことをたいへんありがたく、また嬉しく思っている。
コロナのおかげで会えなくなってしばらくの時間がすぎてしまった。訃報はまったく知らなかったので、ショックはひとしおだ。けれど、いまごろはあちらの世界でコルトレーンとやり合っているかもしれない。そんな姿が目に浮かぶようで、改めてジャズが大好きだった杉田さんとのことを思い出している。お店の名前が「Bitces Brew for hipsters only」なんだから、マイルスとも会っているんじゃないだろうか。それだったら羨ましい。
謹んで杉田誠一さんのご冥福ををお祈りします。
【証言で綴る日本のジャズ】杉田誠一
https://www.arban-mag.com/article/44100