”ジャズの楽園 日本” の謎 Part 2
日本酒から魂へ〜ジャズ・ミュージシャンと日本への愛
text: Atsuko Kohashi 小橋敦子
photo below: courtesy of Tony Overwater
このエッセイは、2025年8月6日、米web-magazine All About Jazz (AAJ) に掲載されたものです。AAJとの提携により翻訳、転載するものです。原文は;https://www.allaboutjazz.com/why-is-japan-a-jazz-paradise-part-twofrom-sake-to-soul-jazz-musicians-and-their-love-for-japan
いま日本は大きな観光ブームを迎えており、毎月何百万人もの旅行者を惹きつけています。しかし、この世界的な関心が始まるずっと以前から、ジャズの巨匠たちはそれよりもはるかに深いものをすでに見出していたのです。
2025年5月、日本は推定369万3千人の旅行者を迎え、世界的な関心の高まりを示しました。これは10年前と比べて125%増(実に2倍以上!)という急増です。多くの旅行者は、洗練された日本料理、寺社の静謐な環境、東京の超現代的な活気、あるいは田園風景の癒やしの美しさを求めて訪れています。
しかし、このブームのずっと以前に、耳の感性を磨き抜き、繊細な魂をもった誇り高きジャズの巨匠たちは、すでに日本に恋をしていました。彼らを魅了した日本の魅力とは何だったのでしょうか。寿司や日本酒だったのでしょうか、それとも別の何かだったのでしょうか。
私たち音楽家にはおなじみのことですが、ツアーとはたいてい、一つの会場から次の会場へと駆け回り、リハーサルやサウンド・チェックに追われ、街を出歩く時間などほとんどないのが実情です。では、そんな彼らを本当に惹きつけたものとは、一体何だったのでしょうか。
1960年代から70年代にかけて、ますます多くのアメリカのジャズ・ミュージシャンたちが日本をツアーするようになりました。
商業ジェット機の発展により、アメリカから日本への空の旅はより速く、そして容易なものとなったのです。
同時に、アメリカ政府は冷戦期の文化外交の一環として積極的にジャズを海外に広めるべく尽力しており、日本もその主要な目的地のひとつでした。急速な経済成長、近代的なインフラ、そして新しい文化を求める成長期にあった中産階級によって、日本は訪日するジャズ・アーティストたちにとって温かく歓迎してくれる場所となったのです。
そして彼らの音楽こそ、この特別な絆を言葉以上に雄弁に物語っているのです。
<東京ブルース>〜ホレス・シルヴァー
ホレス・シルヴァーは、ブルー・ミッチェル (tp)、ジュニア・クック (ts)、ジーン・テイラー (b)、ジョー・ハリス (ds) と共に『東京ブルース』をブルーノートからリリースしました。
その収録曲のタイトルからは、日本から受けた深いインスピレーションがうかがえます。
――<Too Much Sake(酒を飲みすぎて)><Sayonara Blues(さよならブルース)><The Tokyo Blues(東京ブルース)><Cherry Blossom(桜)><Ah! So(あ、そう)>※おそらく日本語の「あ、そう」の言葉遊び。
シルヴァーは、1962年初頭の日本ツアーに触発され、日本の旋律とラテン・リズムを融合させて<Tokyo Blues>を作曲したと言われています。しかし注意深く聴いてみると、そのアジア風の旋律は日本的というよりむしろ中国的に響きます。他の収録曲はどれもグルーヴィーでジャジーではあるものの、特に日本的な要素は感じられません。それでも、日本をテーマにしたタイトルが並んでいることは、日本のジャズ・ファンへの温かい敬意を示しており、作品に一層の魅力を添えています。
たとえその背後に多少のビジネス的な思惑――日本でのチャンスを意識したもの――があったとしても、日本への真心のこもった愛情を示すアルバムには、思わず微笑んでしまいます。
<ニッポン・ソウル>〜キャノンボール・アダレイ
このアルバムは東京の産経ホールと厚生年金会館でのライブ録音で、キャノンボール・アダレイ (as)、ナット・アダレイ (cor)、ユセフ・ラティーフ (ts, fl & oboe)、ジョー・ザヴィヌル (p)、サム・ジョーンズ (b)、ルイ・ヘイズ (ds) が参加。タイトル曲 <Nippon Soul>は、実際には日本的な旋律をもたない標準的なブルースですが、このアルバム全体が、アダレイが日本の観客から感じ取った強力なエネルギーの証となっています。プロデューサーのオリン・キープニュースはライナーノーツでこう説明しています;「日本の観客は間違いなく演奏の一部です……曲の最後には、非常に劇的な対比で一斉に歓声をあげます。そしてコンサートのあと、みんなが順番にサインを求めて並ぶ様子は……まるで映画スターになったかのような気分にさせてくれます。」
このタイトルは、日本的な音楽スタイルではなく、ミュージシャンと日本の観客との間にある深い感情的なつながりと情熱的なエネルギーを表しています。そう、私たち日本の聴衆は静かですが――心の中では深く情熱的なのです。
<琴(箏)ソング>〜デイヴ・ブルーベック・カルテット
ブルーベックのカルテット――デイヴ・ブルーベック (p)、ポール・デスモンド (as)、ユージン・ライト (b)、ジョー・モレロ (ds) は、このアルバムを音楽的な旅行日記として創作し、1964年の日本ツアーでの印象を形にしたものです。<Tokyo Traffic(東京の往来)><Rising Sun(日の出)><Fujiyama(富士山)><Osaka Blues(大阪ブルース)>といった曲は、日本の鮮やかな音風景を描き出しています。今日の若者たちがスマートフォンの写真で日本の印象を残すのに対し、これらのミュージシャンたちはその印象を音で捉えたのです。
最後の曲<Koto Song(琴の歌)>は、12小節のマイナー・ブルースで、日本の精神が色濃く反映されています。琴(箏)特有の音階に影響を受けており、西洋のペンタトニック(五音)音階に似ているもののそれとは異なり、半音が含まれることで、もの悲しく、憂いを帯びた響きを生み出しています。ブルーベックはこう書いています;「耳にした伝統楽器の中で、最も魅了されたのは琴でした。13本の弦を持つ、凸状のボディを持つチターに似た楽器です。」
これがジャズ・ミュージシャンの姿勢です――常に新しいもの、まだ聴いたことのないものを求め続けるのです。
<オリエンタル・フォーク・ソング>〜ウェイン・ショーター
ウェイン・ショーターは、1961年にアート・ブレイキーのジャズ・メッセンジャーズのメンバーとして初来日し、それ以降も長年にわたり何度も訪日の経験があります。私は彼の生演奏を初めて聴いた印象を忘れることができません――1978年、東京での「ウェザー・リポート」公演でした。ジョー・ザヴィヌル (key)、ジャコ・パストリアス (el-b))、ピーター・アースキン (ds) が共演。しかし、そのコンサートよりずっと前に、ショーターはすでに自作曲のひとつで、日本的な何かに深く触れていたのです。
ショーターの『Oriental Folk Song』を初めて聴いたとき、私は深く心を打たれました。そのメロディは、私が子どもの頃に母が歌ってくれた日本の伝統的な民謡<砂山(Sunayama)>を思わせるものでした。のちに、私自身がその曲を聴きながらピアノの伴奏を弾いてみたところ、「砂山」のメロディと驚くほど一致していることに気づきました。ショーターの最初の妻、光子さんは日本人だったので、おそらく彼女の口ずさみがこの美しい曲のインスピレーションになったのかもしれません。
この民謡的な土台の上に重ねられたモーダルなインプロヴィゼーションは、文化的な記憶が現代ジャズの言語と融合する可能性を示しています。
<アド・リブ・オン・ニッポン>〜デューク・エリントン
デューク・エリントンのコンセプト・アルバムは、彼のアジア〜中東ツアーに触発されて生まれました。残念ながら、ツアー中にケネディ大統領暗殺のニュースがバンドに届き、やむなく旅を切り上げて帰国することになりました。それでも、日本滞在中に得た印象は、彼らに深い影響を残したようです。
<Ad Lib on Nippon>という曲の冒頭に現れるピアノのテーマは、ところどころの間(ま)によって特徴づけられており、日本特有の空間と間の感覚を想起させます。そのあとに続くのは、遊び心のある日本風の旋律です。尺八を思わせるクラリネットのフレーズも聴き取れます。グルーヴ感あふれるジャズのセクションとの対比は非常に鮮やかです。まるで当時の日本の生産性向上や経済成長の勢いと目まぐるしい動きを捉えているかのようで、東洋と西洋が出会うジャズの感覚そのものと言えるでしょう。
この作品が注目に値するのは、その音楽的な魅力だけでなく、言語選択にもあります。(キャノンボール・アダレイの『Nippon Soul』についても同じことが言えます。)「Japan」ではなく「Nippon」という表記を用いることで、日本人が自国を呼ぶ呼称への配慮が示されており、ジャズ・アーティストが自身のルーツや文化をいかに深く尊重しているかの反映とも言えるでしょう。
<ソーラン節>〜ビリー・ハーパー
「ソーラン節」は北海道の漁師の労働歌で、もともとはニシン漁の作業の動作を合わせるために歌われていました。ビリー・ハーパーはこの歌をモーダルな強度によって再構築しています。メロディは変化していますが、元の曲としての輪郭は保たれており、彼のモーダルなスタイルは原曲の精神と見事に調和しています。その結果、力強くも感動的な演奏が生まれています。
何世紀も前の日本の民謡とモーダル・ジャズとのつながりを耳にすると、静かな誇りのような感覚に包まれます。
<ヴィネット>〜ゲイリー・ピーコック
ゲイリー・ピーコックの日本に対する愛情はよく知られています。彼は1960年代後半に2年以上日本で暮らし、マクロビオティックや禅、神道、伝統医学に深く触れながら、菊地雅章(ピアノ)や富樫雅彦(ドラム)をはじめとする才能ある日本人ミュージシャンと共に録音を行っていました。
この滞在は、彼の音楽や即興演奏へのアプローチに深い影響を与えたと言われています。とくに、日本語の微妙な特徴への理解、すなわち主語の「私(わたし)」が頻繁に省略されることに注目した点が挙げられます。彼はこれを、ジャズの即興演奏における一種の「無私」の感覚と結びつけていたと伝えられています。こうした洞察は、おそらく外国人だからこそ気づけたもので、私たち日本人にとっては自然すぎて見過ごしてしまいがちなことです。
キース・ジャレット(ピアノ)とジャック・デジョネット(ドラム)が参加したアルバム『Tales of Another(もうひとつの物語)』の中で、<Vignette(ヴィネット)>の冒頭のシンバルの響きは寺院の空気を思わせます。ハーモニーのテクスチャーには、琴の独特な五音音階を想起させる悲しげで、宙に浮いたような、静謐な響きが感じられます。ピーコックのベース・ソロは、まるで記憶から音を引き出すかのように、こうした日本的な音階をさりげなく取り入れています。特に印象的なのはベースの低いB音で、冒頭のテーマとエンディングの両方で聞こえ、僧侶の声明のように共鳴します。
これが日本からの帰国後のカムバック・アルバムであると知ると、なおさら説得力が増します。
花と敬意
耳の肥えたこれらのジャズ・ミュージシャンたちは、日本の民謡に新鮮で斬新な何かを感じ取りました。日本でよく使われる五音音階は、西洋のそれとは微妙に異なり、物憂げで内省的な響きを持っています。彼らが惹かれたのは、この独特な音色だけでなく、日本の観客が示す礼儀正しい集中力や、ミュージシャンに対する深い敬意にも大きな感銘を受けたからでした。
私はニューヨークのダニー・スカイライト・ルームでのブロッサム・ディアリーのショーで、同世代で最も愛され、尊敬されるジャズ・ピアニストのひとり、トミー・フラナガンとその妻の隣に座ったことを決して忘れません。私が日本から来たと話すと、彼女は目を輝かせて言いました;
「日本は素晴らしいわ!トミーがあるコンサートのあとにステージで花をもらったことがあるのよ—信じられる?ジャズ・ミュージシャンが花をもらうなんて、ありえないわよね。忘れられない経験だったわ。」
それこそが日本なのです。芸術が尊ばれ、「ファンダム」(訳注:流行りの言葉で言うと「推し活」がふさわしいだろうか)にも心からの献身が込められている国——私たちにはそれを表す言葉まであります:「贔屓(ひいき)」。流行や有名人の人気ではなく、出自に関わらず、美に対する感謝と敬意が根底にあります。
ハンク・ジョーンズは1962年、プログレッシブ・レコードからアルバムに『Arigato(ありがとう)』とタイトルをつけました。
私たちに心を分かち合ってくれたすべてのミュージシャンたちへ——ありがとう。心から、あなたたちに。
おわりに
昨年6月、日本ツアーの合間に、次のコンサートまでわずか一日だけの休みがありました。私たちは鎌倉を訪れました——13世紀にかつて日本の首都だった場所です。静かな寺院から石段を下りながら、一緒にツアーをしていたオランダ人ベーシストが、ほとんど独り言のようにこう言いました。
「うまく言葉にはできないけど、日本には何か心に響くものがある。コンサートの空気、街の感じ……いつかまた絶対に戻ってきたいな。」
そう、きっかけはおそらく日本酒だったのかもしれません。しかし、彼らを何度も日本に引き寄せたのは、それ以上に魂に響く何かだったのです。
ビリー・ハーパー, デイヴ・ブルーベック, デューク・エリントン, キャノンボール・アダレイ, ゲイリー・ピーコック, ホレス・シルヴァー, ウェイン・ショーター, トミー・フラナガン