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音の見える風景 望月由美No. 249

音の見える風景 Chapter58「キャノンボール・アダレイ」

photo & text by Yumi Mochizuki 望月由美
撮影:1963年7月14日 サンケイホールにて

L to R:Cannonball Adderley(as)/Louis Hayes(ds)/Nat Adderley(tp)/Yusef Lateef(ts)

弟ナットがソロをとっているときのキャノンボールはややうつむき加減で耳を傾け手を振りながら大きな身体全体でスイングする。
弟ナットの音を満足そうに聴き軽くうなずく。
そのとぼけた表情に親しみがわいてくる、が、いざソロをとった途端にその音の太さ、なめらかさ、そして120キロともいわれていたヘヴィー級の巨漢から軽々と繰り出される超高速スピードのフレーズには思わず嬉しくなって笑ってしまった、これは凄い、ハッピー。

ユゼフ・ラティーフ(reeds, 1920~2013 93歳没)入りの3管セクステット。
キャノンボールのインテリっぽいMCと、弟ナットのとぼけた仕草、ラティーフの朴訥さが三者三様で面白かったが、音を出すと3人とも一筋縄ではゆかない好ましい個性の持ち主であった。
前の年に出たヴィレッジ・ヴァンガード・ライヴ『イン・ニューヨーク』(Riverside, 1962) が好きで何度も聴きこんで63年の7月サンケイホールに足を運んだだが案の定というか期待通りステージでは<Gemini>など『イン・ニューヨーク』に収録された曲が中心に演奏された、勿論、<ワーク・ソング>も。
写真はその時のフロント3人、三者三様の仕草を撮ったものである。

キャノンボール・アダレイ(as, ss) はこうした自己のバンドでの活力みなぎる演奏もよいがグループを離れてソリストとして参加した作品にもはっと耳を傾けることが多い。

とりわけビッグ・バンド作品ではキャノンボールの太い、明瞭なトーンはブラスの咆哮の中からくっきりと姿を現して効果的である。
ギル・エヴァンスの『ニュー・ボトル・オールド・ワイン』(World Pacific,1958)の冒頭の<セントルイス・ブルース>でチャック・ウェインのギターとギル・エヴァンスのピアノがしずしずと滑り出す中を朗々とブルースを歌い上げながら登場するキャノンボールはあたかも水を得た魚のように活き活きとしている。

ビッグ・バンドでのソロは他にもアーニー・ウィルキンス(ts, arr, 1919~1999 79歳没)が指揮をしたオーケストラ『アフリカン・ワルツ』(Riverside,1961)が素晴らしいし、レイ・ブラウン(b)の『Ray Brown With The All-Star Big Band』(Verve, 1962) での<ワーク・ソング>など胸がスカッとする。

キャノンボールはその巨漢のイメージ通り包容力がありウイットに富んだ人柄と、勿論あの重量級のビッグ・トーンでニューヨークのシーンに受け入れられたがその一方で体の重さに似合わず行動派で自身の売り込みも素早かった。
1955年ニューヨークへやってきたアダレイ兄弟はひとづてにクインシー・ジョーンズの住所を聞きあて自宅を訪ね、デモ演奏の音源を聴かせてレコード会社を紹介してほしいと頼みこんだ。
クインシーはその音を聴いてびっくり驚嘆、すぐさまエマーシーのプロデューサー、ボブ・シャッドに話をしたところクインシーの推薦ならと音も聴かずに即決でGOとなりクインシーがメンバーを集めて録音が実現してしまったという。
このときのクインシー・ジョーンズ(tp,arr)が編曲をした『Julian “Cannonball” Adderley』(EmArcy, 1955) に集められたメンバーはアダレイ兄弟にジミー・クリーヴランド(tb)、J.J. ジョンソン(tb)、ジェローム・リチャードソン(reeds)、ジョン・ウィリアムス(p)、ケニー・クラーク(ds)、ポール・チェンバース(b) など錚々たるメンバーで、急ごしらえでこれだけのメンバーが揃ってしまう当時のニューヨークのシーンは凄いなと思う反面、ひょっとしてみんな仕事に恵まれない状況にあったのかもしれない。

キャノンボールはクインシー・ジョーンズとの契約の都合で、ロニー・ピーターズという変名でミルト・ジャクソン(vib)の『プレンティ・プレンティ・ソウル』(Atlantic, 1957) でも一緒に仕事をしている。

ミルト・ジャクソンとはその翌年 (1958年) オリン・キープニュースのプロデュースでリヴァーサイドに『THINGS ARE GETTING BETTER』(Riverside, 1958) を録音することになり、それを機に1964年までキープニュースのもとで<ジス・ヒア>の『in San Francisco』(Riverside, 1960)や<ワーク・ソング>の『Them Dirty Blues』(Riverside, 1960) といったヒット・アルバムを次から次へとリリースしてゆきポピュラーな人気を得るようになる。

64年以降キャピトルと契約しポップな企画ものが多くなるが<マーシー・マーシー・マーシー>が入った『Mercy, Mercy, Mercy!: Live at “The Club”』(Capitol, 1966) は大ヒットした。
因みにアルバム・タイトルはライヴ・アット・ザ・クラブとなっているがレコーディングそのものはキャピトルのスタジオで行われたそうである。

レギュラー・グループを離れてのレコーディングではビル・エヴァンス(p)との『Know What I Mean ?』(1961、Riverside, 1961) がキャノンボールの洗練されたセンスの良さ、インテリジェンスがよく出ていて、とりわけ映画「大運河」で使われたジョン・ルイス (p) の曲<ヴェニス>は3分足らずの短い演奏であるがストレイトにテーマを吹くキャノンボールの瀟洒なフレーズが耳に残っている。
エヴァンスとは58年の『Portrait Of Cannonball』(Riverside, 1958) でも共演している。
58年当時、キャノンボールとエヴァンスはマイルス・デイヴィスのグループで一緒だったので息があったのであろう。

そしてジョン・コルトレーン(ts,ss)ともマイルスのもとで一緒にプレイしている。
キャノンボールの低音域を活かしたアルトとコルトレーンの高音域に艶のあるテナーがチェイスを始めるとどっちがどっちだか分からないような展開になるのが『マイルス・トーン』(CBS, 1958) の<ストレイト・ノー・チェイサー>等今聴いても息が詰まる。
キャノンボールとコルトレーンはマイルスのグループでシカゴを訪れた際にマイルス抜きのクインテットで『Cannonball Adderley Quintet in Chicago』(Mercury, 1959)をレコーディングしているがこれもテナーの2管のように聴こえるから面白い。

ジュリアン・エドウィン“キャノンボール”アダレイは1928年9月15日フロリダ州のタンパに生まれる。
3歳年下の弟ナット・アダレイ(cor, 1931~2000 68歳没)とは長年にわたってアダレイ・ブラザーズとしてコンビを組んでいた大の仲良し兄弟であった。
父親はコルネット奏者で、のちに学位を取りフロリダA&M 大学の教職に就くという努力家でキャノンボールとナットはそうした父親を尊敬していた。

キャノンボールは小学2年ぐらいからピアノを学んでいる。
9歳の時に父親からトランペットを与えられたがサックスを吹きたかったキャノンボールはトランペットを弟ナットにゆずり、中古のアルトを手に入れる。
キャノンボールはテナーを吹きたかったが格好のテナーがなくアルトにしたという。
そしてキャノンボールはコールマン・ホーキンス(ts)やレスター・ヤング(ts)、バド・ジョンソン(reeds)バデイ・テイト(ts)といったテナー奏者のソロをアルトで吹いていたという。
テナーのソロをアルトで吹くという独特の訓練の成果があの芯の太いアルトの形成に役立ったのではないかと思われる。

アルトではジョニー・ホッジス(as)やベニー・カーター(as) 等を聴いていたという。また練習にあたっては父親から楽譜を読むようにと指導を受け兄弟で研鑽に励んだ。

両親がフロリダA&M大学の教職に就くためアダレイ一家はタラハシーに移る。
そしてアダレイ兄弟はハイスクールの頃からフロリダA&M大学のバンドに加わって演奏を始める。
フロリダからはバスター・クーパー(tb, 1929~2016 87歳没)やアイドリース・シュリーマン(tp, 1923~2002 78歳没)、サム・ジョーンズ(b, 1924~1981 57歳没)、ブルー・ミッチェル(tp, 1930~1979 49歳没)達を輩出している。
このタラハシー時代に二人はレイ・チャールズ(vo, as 1930~2004 73歳没)とも共演している。

また、1948年、19歳でフォートローダーデールのデイラード・ハイスクールの音楽ディレクターに就く。
1950年に徴兵されるが、その間ワシントンの海軍音楽学校で学び、52年~53年は陸軍のダンス・バンドのリーダーを務めている。

アダレイ兄弟は兵役でフロリダに着任していたジャッキー・バイアード(p,as 1922~1999 76歳没)と知り合い指導を受けている。
バイアードと云えば『ファー・クライ』(1960, Prestige) 等々エリック・ドルフィー(as,cl,bcl 1928~1964 36歳没)との諸作で知られているが実はキャノンボールにも係わっていたのである。

1955年、キャノンボールはニューヨーク大学の講義を受ける為に弟ナットやバスター・クーパー(tb)と共にニューヨークを訪れるが大学の近くにあるクラヴ「カフェ・ボヘミア」へも足を延ばしアルトを披露する。
55年の3月にはチャーリー・パーカー(as, 1920~1955 34歳没) が亡くなり沈滞ムードが漂っていた時期なのでキャノンボールは一夜にして希望の星、パーカーの再来と讃えられ、シーンに衝撃を与えるニューヨーク・デビューを果たした。

いわゆるカフェ・ボヘミアの伝説がこのときに生まれた。
現場に立ち会った多くのミュージシャンや評論家が所説を振りまきキャノンボールを讃えた。
当夜のカフェ・ボヘミアはホレス・シルヴァー(p) やオスカー・ぺティフォード(b)、ケニー・クラーク(ds)、ドナルド・バード(tp)、ジミー・クリーヴランド(tb) そしてジェローム・リチャードソン(ts)と云うプログラムであったがスタートの時間になってもジェローム・リチャードソンが現れなかったという。

ちょうどそのタイミングでチャーリー・ラウズ (ts) が店に入ってきたのでオスカー・ペティフォードがラウズに一緒に演奏しようと声をかけたが楽器を持ってきていなかったラウズは楽器を持っていたキャノンボールに白羽の矢を立ててキャノンボールをステージにあげたのだという。
キャノンボールは初のニューヨークのステージに臆することなく立った。

ここからが伝説である。
バンドは<アイ・リメンバー・エイプリル>を目まぐるしいほどの高速のリズムでとばしフロリダのニューフェイスを歓迎したがキャノンボールはそれをものともせず持ち前のパワーを披露、居合わせたミュージシャンを驚嘆させたという。
ペティフォードたちとジョイントの仕事で店に居合わせてこの演奏を聴いたジャッキー・マクリーン(as) は近くの店で仕事をしていたフィル・ウッズ (as) に声をかけてカフェ・ボフェミアに戻りキャノンボールの音に顔を見合わせて驚いたという。

この時のドラマー、ケニー・クラーク(ds, 1914~1985 71歳没) はキャノンボール兄弟の才能を買って早速『Bohemia After Dark』(Savoy,1955)で兄弟をフィーチャー、さらに同時期に『Presenting Cannonball Adderley 』(Savoy,1955)も録音している。

ちょっと休暇を利用してニューヨーク大学の講義を受けるつもりがニューヨーク・シーンで活躍することになったアダレイ兄弟はキャノンボール・アダレイ・クインテットを結成し以降休む暇もなくトップの座をひた走ることになる。

1975年8月8日、キャノンボール・アダレイはツアーの途中インディアナ州ゲイリーで脳卒中のため亡くなった、46歳と云う若さであった。

キャノンボールはでかくて、陽気で、いつも笑っていた。
しかも紳士で、頭も切れた。
だからバンドに入るなり、俺たちはたちまち奴を好きになった…マイルス・デイヴィス (マイルス・デイビス自叙伝より)

望月由美

望月由美 Yumi Mochizuki FM番組の企画・構成・DJと並行し1988年までスイングジャーナル誌、ジャズ・ワールド誌などにレギュラー執筆。 フォトグラファー、音楽プロデューサー。自己のレーベル「Yumi's Alley」主宰。『渋谷 毅/エッセンシャル・エリントン』でSJ誌のジャズ・ディスク大賞<日本ジャズ賞>受賞。

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