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R.I.P. ジョージ・ムラーツHear, there and everywhere 稲岡邦弥No. 283

Hear,there and everywhere #32 追悼 ジョージ・ムラーツ

text by Kenny Inaoka 稲岡邦彌

ジョージ・ムラーツが亡くなった。享年77。若いよなあ。何年か前から闘病中とは耳にしていたけど...。膵臓癌らしいから好きだった酒やタバコが直接の原因ではないらしい。僕の知り合いでは明らかにタバコや酒、嗜好品の過剰摂取が原因と思われる早世が多かった。それだけに酒やタバコが直接の死因ではなかったことがせめてもの幸いと言ったら叱られるか...。
僕が初めてジョージ・ムラーツと接したのは1974年。サド・ジョーンズとメル・ルイスのビッグバンドが初来日した時、カメラマンの阿部克自さんと評論家で本誌主幹の悠雅彦さんが小遣いを出し合ってデュオ・アルバムを制作、東宝レコードからリリースされた。『1X1』(ワン・バイ・ワン)というこのアルバム、青山にあった小さなラジオスタジオで録音された。ジョージはまだ30才、初々しい若者だったが、ひとまわり上のローランド・ハナと楽しみながら演奏している姿が記憶に残っている。この時、僕らは麻布のアオイスタジオで録音されていたディー・ディー・ブリッジウォーターのスケールの大きなヴォーカルに釘付けになっていた。ここでもベースはジョージ。中肉中背の若武者の腹の座ったベースに見惚れていた。僕ら自身はまだ駆け出しだったからねえ。ディー・ディーのデビュー・アルバム『アフロ・ブルー』はジャズ大賞の「企画制作賞」として高く評価された。2年後にサド=メルが再来日した時、オールアートの石塚さんが制作したハナとムラーツのデュオ『ポーギーとベス』が及川公生さんの録音の良さと相まってベストセラーとなり、このデュオが ”ハナ・ムラ”と愛称されるほど人気コンビとなった。

ジョージ・ムラーツは、1944年9月9日、チェコスロヴァキア南ボヘミア州ピーセクの生まれ。ヴァイオリンとアルトサックスを学んでいたがプラハ音楽院 (1961-5) 在学中にベースに転向。卒業後1年間ミュンヘンを中心に活躍していたところ、1968年、旧ソヴィエトのチェコ侵攻がありアメリカに移住、イジーというチェコ名をジョージに変え、1973年アメリカの市民権を取るに至る。移住後はバークリー音楽院に入学、作編曲を学ぶ。同時に、1970-72年はオスカー・ピーターソン・トリオのメンバーとして、さらにはスタン・ゲッツ・カルテットのメンバーとして活躍しながら(1974-75)、1976年までサド・ジョーンズ=メル・ルイス・ジャズ・オーケストラに在団、トップ・ジャズ・ベーシストとしての地位を確立した。シュアでステディなベーシストとしての本質を生かしたメインストリーマーとして掛け替えのない存在だったが、1978−80年にはジョン・アバークロンビーのカルテットのメンバーとしてECMへの3作品に参加、また同僚のリッチー・バイラークの名作『エルム』(ECM) ではイマジネイティヴな演奏を披露、さらには1988年にはカーメン・マクレエとセロニアス・モンク作品集を録音するなどヴァーサタイルな活躍も見逃せない。

同時代を生きたチェコ出身のベーシストとしてミロスラフ・ヴィトウスがいる。ヴィトウスは、ジョージの3才年下の1947年、プラハの生まれ。ヴァイオリンとピアノからスタート、プラハ音楽院に在学中の1966年バークリー音楽院への奨学金を獲得したが、この時のコンペティションで次席になったのがジョージ・ムラーツだった。強健で立派な体躯に恵まれていたヴィトウスはオリンピックを目指す水泳選手になる道もあったが1967年NYに移住、アメリカのジャズ・シーンに飛び込む。アート・ファーマーやクラーク・テリーなどメインストリーマーとの共演からスタートしたが、マイルス・デイヴィス、ハービー・マン、チック・コリア、ラリー・コリエルなどとの共演を経て新しいリズムに目覚め、1970年ウェイン・ショーター、ジョー・ザヴィヌルと語らいウェザー・レポートの結成に至るが、音楽性の変化を嫌い1973年退団、独自の道を歩み始める。ECMに創造の場を求めベース・ソロからウェザー・リポートで目指していた音楽を明らかにした『Remembering Weather Reportm』(2006) 、『Music of Weather Report』(2016) までを発表、骨のあるところを見せた。その間、1979年にはニューイングランド音楽院(ボストン)のジャズ科の主任教授に就いたり、チェコ・フィルのトップの音源を使ったデジタル・サンプル集「ミロスラフ・ヴィトウス・シンフォニック・オーケストラ」を発売するなど自己の可能性の追求に余念がなかった。

日本のファンに愛されたことではミロスラフ・ヴィトウスもジョージ・ムラーツに引けを取らないだろう。1978年に菊地雅章をプロデューサーに迎えたジョージ大塚のNY録音『マラカイボ・コーンポーン』で意気投合した大塚との共演で何度か来日、日本のミュージシャンやファンと親しく交わったこと、1982年に再結成したチック・コリア、ロイ・ヘインズとのトリオ(TRIO MUSIC) をECMからリリース、「ライヴ・アンダー・ザ・スカイ」への出演で熱狂的な支持を受けたことなどが挙げられる。
ジョージ・ムラーツとミロスラフ・ヴィトウス、同時代のジャズ・シーンを生きながらそれぞれが独自の道を歩んだ二人の偉大なチェコを代表するジャズ・ベーシストのひとりが地上から姿を消した。しかし、彼の傑出した業績はレコードやCDを通していつまでも鑑賞することができる。演奏家の特権だろう。

稲岡邦彌

稲岡邦彌 Kenny Inaoka 兵庫県伊丹市生まれ。1967年早大政経卒。2004年創刊以来Jazz Tokyo編集長。音楽プロデューサーとして「Nadja 21」レーベル主宰。著書に『新版 ECMの真実』(カンパニー社)、編著に『増補改訂版 ECM catalog』(東京キララ社)『及川公生のサウンド・レシピ』(ユニコム)、共著に『ジャズCDの名盤』(文春新書)。2021年度「日本ジャズ音楽協会」会長賞受賞。

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