#62 アラン・ベイツとの仕事
text by Kenny Inaoka 稲岡邦彌
オーネット・コールマン『クロイドン・コンサート』
テリ・リン・キャリントンが来日するので彼女と関係が深いCANDIDレーベルを調べていたら、元のオーナーのアラン・ベイツが2年前(2023年1月30日) に亡くなっていたことを知った。1925年生まれだから享年97。アランは72年に当時スイングジャーナル氏の編集長だった児山紀芳氏の紹介で知り合った。旧トリオレコードに入社したもののほとんど音源がなく、彼のBlack Lion レコードが保有する中小のレーベルは魅力だった。レーベルは、スイングから中間派(モダン・スイング)、モダン、フリーまで揃っており、それぞれのレーベルには目玉になるアルバムもあった。Sunset、Blak Lion、JazzTime/JazzLine、Sotoyville、Freedomなど。
アランはミュージシャン(テナーサックス奏者)の道を断念しミュージック・ビジネスを始めたキャリアがあり、コレクターでもあったので経営的に行き詰まったレーベルをこつこつ買い集めカタログを増やしていった。ミュージシャンや業界関係者の付き合いも広く、一代記をものしたら相応の内容に仕上がった思われる。歴史に名を残す仕事のひとつに通称「クロイドン・コンサート」の名で知られるオーネット・コールマンの『An Evening with Ornette Coleman』がある。オーネットの代表作のひとつ『ゴールデン・サークル』と同じ頃に同じメンバー(ディヴィッド・アイゼンソン b、チャールス・モフェット ds)で録音されたものだが、『クロイドン』は2枚組で冒頭、ウインド・クインテットによる25分に近い演奏が収録されている。イギリスのユニオンのルールで地元の音楽家の演奏を交える必要があり、オーネットが作曲した組曲である。アランの大英断でコンサートもレコーディングも可能になった。ビジネス的にはネガティヴな要素を追うことになったが。
ビリー・ホリデイ『ライヴ・アット・ストーリーヴィル』
アランはのちにニューポート・ジャズ・フェスのプロデューサーとして名を上げるジョージ・ウィーンとも親しく、ジョージが主宰していたレーベルStoryvilleを買い取った。このレーベルは秋吉敏子の2作でも知られているがいわゆる中間派の宝庫で、当時森山浩志さんと菅野沖彦さんがコンビでトリオレコードのために制作していた北村英治や西条孝之介らとも相性が良かった。彼のロンドンのオフィスでマスターをチェックしていたところビリー・ホリデイの未発表録音を見つけ小躍りした。アランも気が付いておらず、プレイバックしたところジョージがボストンのコープリー・スクエア・ホテルの地下に持っていたクラブStoryvilleからの実況放送の同録(1951年と1953年)だった。ラジオのDJも生々しく、ベースはジミー・ウッド、3曲にはスタン・ゲッツも参加していた。日本先行発売の確約を取り付け、帰国後、阿部克自さんにチャック・スチュアートの写真を加工してもらい、ライナーはビリーの権威・大和明さんに依頼した。1976年のことで1980年リリースの本家Black Lion に先立つこと4年だった。今月刊行された小川隆夫の労作『レーベルで聴くジャズ名盤 Part 2』(シンコーミュージック)にはビリーのアルバムは収録されていない。オリジナル至上主義には日本でのアルバム化作品は該当しないようだ。もう1枚、このレーベルには作家の向田邦子さんが愛したということで大ヒットしたミリー・ヴァーノンもあるのだが、これも「Best 15」からは落ちた。
セロニアス・モンク『ロンドン・セッションズ』
リヴァーサイド・レーベルのオリン・キープニュースを手伝っていた関係もあり、大ファンだったセロニアス・モンクの自社原盤があるのも嬉しく、地味だったアートワークを内藤忠行氏の大胆な色調に変え、あっと言わせたことも(1973年)。1952年にチャーリー・ミンガスとマックス・ローチが創設した debutレーベルの原盤を何枚か買い取っており、アルバート・アイラーの3部作、『マイ・ネーム・イズ・アルバート・アイラー』、『スピリッツ』『ゴースト』、セシル・テイラーの『ライヴ・アット・ザ・カフェ・モンマルトル』を Freedomレーベルから再発できたのは夢のようだった。Fontanaからはポール・ブレイの『ブラッド』『イン・ハーレム』など。デクスター・ゴードンやジョニー・グリフィンなどメインストリーム系が多いBlack Lionよりもマリオン・ブラウンやアーチー・シェップがあるFreedomに心が躍った。ビジネス的には、マニアの心を揺すりロングセラーとなった Jazztimeの『ウォルター・ビショップ Jr. /スピーク・ロウ』『ロッキー・ボイド/イーズ/イット』、Jazzlineの『デューク・ピアソン/ハッシュ!」、『デイヴ・ベイリー/バッシュ!』などもあり辻褄を合わせることができた。
エリカ・リンゼイ『ドリーマー』をNYでプロデュース
1989年のことだった。旧知のハワード・ジョンソンから女流サックス奏者エリカ・リンゼイの紹介を受け、アランに頼み込んでマンハッタンのクリントン・スタジオでアルバムをプロデュースした。ピアノはやはり女流のフランチェスカ・タンクスリー、ベース アンソニー・コックス、ドラムス ニューマン・ベイカー、ハワード・ジョンソンがチューバ、バリトン・サックス、フリューゲルホーンで参加、これがエリカの当時のレギュラー・クインテットで、1曲だけトロンボーンのロビン・ユーバンクスに参加してもらった。クリントンで録音に2日、ミックスに1日、エンジニアには気心の知れたデイヴィッド・ベイカーを起用した。エリカはバークリーに学んだオーソドックスな楽風で、完パケを菊地雅章に試聴してもらったところ「ずいぶん真面目な演奏だなあ」という感想だった。エリカの撮影にはヘア・メイクを付け、万全を期した。僕にとっては海外のレーベルから予算をもらって制作した初めての経験となった。アルバム『Dreamer』は、1989年、CANDIDレーベルからリリースされた。エリカのバンドはシンディ・ブラックマンのバンドらとともに翌年、新宿で開かれた「Women in Jazz」に参加した。
CANDIDとテリ・リン・キャリントン『We Insist! 2025』
一方でECMの市場開拓をやりながら他方でBlackLionのカタログを通じて旧来のジャズファンの要望に応える仕事は大変だったが若さでなんとか乗り切った。そういう意味でアラン・ベイツにはレコード・ビジネスの何たるかをを身を持って教えてもらったとの感が強い。なかでも原盤を持つことの重要性。だからこそ、僕が制作したトリオレコードの原盤のマスターを廃棄されたことを知ったときの怒りは並大抵のものではなかった。
アラン・ベイツはその後、BlackLionを手放し、CANDIDを手に入れ、女性歌手ステイシー・ケントのデビューに成功するなどCANDIDを中心に活動を続けたが加齢と共に体調を崩しCANDIDも第三者の手に委ねたようだ。アメリカに拠点を移したその新生CANDIDから才媛テリ・リン・キャリントンがかつてのCANDIDを象徴するアルバム、マックス・ローチとアビー・リンカーン夫妻の『We Insist!』の21世紀ヴァージョンをリリース、今月ブルーノート東京に来演する。アランの意志が立派に引き継がれていることを確認するのも手向になるだろうと信じてテリ・リンの演奏には立ち会いたいと思う。