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ある音楽プロデューサーの軌跡 稲岡邦弥No. 230

ある音楽プロデューサーの軌跡 #36 富樫雅彦

CDを整理していて気付いたことは、邦人では加古隆、富樫雅彦、菊地雅章、この3人のミュージシャンたちと仕事をする機会がいちばん多かったということ。

よりによってこの気難しい人たちとずいぶん長く仕事を続けられたな、と感心する。加古さんはまだパリのコンセルバトワール留学中から、富樫さんは事故から復帰以来、菊地さんとはプロデューサーとしてギルのコンサートを録音して以来ということになる。僕の場合は、レコード・プロデューサー/ディレクターという職務上、それぞれとは録音制作での関わりということになる。菊地さんは例外的に5年ほどマネジメントを引き受けていたので、録音制作以外の仕事にも関わることになった。

加古さん、菊地さん(菊地さんについては別項で何度か触れる機会があった)は別の機会に譲るとして、今回は富樫さん(富樫さんについても追悼文として思い出を綴ったことがあった)に焦点を当ててみたいと思う。

 

富樫さんのレコーディングはいつも富樫さんのキャリアのエポックメイキングな節目だったので緊張感を伴うことが多く、それだけにやりがいのある仕事だった。最初の出会いは、1973年7月3日、富樫さんが事故から復帰した初めてのコンサート、ピアノの佐藤允彦さんとのデュオだった。故副島輝人さんが企画した画期的なイベント、「インスピレーション&パワー〜フリジャズ大祭1」の中での一夜。初めて両手だけで佐藤さんに対峙、いろいろな意味で手に汗握るセッションだった。LP両面に収まる演奏が抜粋され『双晶』(Trio)としてリリースされたが、その後、客席でプロ仕様のデッキで録音されたカセットの提供を受け、全曲がCD『カイロス』(Polystar) としてリリースされるドラマが待っていた。何れにしても、最後まで続いた富樫=佐藤デュオの幕明けに立ち会う幸運に恵まれた。それにも増して制作過程を通じた傑出した両者との触れ合いは何ものにも変えがたい貴重な体験である。

それから約4年後の加古隆(p)、翠川敬基(b)を含むカルテットによる沖至の『ミラージュ』(Trio,1977) を経た翌年のリッチー・バイラーク(p)とのデュオ『津波』(Trio,1978)。この時バイラークはNYからエンジニアを帯同、ライヴ録音に万全を期した。一部テープをリヴァースさせるなどのエフェクトも加え、さらにはダイレクト・カッティングにも挑戦した(『カフナ』Trio,1978)。ダイレクト・カッティングといえば、2年後にも加古隆とのデュオで再挑戦(『Valencia』Trio,1980)。

翌1981年にはこれも異色作というべきだろう、ヴォーカリスト後藤芳子のデビュー・アルバム『Because』(Trio,1981) のバックを佐藤允彦(p)、井野信義(b)とともに務めた。この時は後藤をよく知る当時のマネージャーの伊藤博昭が後藤の意向を汲んでプロデューサー役を引き受けた。ちなみに、このトリオは尺八の故山本邦山を加えたカルテットでヘレン・メリルのアルバム『Affinity』(Teichiku,1982) のバックを務めている。

これも初物だと思うが、リッチー・バイラーク(p)、日野皓正(tp)とのトリオによる映像作品『エアーズ・ロック』(Pioneer Lasardisc,1984) とのコラボレーション。アートビデオのハシリだが、映像作家である飯村隆彦氏の映像作品“エアーズ・ロック”と音楽の多面的な関わりを試みた。音楽だけでも自立し得るとの評価のもと、LPとしてもリリースされた(『エアーズ・ロック』Polydor,1984)。

僕にとっても忘れられない一作のひとつとなったのが、1986年の2枚組アルバム『ブラ・ブラ』(PAN Music,1986)である。富樫さんの音楽生活30周年に富樫さんが希望した共演者は、スティーヴ・レイシー(ss)、ドン・チェリー(tp,p,vo)そしてチャーリ—・ヘイデン(b)だった。いずれも富樫さんが共演経験を有し、ミュージシャンシップを築き上げたいわば盟友たちである。スケジュールの都合で確保できなかったヘイデンに代わって僕が推薦したベーシストがデイヴ・ホランドだった。ホランドは「サークル」や「マイルス」を通じて愛聴してきたベーシストだが極めて懐の深いミュージシャンである。彼なら富樫さんのどんな要求にも応えられ、それ以上のサムシングを提供できると確信していた。結果は、『ブラ・ブラ』を名盤の一作にランクされることに大いに寄与し、しかもよくバウンスするホランドのベースが富樫さんのジャズマン魂に火を付け、「J.J.Spirits」結成を促したということは望外の喜びだった。また、このアルバムは、友人の河野寿一が立ち上げたレーベルPAN Musicの第1回発売作品となった。

『ブラ・ブラ』から2年後にリリースされたアルバムが『ヴォイセス』(Transheart,1988) 。スティーヴ・レイシー(ss)、J.J.アヴネル(b)とのトリオ。僕が当時勤務していたユニコムという会社内に立ち上げたインディ・レーベルTransheartからリリースさせていただいた作品。Transheartトランハートというのは、「心から心へ」の意味を込めた造語である。このレーベルからは他にポール・ブレイのトリオとソロ、リッチー・バイラークのトリオなどを制作・発売した。

 

 

 

photo R:及川公生|菊地雅章|富樫雅彦|筆者|Dr.内田修
*及川公生氏のFacebookより(写真家・市川幸雄氏の撮影と思われる)

 

次は、大作(文字通り2枚組)と呼べると自負する菊地雅章とのデュオ。クラウンレコードの岩崎哲也プロデューサーに機会をいただき、氏が興したレーベル「91(ナインティワン)」の記念すべき第1回作品として制作。僕の脳裡には菊地=富樫デュオ(一部ゲイリー・ピーコックを含むトリオ編成)による『ポエジー』(Philips,1971) の魅力が強く刻み込まれていて、キャリアの変遷を経た20年後のふたりを対峙させてみたかった。ただ、こういう“鬼才”同士の出会いはひょんなことからトラブる可能性があるので、ふたりの親父的存在の内田修先生に立ち会っていただいた。ふたりの演奏はそれぞれが曲によってソリストとなりオケとなる展開を見せたので、僕の独断でアルバム・タイトルを“コンチェルト”とネーミングさせていただいた。またアートワークも2頭の犬の写真をパソコンで思い切りデフォルメするアイディアを採用してもらった。ふたりがまったく対等の立場だからこそできることで、どちらかが明確にリーダーとなっている場合には当然リーダーの指示に従わざるを得ない。ブックレットには内田先生によるふたりの馴れ初めから現在までの経緯が、清水俊彦先生による音楽的な解説が収録されている。残念ながら4者ともすでに鬼籍に入ってしまったが、彼らの成果はジャズ史にあって永遠に不滅である。

『コンチェルト』録音で杞憂に終わったふたりの諍いが3年後のセッションで現実のものになった。菊地、富樫、ゲイリー・ピーコックという『ポエジー』のリユニオンともいうべきセッション。1994年録音の『ビギン・ザ・ビギン』(Aeolus) と『テネシー・ワルツ』(Aeolus)。エンジニアの及川公生氏紹介のプロジェクトで、DATプレイヤー用のソフト開発を目的としていた。スタジオにはオーディオメイカーのモニターが追加配備され、関係者の出入りも忙しくミュージシャンにとっては集中力を欠く環境だった。モニターでプレイバックを聴いていた菊地さんが、「ピアノの倍音にシンバルがぶつかるなあ」というようなことを独り言のように呟いた瞬間、富樫さんが「俺が叩かなきゃいいんだろ」と言うなり、車椅子でスタジオから出て行ってしまったのだ。セッションは未だ半ば、僕は別室に退いた富樫さんを懸命に説得、なんとか職場復帰を果たしてもらった。その間、菊地さんとゲイリーが手慰みに演奏したのが<峠の我が家>。アルバムのクローザーとして収録されている...。なお、この2作は、Aeolus(アイオロス)レーベル立ち上げの作品でもあり、CDとDATでリリースされた。


同じ年、富樫さんに呼ばれて珍しく子犬を連れて足柄の富樫宅を訪れた。部屋に入ると甘いラテンがBGMとして静かに流れていた。当時、富樫さんが飼っていたクマという真っ黒な大きな犬と僕のヨークシャ・テリアのジロが戯れる姿を目を細めてしばらく見つめていた。BGMになるソロ・アルバムを作りたいと言う。富樫さんは何年も前に佐藤允彦さんのピアノで『Ballad-My Favorite』(Paddle Wheel,1981) というBGMを目的としたアルバムを制作している。今回は念入りに構成を考え、譜面に書き落とし、オーバーダビングも加えたいという。山中湖畔のスタジオで3泊4日、富樫さんの仕事では初めてマルチテープを回した。自作の絵をアートワークに起用し、完成したのが『パッシング・イン・ザ・サイレンス』(Transheart,1994) だ。富樫さんのコメントとして「できるだけ小さなヴォリュームで聴いてください」と付記されている。この時のセッションが忘れられないものとなったもうひとつの理由は、問わず語りに富樫さんが語り出した、アディクション(ドラッグ中毒)の思い出。稼いでも稼いでもあっという間にクスリに消えてしまう。食べ物を買う金がなく、ウサギにやるからと剥いで捨ててあったキャベツの上皮をもらってきて醤油で煮て食べたり...暖房器具を買えないので、裸電球のコードを畳まで下げて電球の熱で暖をとったり...極貧生活が続いた。それでもクスリの誘惑には勝てない。奥さんは、今から注射を打つから警察に電話してくれ(現行犯しか逮捕できない)、と懇願されたけどそれだけはどうしてもできなかった...と述懐。やがて逮捕、拘禁の身に。中に居るときは音楽理論の勉強をしていた。トーサ(佐藤允彦)に理論書差し入れしてもらってたんだよ。ちなみに、富樫と佐藤は小学生の頃同じヴァイオリン教師についていた兄弟弟子の仲。最後の最後まで富樫を気遣い何かと面倒を見ていたのは佐藤允彦だったという。

 

このソロ・アルバムの制作が富樫さんとの仕事の集大成と思っていたところ、3年後の1997年、自分のレーベル Trial Recordsを立ち上げる、第1作はリッチー・バイラークとのデュオでいきたいとの連絡。『フリーダム・ジョイ』(Trial,1997)は、江間和宏のエンジニアリング、故大橋邦夫のプロデュースにより長野県須坂市で録音された。届けられたCDを見て驚いた、なんとレーベル・ロゴにはあの愛犬クマの肖像が使われていたのだ!

富樫さんとの最後の仕事は1999年6月、思わぬ、しかし最高の形で迎えることができた。ピアニスト藤井聡子の呼びかけで巨匠ポール・ブレイのソロ・ツアーが実現し、締めが富樫さんとのレコーディングという極め付けのエンディング。SACD普及のソフト制作の一環としてSME(ソニー・ミュージック・エンタテインメント)上原基章ディレクターがポールと富樫さんのデュオ・レコーディングを受け入れてくれたのだ。土壇場になってポールが曲モノという企画をひっくり返し、全編インプロということになったが、まさにポール・ブレイと富樫雅彦、東西の最高のインプロヴァイザーの切り結びはスリル満点の展開となってSACDに刻み込まれた。みなとみらいホールの極上のベーゼンドルファー・インペリアル、伝説の銘器が伝説の名手を得て喜びに打ち震えていた。

2007年8月22日、富樫雅彦が逝って早くも10回目の夏を迎えようとしている..。

稲岡邦彌

稲岡邦彌 Kenny Inaoka 兵庫県伊丹市生まれ。1967年早大政経卒。2004年創刊以来Jazz Tokyo編集長。音楽プロデューサーとして「Nadja 21」レーベル主宰。著書に『新版 ECMの真実』(カンパニー社)、編著に『増補改訂版 ECM catalog』(東京キララ社)『及川公生のサウンド・レシピ』(ユニコム)、共著に『ジャズCDの名盤』(文春新書)。2021年度「日本ジャズ音楽協会」会長賞受賞。

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