From the Editor’s Desk #15『Remember Saison』
text by Kenny Inaoka 稲岡邦彌
2023年9月1日を以て池袋の西武デパートがセブン&アイからアメリカのファンドの手に渡った。直前に組合のストが決行されマスコミを賑わした。セゾン・グループはすでに2001年に解体されたそうだが筆者の頭の中では幻影として残っている。複雑怪奇な(のように見えた)企業体であった西武を論じようとする大それた内容ではなく、なんとなくセゾン(堤清二)・ファンであった筆者の極私的関わりを留めておきたいと思ったに過ぎない。西武については、創業者の堤康次郎が病没にあたって次男の清二に流通系を、異母弟の義明に鉄道と不動産系を継がせた、くらいの知識しかない(ジャズ関係では、オールアート・プロモーションの故石塚孝夫社長が義明の従兄弟と聞いている)。
71年、旧トリオレコードに転職、オフィスは渋谷西武の目の前。テッド・ラピドスのスーツなど衣服は西武で購入するようになった。72年、オフィスが六本木に移転、ビジネスも含め西武系との付き合いが多くなるが、時系列を無視しては書き連ねていく。
池袋西武には西武美術館が設置され (1979~1999) モダンーアートが中心だったが、ミラノ・スカラ座の公式カメラマンだったロベルト・マゾッティの写真展が開催された。リチャード・タイテルバウムが初来日した際、請われて美術館を案内、彼は館内のノイズをミニ・レコーダーに収録、同じフロアにあったアール・ヴィヴァンでCDを購入。フロアにはコンテンポラリー・アートのイベントスペースとしてスタジオ200も設置されていた (1979~1991)。本誌201号で紹介した#1103 『佐藤允彦&ローレン・ニュートン/Skip the Blues』の一部はスタジオ200でライヴ収録されている。
六本木には伝説の高感度ビルWAVE (1983~1999) が作られ、レコード・CDショップを中心に階上にはセディック・スタジオ(阪神淡路大震災のチャリティ・アルバム所収の小曽根真のソロ<No More Blues>はこのスタジオで収録。地下にはシネ・ヴィヴァン、1階裏手には武満徹の作品に因んだカフェ「レイン・ツリー」が(武満は大江健三郎の著作に触発されて作曲したが、それを受けて大江は連作の第二作を手がける)。「レイン・ツリー」は打ち合わせでよく使ったがいつも混んでいた。武満が目をかけていた打楽器アンサンブルNEXUSの来日公演での<レイン・ツリー>も記憶に鮮やか。
87年から5年ほど電通の依頼で韓国の打楽器アンサンブル「サムルノリ」の日本マネジメントを請け負った。渋谷のPARCO part3での公演が多かった。単独公演もあったが、金徳洙のプロデュースでシャーマンの金石出、僧舞の李梅芳ら国宝級のアーチストとステージを分けることもあった。単独公演ではクラブ・クアトロでの公演もあった。Parco part3 では、ビル・ラズウェルの「Last Exit」の公演もあり (1986年)、ビルの他、ペーター・ブロッツマン、ソニー・シャーロック、ドナルド・シャノン・ジャクソンがステージに上がった。
堤清二が西洋環境開発を設立、八ヶ岳の海の口に分譲別荘を開発、シンボルとして八ヶ岳高原音楽堂を設置した (1988~)。音楽監督は武満徹。リッチー・バイラークの音楽性を認めていた武満のプロデュースで2度出演した。リチャード・ストゥールマンとのデュオと武満自身との対話「ジャズとは何か?」。対話では武満の質問に答える形で実演を交えながらリッチーが答える形を取ったが、最後に武満のリクエストに応じて自作の<エルム>を披露、この公演はNHK-BSで公開された。この音楽堂では1989年1月キース・ジャレットのチェンバロ・リサイタルも開催され、録音技師が来日、後にECMからリリース『ゴルトベルク変奏曲』(ECM1395) としてリリースされた。
鯉沼利成が「ライヴ・アンダー・ザ・スカイ」の次に手がけたシリーズ・コンサート「東京Music Joy」(1995=1991) も西武のサポートで音楽監督は武満徹。1985年2月の第1回はチック・コリアとキース・ジャレットがモーツァルトのピアノ・コンチェルトで協演(五反田ゆうポート)、大きな話題となった。他に、武満の映画音楽特集などが印象に残っている。
そういえば、無印良品の良品計画もセゾン・グループだった。気に入ったアース・カラーのリネンの長袖シャツを2枚買って愛用していたが寿命が来たようだ。これで文字通りセゾンともお別れか。
セゾングループはほとんど人手に渡ってしまったようだけど、唯一、公益財団法人 セゾン文化財団だけは健在のようだ。1987年、演劇と舞踊の振興と国際交流を目的として堤清二(1927-2013)が私財を投じて設立した財団だ。
バブル経済の功罪は色々あろうが、堤清二はその膨満経済を上手に活用し「セゾン文化圏」を形成、その恩恵に与った文化人やアーティストも少なくないはず。筆者もバブル期以外では困難と思われるプロジェクトを幾つか実現することができたのは事実である。
この稿をまとめるにあたって、西武グループの広告会社SPNで活躍されていた泉秀樹さんに架電した。泉さんはヨゼフ・ボイスの公演やビデオ制作などで功のあった人物。退職後、吉祥寺に sound cafe dzumiを開店、先鋭的なアートのサロンが人気を博し、堤清二氏も何度か足を運んできたそうだが、ご夫人の看護のためにやむなく10周年を目前に閉店を決意。閉店を惜しむ声はいまだに絶えない。(文中敬称略)
https://toyokeizai.net/articles/-/711158?page=2