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Jazz à la Mode 竹村洋子No. 259

ジャズ・ア・ラ・モード# 27. ヘイゼル・スコットのスインギング・クラシカル・エレガンス

# 27. ヘイゼル・スコットのスインギング・クラシカル・エレガンス

27. Hazel Scott: Swinging Classical Elegance
text by Yoko Takemura 竹村 洋子
Photos: Used by permission of the University of Missouri-Kansas City Libraries, Dr.Kenneth J. LaBudde Department of Special Collections,  Pintrest より引用

ヘイゼル・スコット。女性ジャズピアニストの草分け的存在でもあり、ジャズ、クラシックのピアニストであったと同時にシンガー、女優でもあった多才なアーティストだ。
ジャズファンには、アート・ブレイキーの<Moanin’ with Hazel>でも知られているだろう。
パリで活動したり、61歳という比較的若くして逝ったこともあり、日本ではあまり知られていないが、白と黒の2台のグランドピアノを優雅かつ巧みに演奏するピアニストの姿をどこかで見た記憶がある方も多いと思う。

ヘイゼル・スコット(Hazel Scott:1920年6月11日~1981年10月2日)は、トリニダード(現トリニダード・トバゴ)で父親は英国リバプール出身の西アフリカに関する学者、母親はアルマ・ロング・スコットはクラシックのピアノ教師、という非常に教養豊かな両親の元に生まれた。
ヘイゼルは3歳の時には既にピアノが極めて上手い神童として近所で有名だった。
1924年ヘイゼル4歳の時、両親が離婚。母アルマと共にアメリカ、ニューヨーク・シティのハーレムに移住する。幼いヘイゼルはこの頃からハーレムでアート・テイタム、レスター・ヤング、ファッツ・ウォーラーといったニューヨークのジャズ・ジャイアンツ達からピアノの指導を得ながら、6歳の時、タウンホールでデビューする。8歳の時、ジュリアード音楽院のスカラシップを取るが、ジュリアード側の生徒受け入れの最少年齢が16歳だった為に学院で学ぶことは叶わなかった。が、ヘイゼルの天才的な才能に感銘を受けた教授の一人からプライベート・レッスンを受けることになる。

1929年、大恐慌下、職を必要とする母のアルマは女性だけのガールズ・バンドに数年間在籍し、サキソフォーンを演奏していた。その後、アルマは自分のバンドを持ち、ヘイゼルは母のバンドに混ざったりしてピアノの演奏に磨きをかけていく。アルマはヘイゼルがクラシックのピアニストになることを望んだが、ヘイゼルはジャズピアニストになる事を強く希望してたようだ。
ヘイゼルは、未だハイ・スクールの生徒だった16歳の時、ニューヨーク・シティのローズランド・ボールルームにカウント・ベイシーと一緒に出演し、大ヒットした。彼女はラジオ局WORでショウのホストも務める。
1938年にはブロードウエイミュージカルの『Something Out the News』に出演し、『最も光り輝く存在』として注目を浴びる。
1939年、19歳の時に大きな転機が訪れる。当時人種差別に関しては寛容だったナイトクラブ『カフェ・ソサエティ』で仕事を得る。『カフェ・ソサエティ』はビリー・ホリディが<奇妙な果実:Strange Fruits>を初めて歌ったところでもあり、ビリー・ホリデイの他、マイルス・デイヴィス、ナット・キング・コール、ベッシー・スミス、エラ・フィッツジェラルドなどが活躍するハーレムのナイト・スポットの一つだった。ヘイゼルは人種差別を非常に嫌っていたので、ここで思う存分演奏ができた。

クラシック・ピアノの素養がベースにあるヘイゼルは、モーツァルト、バッハ、リストなどの曲にシンコペーションやインプロヴィゼーションといったジャズのエッセンスやテクニックを加えてアップテンポに演奏し、彼女独自のジャズのスタイルを確立させる。このスタイルは『スインギング・クラシック』と呼ばれた。
1930~1940年を通して、ヘイゼルはナイトクラブを中心に、神業とも思えるテクニックでピアノを弾きまくり、稼ぎまくった。1940年、『Swinging the Classics』をデッカ・レコードからリリースし、初めてのレコード・アルバムデビューを果たしセンセーションを巻き起こす。ヘイゼルはニューヨーク・シティに家を買い、若くして既に大きな成功を収めていた。彼女の手には保険もかけられていたようだ。

1940~1943年の間に『Something to Shout About』『Tropicana』『The Heat’s on』『Broadway Rhythm』『Rhapsody in Blue』といった5本のメジャーなハリウッド映画に出演する。映画女優としてもヘイゼルは人気があり、第2次大戦下、ヘイゼルはピン・ナップガールの一人でもあった。ピン・ナップ・ガールは兵士達の戦意高揚や故郷の恋人や妻を思い出すために流行した。この時代、人種差別も当然あり、ピン・ナップ・ガールも白人用と黒人用に分かれていた。白人女性ではマリリン・モンロー、ベティ・グレイヴス、ジェーン・マンスフィールドなどのハリウッドスターが有名だが、黒人女性の代表格がヘイゼル・スコットとレナ・ホーンだったのだ。レナ・ホーンとは生涯親しかったようだ。

ハリウッドで活動をしていた頃から、既に公民権運動にも関わっていたヘイゼルは、当時黒人女優の多くが演じたメイドや娼婦の役を拒否した。女優を辞めたのは、映画のディレクターに黒人女優たちのコスチュームがふさわしくない事を抗議し、ストライキを起こしたからだと言われている。このストライキで映画会社側は大きな損害を被り、ヘイゼルはハリウッドを追われるようにしてニューヨークに戻る。

ニューヨークに戻ったヘイゼルは1945年に上院議員でバプチストの教会の牧師でもあったアダム・クレイトン・パウエル・ジュニアと結婚しする。このカップルはアメリカで最も過激な公民権運動家でゴージャスな黒人夫婦として一躍有名になった。
1950年7月、ヘイゼルは『The Hazel Scott Show』という毎週3回放送されるテレビ番組のホストに抜擢される。アメリカで初めて自分のテレビ番組を持った黒人女性となる。
すべてが順調満帆に進んでいるよう思えたが、第2次大戦終結後、共産主義のスパイ、というレッテルを貼られることになった多くの作家、芸術家、俳優達の一人として『赤狩り』のターゲットの一人となってしまった。特に進歩的な考え方の人々が多かったハリウッドの人達はの恰好の餌食となり、共産党員でない無関係な人々も失職に追い込まれた。ヘイゼルもその一人であった。彼女は下院非活動委員会で身の潔白を主張したが、彼女のテレビ番組をはじめ、クラブやコンサートの仕事も全てキャンセルになる。

ヘイゼルは心身ともに疲れ果て、1951年にパリに移る。パリでの生活は彼女を元気づけた。自宅には当時アメリカから来ていたディジー・ガレスピー、セロニアス・モンク、エラ・フィッツジェラルド、マックス・ローチなど多くの昔の友人達が集まってきた。心身共に完全に回復してからは、またパリで活動を始める。

1955年には『Relaxed Piano Mood』をチャーリー・ミンガスとマックス・ローチと一緒にレコーディング。1956年、初めてのソロアルバム『Round Midnight』をリリースする。若い頃の強烈にスウィングした演奏からは、想像できないようなリラックスしたスロー・バラード中心のアルバムである。
冒頭に述べたアート・ブレイキーの<Moarnin’ with Hazel>は、1958年、アート・ブレイキーがパリのクラブ・サンジェルマンで演奏をした時、そこに居合わせたヘイゼルがボビー・ティモンズの素晴らしい演奏に酔いしれ、思わず「Oh, Load have mercy!」という声を発してしまいそれが録音されたことから曲のタイトルが<Moarnin’ with Hazel>となった。
この頃には夫アダムとの結婚生活も終わりを迎えており、1960年に離婚。1963年に15歳年下のコメディアンと再婚。
そして1967年に一人息子の勧めでアメリカに戻り、再びナイトクラブを中心に活動を始めるが1981年に、まだまだ活躍できる61歳という若さで他界した。
1979年~1980年の晩年にはジョージ・デュヴィヴィエ(ベース)オリバー・ジャクソン(ドラム)と一緒に演奏した『After Hours』など数枚のアルバムを残している。

ヘイゼル・スコットの写真や映像は、1930年代後半から1950年代前半に撮られたステージ、もしくは1940年~1943年頃の映画の中でロングドレスを着たものが多く残っている。彼女の人生の中で最も華やかだった頃だ。
彼女のドレス姿は『完全無欠』。どれを見ても全く文句のつけようがなく美しくゴージャスだ。ドレスは、素材、仕立て共に良く、決して安物のステージ衣装ではない。きちんと手間暇かけてディテールまで作られた服である事は一目瞭然だ。映画の中での姿も多いので、映画用にデザインされた衣装だろうが、ヘイゼルはそれを見事に着こなし、豪華な衣装に全く負けていない。彼女のスタイルは、メイクアップ、ヘアスタイルからアクセサリーに至るまで、すべてが完璧で非の打ち所がない。ハリウッドまで上り詰めたスーパースターなのだから当然、ということでもない。ハリウッド・スターでも野暮ったい人は沢山いる。
映画の衣装は映画会社のデザイナーのデザインによるものだろうが、デザイナーやスタイリストに任せっきりではなく、自分からも素材、デザインのディテールにまで注文をつけていたに違いない。仮縫いの際もきっと袖丈、やスカートの丈 1ミリでも彼女の体にフィットしなければ直させただろう。自己主張の強いヘイゼルは映画のディレクターと衣装のことで言い争い、ハリウッドを追われることになった位なのだから。一切の妥協も許さなかっただろう。
しかも、映画の中では演技のみならず、ピアノの演奏をし、歌も唄わなければならなかったのだから。

1920年代にはアメリカの映画会社の殆どがハリウッドに集まるようになっていたが、1930~1940年代のハリウッド映画の女優達のファッションや着こなしは一般の女性達にも大きな影響力を持地、女優達がファッション・リーダーだった。エリザベス・テイラー、イングリッド・バーグマン、ローレン・バコール、ヴィヴィアン・リー、マリリン・モンロー、エヴァ・ガードナーといったハリウッド黄金期の白人女優達にも決して引けを取らず、光り輝いていた文字通り『スター』であったヘイゼル・スコット。彼女もファッション・リーダーの一人であった。まだアフリカン・アメリカン達が公民権さえ持っていない時代、ここまで堂々としたヘイゼル・スコットの美しい姿は驚くばかりである。

『#5.メリー・ルー・ウィリアムスのフェミニンなドレス』でも述べたが、1930年代当時、男性中心のジャズ業界では『シンガーではない女性ミュージシャン』は数少なかった。
特にピアニストは、上半身の動きが大きく、とにかく汗をかく。現在のように夏のエア・コンディションもない時代だ。スタジオではライトが熱く、冬でもクラブで演奏すれば観客の熱気で暑かったに違いない。大変な重労働を強いられていた訳だ。因みにアメリカのジャズクラブでエアーコンディショナーが入ったのは、早い所で1930年代半ばで、当時はエアコンがあることを売りにしていたようだ。

服の素材に関しても、1930年代はポリエステルやナイロン,レーヨンといった合成繊維の素材が台頭してくるが、現在では当たり前のストレッチ・ファブリックは存在しない。殆どがシルクを中心とした天然素材、もしくは流行り始めたレーヨン素材だったと察する。
刺繍、リボン、フリル飾りなどの甘口の装飾は、控えめとは言えないが、過剰でもなくバランスが良い。全体に甘い雰囲気のものが好みだったような印象を受ける。
デザインでは肩を出すローブ・デコルテ・スタイルのドレスが多いのは、肩や腕を出すことで、ピアノが弾き易かったからだろうか?映画『The Heat’s On 』の中で2台のピアノを弾くシーンでは大きなリボンに飾られたドレスの袖はアームホールの深いドルマンスリーブ。その袖の下には深いスリットが入っている。腕が動かしやすいように工夫されたものだろう。袖は袖先が手の甲まで続き先が三角形のように尖ったポインテッドスリーブ。腕をすらっと見せるだけでなく、袖が捲れ上がったりせずに演奏できるように、指をひっかけるデザインになっている。ウエディングドレスやフィギュア・スケートの選手の衣装によく見られる。
しかし、この人はどんなドレスを着ようが、どんなにジャラジャラ沢山のアクセサリーをつけようが、どんなスタイルでもガンガン演奏が出来る人だったに違いない。

女優でもあったアメリカでのヘイゼルは、どのジャズミュージシャンよりも数多くの服を着こなさねばならなかっただろう。人はクオリティ(素材、仕立て、デザイン)の良い服を沢山着て、人前に出る事で、着こなす力も自信も身についてくる。その自信が着る側を更に美しくする。その繰り返しでファッションセンスも磨かれて行く。

そうやって、ヘイゼルのファッションセンスもアメリカでもファッションの本場パリに移ってからも、磨かれて行ったに違いない。プライベートな写真があまり残っていないのが残念だが、特にパリに移ってからのヘイゼルのファッションは、演奏のスタイルが変わったのと同じように、控えめでありながらもシック。自信に満ち溢れた姿を見ることができる。

美貌と才能に溢れ、高いインテリジェンスと華麗な経歴を持ち、ワールドクラスのアーティストだったヘイゼル・スコットは、必ずしも常に輝く大胆な女性ピアニストではなかった。
『神は才能と共に大変な試練をも与えた』ということだろうか?
彼女はその波乱万丈な人生のほとんどを、理不尽な人種や政治的勢力と戦い続けた一人の女性であった。が、生涯に亘って気高く、気品に溢れ、美しかった。

<Black & White are Beautiful >映画『The Heat’s On』より:1943年

<Great Piano of Hazel Scott>映画『I Dood It With Red Skelton』より:1943年

<Foggy day>1960年代

竹村洋子

竹村 洋子 Yoko Takemura 桑沢デザイン専修学校卒業後、ファッション・マーケティングの仕事に携わる。1996年より、NY、シカゴ、デトロイト、カンザス・シティを中心にアメリカのローカル・ジャズミュージシャン達と交流を深め、現在に至る。主として ミュージシャン間のコーディネーション、プロモーションを行う。Kansas City Jazz Ambassador 会員。KAWADE夢ムック『チャーリー・パーカー~モダン・ジャズの創造主』(2014)に寄稿。Kansas City Jazz Ambassador 誌『JAM』に2016年から不定期に寄稿。

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