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Jazz à la Mode 竹村洋子No. 287

ジャズ・ア・ラ・モード # 54. ビリー・ホリデイとスキーウエア

#54. Billie Holiday and her ski wear
text by Yoko Takemura 竹村洋子
photos:American Jazz Museum, Pinterestより引用

この原稿を執筆しているのは2022年2月で北京での冬季オリンピック開催、真っ只中である。オリンピックといえば、競技はもとより、各国の選手団のユニフォームやスポーツウエアを見るのが楽しい。
今回の公式ユニフォームは、日本はデサント、カナダはバンクーバーのアスレティック・ブランドのルルレノン、アメリカ合衆国はラルフ・ローレン、スエーデンはユニクロが手がけており、各国とも機能性以外にも品質、革新性、サステナブル(持続可能)をコンセプトにし100%リサイクルされたダウン、フェザーや、リサイクルポリエステルを使用するなど、環境への配慮をしているのが特徴ともいえる。
今回のユニフォームでは、特にアメリカ選手団が開会式、閉会式で着ていた赤とネイビーブルーのバッファロー・チェックのダウンコートは、他の国の選手団より一際ファッション性が高かった様な気がした。テレビ画面越しにはウール素材の様にすら見えた。

アメリカ選手団のウエアを見ていた時、ふと随分前にビリー・ホリデイがスキーをしている写真を見つけ、いずれ何かに使えるかと、とっておいた事を思い出した。(キャッチアップ写真参照)
ビリーの写真はスキーのストックがジュラルミン製なので、おそらく1950年代頃だろう。スキーウエアと言うよりもアフタースキーかと思える様な姿だ。ファーコートの下には半袖セーターにチェックのウールのスラックス。アクセサリーまでつけている。
ビリー以外に、ジャズ・ミュージシャンで誰かスキーをやっている写真はないだろうかと探してみたら、ビリーとサッチモの面白い写真があった。当然の事ながら、2人も現在の様なスポーツウエアは着ていない。

スキーの歴史というのは意外と新しい。レジャー、趣味としてスキーが流行し始めたのは1930年代に入ってからだ。当時はスキーはあくまでレジャーであり、競技用のスキーウエアというものも存在しておらず、他のスポーツウエアを代用していた。リフトが登場すると、人々は何を着て滑ったら良いのか悩んだ。その当時はウールのツィードやモッサ、メルトンといった厚手の温かい布地の服を着てスキーをしていた。しかし、ウールは濡れると冷たく重くなる。

1947年、ドイツ人のクラウス・オバマイヤー(Klaus Obermeyer: 1919~) がドイツからアメリカのコロラド州、アスペンにスキーのインストラクターとして渡った。ドイツを発つ時に、母親にコロラドは北で寒いから、ということで羽毛の布団を持たされた。オバマイヤーがアスペンのスキースクールで指導を始めた頃の生徒達はウールのセーターやパンツを着用していた。彼は生徒が雪上で長時間過ごせる様にするにはどうしたら良いか考えた。
そこで思いついたのが、ドイツから持ってきた羽毛の布団を動きやすい実用的なスポーツに適したジャケットに作り替える事だった。羽毛(ダウン)は空気を取り込むので暖かく、断熱性もあったが最初に作ったものはまるでマシュマロの様だった。また、羽毛は裾にたまるので、キルト縫いにした。羽毛を区分けする事により、断熱性がさらに分散し、スキーに適したウエアになった。
試作品を250ドルで買った生徒がいたことから、マーケット性があると考え生産に乗り出した。これが、スポーツウエアとしてのスキーウエアの始まりである。

オバマイヤーはその後、タートルネックセーター、スキーブーツや雪やけ止めクリーム、サングラスなども作って売り出したが、やはりダウンジャケットの売れ行きが一番であり、オバマイヤー・ブランドの主力商品となった。その後、ダウンジャケットは改良に改良を重ね、1970年代~1980年代には、オバマイヤーに以前の1936年にに釣り用のダウンジャケットを開発したエディ・バウワーのものと共に大人気商品になり、オバマイヤーはスキーウエア・ブランドとして確固たる地位を築いた。ちなみにオバマイヤー氏は102歳で健在である。

話をビリーとサッチモのスキーウエアに戻すと、いづれもスポーツウエアとしてのスキーウエア以前のものであることは一目瞭然だ。だからこそ面白い。
ビリーのもう1枚の写真はウールのダブルブレストのピーコートまがいフード付きのショートコートにウールのパンツを履いている。素材はウールモッサあたりだろうか?ウエアは全く体にフィットしていない。ニットの帽子を被っているが、耳を覆わずイヤリングを見せているのは如何なものか?正確な年代は判らないが1940年代だろう。まずビリーがスキーを実際にやっっていたかどうか分からない。1枚の写真は立ち方もぎこちない。もう1枚は同じ時に撮られたものだろうが、転んだ写真だ。『The Week’s Best Photo』とある。スイスのチューリッヒにツアーで行った時に撮られた写真の様だ。LIFE誌か何か週刊誌のページだろう。
サッチモを見ると、これがまた可笑く楽しい。これも1940年代の後半か1950年代の初めだろう。サッチモはジップアップ・パーカを着ている。パーカはフードの付いた外衣で元は労働者の作業着で1940年代には存在していた。それが後にお洒落なカジュアルウエアに昇華したものだ。パーカの下はセーターだろう。パンツは折り目がわかる。ウール・コーデュロイかもしれない。これまた、上半身はモコモコにきているが、パンツはフィット感がない。帽子も被らず、いかにも寒そうだ。背後からサッチモに抱きついているのは、おそらくポール・ゴンザルヴェス。2人とも似たり寄ったりの格好である。

ビリーもサッチモも、というより、ジャズミュージシャンとスキーというのがまず結びつかない。スキーどころかジャズミュージシャンとスポーツそのものが結びつかない。頭脳明晰な人は運動神経も良いはずだが、カウント・ベイシーが野球が好きでチームを作っていた話以外、ほとんど聞いたことがない。ゴルフをやるジャズミュージシャンはいるかもしれない。
スキーもスケートもウィンタースポーツは寒い地域の白人社会で始まったスポーツなであるから、アフリカン・アメリカンとは無縁に近いだろう。この2人の写真は、レジャーとしてスキーがポピュラーになってきた時代に撮られた黒人ジャズミュージシャンとスキーをファッションとして扱った珍しいものだ。
明らかに、ビリーやサッチモのセールス・プロモーション用の写真だろうが、スキーをレジャーとして楽しむ余裕のある数少ない成功したジャズ・ミュージシャンの証しでもあるだろう。ビリー・ホリデイとルイ・アーム・ストロングは、本当に時代の先端を行くビッグ・スターだったのだとつくづく思う。

写真を見ながら、ノーマン・グランツが、ビリー・ホリデイ、ルイ・アームストロングに加え、デューク・エリントン、カウント・ベイシー、ダイナ・ワシントン、チャーリー・パーカー、マイルス・デイヴィス、ヘイゼル・スコット、ライオネル・ハンプトンあたりを集め、『ジャズ・アット・サン・モリッツ』とでも題して、当時のクラシックなスキー・ファッションとジャズの競演でもやっていたらきっと話題を呼んで面白かったのに!と勝手に思う。ゴールドメダルはやはりデューク・エリントン?
ヘイゼル・スコットはパリに住んでいたので、クリスチャン・ディオールあたりでオーダーした服を着て登場したりし、ダークホースだったかもしれない。

You-tubeリンクはジャズではないが、1930年のサン・モリッツでのジャンプ大会と1968年のグルノーブル・オリンピックの映像。選手、観客ともに、ウエアが2022年北京大会との違いがよく分かる。レイモン・ルフェーブルの<白い恋人たち>は当時、一世を風靡した美しい曲だ。

Ski jumping at St Moriz 1930

Raymond Lefevre <白い恋人たち:13 jours en France>1968

*Obermayer HP
https://obermeyer.com

竹村洋子

竹村 洋子 Yoko Takemura 桑沢デザイン専修学校卒業後、ファッション・マーケティングの仕事に携わる。1996年より、NY、シカゴ、デトロイト、カンザス・シティを中心にアメリカのローカル・ジャズミュージシャン達と交流を深め、現在に至る。主として ミュージシャン間のコーディネーション、プロモーションを行う。Kansas City Jazz Ambassador 会員。KAWADE夢ムック『チャーリー・パーカー~モダン・ジャズの創造主』(2014)に寄稿。Kansas City Jazz Ambassador 誌『JAM』に2016年から不定期に寄稿。

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