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ジャズ事始 上原基章No. 314

ジャズ事始 第3回 ケイ赤城(ジャズ・ピアニスト)

ジャズ事始  第3回 ケイ赤城(ジャズ・ピアニスト)

text & photo : Moto Uehara 上原基章

マイルス・デイビス(1989-91)を筆頭に、アル・ディメオラやアイアート・モレイラ&フローラ・プリモ、スタンリー・タレンタインなど錚々たるジャズ・ジャイアンツのバンドに参加してきたケイ赤城さん。プレイヤーとしての活動と並行しながら2000年からカリフォルニア大学アーバイン校で芸術学部教授として教鞭をとっていた。昨年大学を退官して、今はアメリカと日本を行き来しながら華麗かつダイナミックなピアノを弾き続けているケイさんに、ジャズの「事始め」を伺ってみた。

―――仙台生まれ(1953年)のケイさんは、幼少期にオハイオ州に移っているんですね。

4歳過ぎの時でしたね。仙台の幼稚園を出て、親の仕事の関係でアメリカに行ったんですよ。

―――ジャズに限らず、幼少期の音楽との出会いはいつ頃だったんですか?

ウチは音楽一家だったんですよ。母はピアニストで歌手でもあったし、親父もオルガンを弾いたりして。それで家族の方針として、姉と私の2人もピアノを始めさせられた。それが最初ですね。

―――子供時代のピアノ・レッスンって、自分から好きでやっていましたか?

それは全くありません(笑)。あくまでも親に言われてレッスンに通うという感じでしたよ。自分からピアノを弾いていて楽しいと思うようになったのは、アメリカから日本に戻ってきた中学3年生の頃かな。

―――お姉さんも現代音楽のピアニストだったりして、赤城家の音楽的バックグラウンドはクラシック一色ですよね。じゃあ、ジャズの存在に気づいたのはいつ頃でした?

これは二つの体験があるんですよ。まず一つ目。子供の時に移り住んだのがオハイオ州のクリーブランドという街で、そこは黒人地区だったんです。家の近所にあったバーでは、どの店もジミー・スミスみたいなソウル・ジャズが流れていたんですね。あるいは車が通るとその中からモータウン・サウンドが聞こえてくる。そんな環境で7年間過ごしました。つまり日常生活の中で自然とジャズやモータウンに接していて、子供心に「面白い音楽だな」と感じていました。

―――まさに“ストリート・サウンド”の洗礼を受けたんですね。

もう一つが、アメリカから帰国して青森県弘前市の東奥義塾(とうおうぎじゅく)高校1年生の時です。その頃は現代音楽に興味を持っていたんですが、当時の現代音楽といえばプロコフィエフとかバルトークでしたが、現代から見れば古典ですよね。その頃レッスンを受けていた船水先生はジャズがお好きで、「現代音楽を理解したいなら一通りジャズを知っておく必要がある」と言われたんですね。私自身もちょっとジャズに興味があったので、地元のレコード屋に行ってジャズの棚から目を瞑ってアルバムを1枚抜き出したんですよ。それがバド・パウェルのピアノ・トリオ(『Bouncing with BUD』注1)だったんです。ヨーロッパで録音されたトリオ・アルバムで、まだ16歳だったニール・ペデルセンが参加しています。アルコールやなんか神経も侵されてもうテクニック的にはちょっと落ちている時期の作品だけど、そのアイディアやリズム感といったものは抜群でした。だからバドが自分から「ジャズを聴くんだ」という意志を持って最初に接したアーティストです。このアルバムはずっと持っていて、今も時々聴いていますよ。

―――まさに運命的な1枚ですね。高校時代を過ごした青森では、ジャズ喫茶通いはしていましたか?

学校終わったら、すぐ駆けつける感じでしたね(笑)。バド・パウェルから聴き初めて、その次にすごくハマったピアニストがオスカー・ピーターソン。そこからビル・エヴァンス、マッコイ・タイナーときて、当然その延長線としてチック・コリアやハービー・ハンコックを聴くようになりました。そして大学(国際基督教大学:ICU)を過ごした東京時代は、ちょうどキース・ジャレットのソロが注目された頃だったのでこれも聴き込みました。今思い返すと、このラインナップがジャズ・ピアノに対しての自分の興味の歴史という感じですね。

―――ICUではクラシックや現代音楽ではなくて、ジャズを演奏したくてジャズ研に入部したということですか?

そうですね。もちろん当時はプロのミュージシャンになる気は全然ありませんでした。あくまでも遊びという感じで。大学のキャンパスは三鷹で隣の吉祥寺にはジャズ喫茶が何軒もあったので、すぐに通い出してどんどんとモダンなジャズを聴くようになっていきました。70年代の頭はマイルスが『ビッチェズ・ブリュー』を出した後で、ウェザー・リポートやハービー・ハンコックが『セクスタント』でそのサウンドを発展させていく一方で、オーネットなどフリー・ジャズが台頭してきた時でもあり、日本でももちろん山下洋輔さんとか富樫雅彦、佐藤允彦さんらが日本のフリー・ジャズを開拓していった時代でした。大学時代の4年間、僕はその両方向のジャズに挟まれて育ったんですね。

―――大学で哲学を専攻していたのは知っていたのですが、同時に作曲を学んだと公式プロフィールには記されています。ICUでは音楽のコースもあったのでしょうか?

専門の学科ではなかったんです。当時ICUの一般教養で音楽の授業を担当されていた音楽学の金澤正剛先生(注2)が興味ある学生を対象にして作曲の初歩的なことを教えるクラスを開講していたので、僕もすぐ受けたんですよ。

―――そこで学ばれた作曲の基礎的なメソッドは、今のその後のケイさんの作品の中で生かされていますか?

そこで習った作曲技法っていうのは、バッハの時代に遡った本当に基礎的な古典音楽の作り方ですね。ただ、そこで生かされている技法テクニックっていうのは、古典から現代音楽やジャズまで適応するんですね。だから和声的な考え方や対位法的というものは、純粋なサウンドの問題とは別に作曲していく中で何らかの形で関わってきます。本当に基礎的な方法論を学ぶことができたということです。

―――なるほど。だから野球に例えればキャッチボールやバットの素振りといった練習の積み上げがあるからこそ、その延長として試合でのプレーができるっていうことですね。

まさにその通りです。

―――学生時代にコンサートやライブハウスは行きましたか?

貧乏学生だったのでなかなか機会がなかったけど、アルバイトでお金を貯めてマッコイ・タイナーとキース・ジャレットは新宿厚生年金会館の来日公演を見に行きました。ジャズ・クラブは、お金がなかったから店のドアの外で漏れてくる音を聴いてましたよ(笑)

―――ICUを卒業してアメリカの大学院に留学されますが、それも音楽科ではなくて哲学科ですよね。向こうではどんな形で演奏を続けたんでしょうか?

留学先はカリフォルニア大学のサンタバーバラ校(哲学科博士課程)だったんですけど、そこでは音楽授業の一環としてビッグ・バンドのクラスが週1回あったんですね。もちろんすぐ入って、そこで引き続きプレイを続けるようになったんですけど、やっぱり自分のバンドを組みたくなって、仲間を集めて2管編成のクインテットを組んで大学の近所のクラブに出ていたんです。それで3ヶ月か4ヶ月ぐらいしたら、トランペットのブルー・あいあーとミッチェルとボビー・ブライアントの2人がグループを組んでいて、サンタバーバラで彼らが演奏する時にピアニストが必要だということで、何と僕に声がかかったんです。その時はもうガタガタ震えながらのプレイになったけど、それが人生で初めてのプロとしての演奏となりました。それから数ヶ月経って、今度はアート・ペッパーから声がかかり、続いてエディ・ハリスから呼ばれるなど、少しずつプロの人たちと共演するようになって、2年間ぐらいそうしている内に「もう学校なんかやめてジャズ・ミュージシャンなっちゃおう!」と思ったのが25歳のとき。それがプロとしての「事始め」ですね。

―――それはすごいな!鈴木良雄さんや増尾好秋さんが早稲田ジャズ研の在学中にいきなり渡辺貞夫バンドのレギュラーになったのと同じ感じですね。

プロとして活動し始めて1年か2年ぐらいしたら、アイアート・モレイ&フローラ・プリムのバンドに誘われて、それが自分にとっては初めてのレギュラー・メンバーであり、ここには結局7年間在籍することになりましたよ。

>>ケイ赤城オフィシャル・サイト

今年から日本国内でのライブの機会も増えていくケイさん。最新の情報はオフィシャルWebsiteをチェック!直近6月はトリオでのライブが控えています!

http://www.worldcom.ne.jp/~yamagen/kei/tour.htm

6/03(月) 新宿ピットイン
6/11(火) 横浜ドルフィー

注1)『Bouncing with BUD』
バド晩年の1962年にストックホルムで録音されたトリオ・アルバム。ベースは若干16歳のニール・ペデルセンでドラムはウィリアム・ショーフェ。『アメイジング・シリーズ』のようなメカニカルな正確性とは全く違う後期バドの味わいが凝縮されて入る。ただし希少盤なのでCDも高価!

注2)金澤正剛 (かなざわ・まさたか)
日本を代表する音楽学/音楽史研究者の泰斗。1957年にICUを卒業後渡米し、ハーバート大学大学院で音楽学を学び博士課程を修了。1960年代後半から世界各国の大学で研究に従事し、1982年にICUの教授となり、同校の宗教音楽センター所長を務める。2004年に定年退職し、現在は同校名誉教授。1980年刊行の『The Musical Manuscript Montecassino 871』(共著)は米国作詞家作曲家出版者協会(ASCAP)賞を受賞している。

 

上原 基章

上原基章 Motoaki Uehara 早稲田大学卒業。元ソニージャズ ・ディレクター/ステージ写真家。

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