JAZZ meets 杉田誠一 #104「追悼 松坂妃呂子」
2018年5月26日午後3時24分、『ジャズ批評』主宰、松坂比呂(妃呂子)さんが昇天されました。
心よりご冥福をお祈りいたします。合掌。
松坂さんが生まれたのは、1932年10月22日。「川俣羽二重」の産地として世界的に知られる、福島県伊達郡川俣町。1953年上京。夫君は、デザイナー/イラストレイター、岩代豊氏。1965~70年、東銀座でジャズ喫茶OLEOを経営。『ジャズ批評』を創刊したのは1967年。ぼくが、同誌に初めて書かせていただいたのは、1969年、「超ジャズ論手稿」ではある。
以来、「沖山秀子&安田南特集」「連載 JAZZ meets 杉田誠一」「年間ベスト5」等でお世話になっている。
松坂比呂さんと、最後にお目にかかったのは、ちょうど1年前、松坂さんのご自宅であった。松坂さんから、ロング対談の依頼を受けたのです。久しぶりにお目にかかった松坂さんは、目がご不自由だったけれども、正直言って、ハッとするほど美しい方だった。軽く(手を加えれば)単行本が1冊出来るほど、ぼくたちは、対談というより、熱く話し続けた。録音&撮影は、愛娘ゆう子さん。
ぼくが初めて松坂比呂さんと出会ったのは20歳であるから、1965年、東銀座OLEOである。ここに、松坂さんの著書『ジャズ古今往来 ビバップの心と技を受け継いだ日本人ジャズ・アーティスト』(株)松坂がある。実は、2行ほど、当時のことが書かれている。1969年に『ジャズ』を創刊した杉田誠一さんは美しい女性同伴の常連さんでした」(笑)。
ジャズ喫茶は、高1の野毛CHIGUSAを皮切りによく通ったが、最も通ったのがOLEO。実は、ジャズ喫茶と映画館こそが、ぼくの学校だったのです。川崎にも同盟のOLEOは存在したが、その近所に阿部薫(as)が住んでおり、しばしば出演していた。こちらのマスターは慶応の学生であった。
OLEOでぼくが一番聞いたのは、アーチー・シェップとジョン・コルトレーンかな。なかでも気に入りは『ニューポートの2人 New Thing at Newport』(インパルス)。ふたりとは、シェップとトレーン。実は、OLEOでは「OLEOの2人」と呼ばれていました(笑)。
OLEOが何故、お気に入りかというと、バップもニューシング/フリーも「同じもの」としてとらえていたこと。
たとえば、アビー・リンカーン(vo)&マックス・ローチ(ds)夫妻の『We Insist』(CANDID) を超ラジカルではあったが、かけてくれた数少ないジャズ喫茶ではある。
ブルースとジャズを「変わっていく同じもの Changing Same」と総体的にとらえたのは、詩人・評論家 リロイ・ジョーンズである。代表作は、『ブルースの魂 Blues People』。
1968年、ぼくは、OLEOでバイトする。OLEOの5年間で出会った人々には、枚挙にいとまなしです。
エルビン・ジョーンズ(ds)にケイコ夫人。エルビンは、いつもニコニコ楽しそうで、コーヒーにドバドバとレッドを入れて飲む。マリファナ不法所持で、出所直後ではあった。「ドモコだから仕方ないけれども、トニー・ウィリアムス(ds)に、ハメられちまった」といっていた。
セロニアス・モンク(p)は、寡黙な高僧のようであった。いいスーツを着ていたなあ。岩城豊さんの壁一面をおおったモンクの肖像画は、いま福島「パスタン」にあるのでしょうか? OLEO閉店後、貴重なレコードは、すべて親類の「パスタン」に託された。しかし、ママは、昨年死去したと聞く。
岩城さんは、読売広告社の仕事についており、OLEOは、多くの関係者のサロンでもあった。中上哲夫(詩人)もそのひとり。デューク・エリントンの伝記や、『ジャズに生きる』(いずれも晶文社)の訳者でもある。
OLEOで出会い、その後も深くかかわらせていただいた方々に深謝いたします(敬称略)。油井正一、清水俊彦、佐藤秀樹、岡崎正通、立花実、相倉久人、平岡正明、白石かずこ、副島輝人。副島、佐藤、岡崎は、同人誌『アワー・ジャズ』の同人。ぼく自身も、最晩年の数号に参画していた。
学校のひとつではあったOLEOから学んだことは、計り知れない。それから『ジャズ批評』からも。松坂比呂さん、有難うございました。
『ジャズ批評』よ、永遠にあれ。