Tak. TokiwaのJazz Witness No.10 ジム・ホールの想い出
Photo & Text by Tak. Tokiwa 常盤武彦
1970年代後半から1980年代にかけて、パット・メセニー(g)、ジョン・スコフィールド(g)、ビル・フリゼール(g)、マイク・スターン(g)の登場とともに、ギターはジャズの表現領域を拡大する最重要なツールの一つへと発展した。その源流にいたのが、ジム・ホール(g)である。チャーリー・クリスチャン(g)に始まったモダン・ジャズ・ギターの歴史は、バーニー・ケッセル、ケニー・バレル、ハーブ・エリス、タル・ファーロウ、ウェス・モンゴメリー、グラント・グリーン、ジョージ・ベンソン、パット・マルティーノらに受け継がれてきた。ホールも、チャーリー・クリスチャンの系譜に連なるアーティストではあるが、他のギタリストと一線を画した存在だった。クリーブランド音楽院の修士課程でクラッシックを学んだ経験、チコ・ハミルトン(ds)のバンドでプロ・デビューを飾り、チェンバー・ミュージック的なアプローチを学ぶ。ジミー・ジェフリー(cl,sax)の変則編成のトリオでの演奏経験も、状況によってギターで、ピアノやベース、管楽器のような役割を担うことを学んだと、ホールは生前語っている。ホールの管楽器のような滑らかなラインを弾く奏法に、ロックの影響を受けたメセニーやスコフィールドらが、エフェクターを駆使して進化させたのが、1980年以降のジャズ・ギターの大きな潮流だろう。まさに、ジム・ホールは”ポスト・モダン・ジャズ・ギターの父”といえる存在である。1990年の6月には、ニューヨークのタウン・ホールで、メセニー、スコフィールド、ジョン・アバークロンビー(g)、ミック・グッドリック(g)ら愛弟子たちや、ジェリー・マリガン(bs)、ボブ・ブルックマイヤー(tb)ら盟友に囲まれた”The Jim Hall Invitational Concert”を開催し、その大きな影響力を示してくれた。1988年秋からニューヨークで暮らしていた筆者は、残念ながら、このコンサートに立ち会うことは逃してしまったが、その逝去までの間、たびたびジム・ホールの演奏に触れる機会を持てた。
初めて自宅を訪れたのは、1998年、ジャズライフ誌での取材で、ホールと親交の深い井上智(g)に帯同してでのことだった。グリニッチ・ヴィレッジの、ニュースクール大にほど近いアパートの書斎にに通されると、壁には1975年のカナダでのライヴ・アルバム『Jim Hall Live!』のアルバム・カヴァーの原画、”Guitarist Parking Only “とジョークの道路標識が掲げられ、ホールの長いキャリアを物語るグッズで埋め尽くされている。会話が、この家で、ホール夫妻が夏のヴァケーションで不在の間、ドッグ・シッターをしながら滞在させてもらった、ホールの親友で、私の師匠でもある阿部克自氏に及ぶと、とても懐かしがっていた。リヴィング・ルームでのインタビューでは、終始笑顔なのだが、時折鋭く厳しい視線を見せるのが印象に残る。この時はD’Aquisto製の当時のメイン楽器のジム・ホール・モデルや、アコースティック・ギター、ビル・エヴァンスの『アンダーカレント』の時にもプレイしていたというギブソンのギターなどを、撮影させていただいた。
翌年、今度は記者会見でお会いする機会を持てた。テラーク・レーベル創立20周年時の1997年に企画されたパット・メセニーとのデュオ・アルバムが、いよいよリリースが決定し、ニューヨークのプラザ・ホテルで全世界のプレスを集めて、盛大な発表が行われた。終始師匠のホールをたてるメセニーの所作は、改めてその偉大さを感じさせてくれた。また短いながら、個別インタビューと撮影の時間もあり、2ショットの和やかな写真も撮ることができた。アルバムは素晴らしい出来栄えなのだが、もう20年以上経ったので時効としてオフレコの話をする。このプロダクションは、ジム・ホール側からの企画にもかかわらず、主導権はメセニー側が握り、シンプルなセッションにしたかったホールの意図に反して、メセニーは、さまざまなプロダクション・ワークを施し、最終的な作品は。実際のレコーディングとはだいぶ異なったサウンドになったそうだ。ホールは、このことを不満に感じていたそうである。
2006年にも再びジム・ホールの自宅を訪れるチャンスに恵まれた。月刊プレイボーイ誌日本版の、9.11の米国同時多発テロ事件から5年を経たニューヨーク特集の依頼が、私のところに舞い込んだ。マリア・シュナイダー(aarr,cond)、ロン・カーター(b)、スティーヴン・バーンスタイン(slide-tp)、DJロジック(turntable)らと並んで、ホールのインタビューを行い、9.11が音楽シーンに与えたインパクトについて語ってくれた。彼は、自宅アパートの上階から、崩れ落ちるノース・タワーを目撃したそうで、車の立ち入りが禁止された14th Streetから南に位置する自宅周辺を、日課の愛犬のジャンゴ(もちろんジャンゴ・ラインハルトに由来する)と散策すると、ワールド・トレード・センターからは、まだ黒煙が上り、軍用車が行き交う非日常的風景に、衝撃を受けたそうだ。2004年に顕彰された、米ジャズ界の最高の栄誉の一つ、NEA (National Edowment for the Arts 国立芸術基金)Jazz MastersのTシャツを誇らしげに着ていたことが、思い出される。
2008年の長年の友人である阿部克自逝去の際には、お別れのメッセージを寄せてくれた。曰く「うちの愛犬パブロ(パブロ・ピカソに由来)も、私たち夫婦同様、Abeのことが大好きだった」。
20oo年代後半から、ジム・ホールは体調を崩すようになる。2008年のアランフェス協奏曲の再演をテーマにした来日コンサートは、2009年に順延された。その時ホールは、車椅子に乗ってステージに現れ、観客を驚かせた。ニューヨークで聴く彼のライヴも、精彩を欠いた印象を受けた。しかし、2013年ジム・ホールは劇的な復活を果たす。その年は、スコット・コーリー(b)、ジョーイ・バロン(ds)のトリオに、ゲストに、若手No.1の呼び声も高い、ジュリアン・レイジ(g)が加わり、ニューポート・ジャズ・フェスティヴァルや全米をツアーでめぐった。ジュリアンのフレッシュで縦横無尽なプレイにインスパイアされ、ジム・ホールも不死鳥の如く復活した。夏のツアーが終わりしばらくたった11月22日、ホールは、ジャズ@リンカーン・センターの中ホールThe Allen Room (現在はThe Appel Room)に、コーリー、バロンのトリオに、ゲストにジョン・アバークロンビー(g)とピーター・バーンスタイン(g)を迎えて登場した。まずは、ソロ、そしてトリオで演奏。禿頭の3人を指して、”We had a nice hair cut for today!”と、ジョークも冴えていた。バーンスタイン、アバークロンビーとゲストが入ったクィンテットから3ギターで、お馴染みの曲がプレイされる。驚かされたのは、3人の中で、一番若いバーンスタインが、コンサーヴァティヴなプレイを聴かせ、最年長のホールが、もっともアグレッシヴで、アヴァンギャルドなプレイをしていたことである。井上智は「ジム・ホールは、ギタリストとしては括れない存在である。抽象画家のように、次々とアヴァンギャルドに変化している」と語ってくれたが、まさにその真骨頂を感じさせてくれるプレイだった。12月4日で83歳とは思えない溌剌としたプレイで、ポスト・モダン・ジャズ・ギターの父の存在感は、少しも薄れていないことを証明した。このコンサートからおよそ半月ほど経った、12月10日、ジム・ホールの訃報が伝わってきた。11月22日の興奮がまだリアルに残っており、にわかには信じがたいニュースだ。前夜に「気分がすぐれないので、早く休む」とベッドについたジム・ホールは、二度と目覚めることはなかったという。死の直前まで、人々を感動させるパフォーマンスをきかせ、そして眠るように大往生という、まさにアーティスト冥利に尽きる大団円だった。
翌年の4月の19、20の2日間、ブルーノート・ニューヨークはすでにブッキングされていた、ジム・ホール・トリオの出演枠を、“Play for Jim Hall”としてスコット・コーリー、ジョーイ・バロンが中心となり、ホールゆかりのミュージシャンが集結した。ビル・フリゼール、ジュリアン・レイジ、ジョン・アバークロンビーらギタリストから、ビル・チャーラップ(p)、ギル・ゴールドステイン(p)、ジョー・ロヴァーノ(ts)、クリス・ポッター(ts)ら、錚々たるメンバーが集う。井上智も、はるばる日本から、招待され参加した。このトリビュート・コンサートの模様は、また別の機会で紹介できたらと思う。今年、没後10周年を迎えるジム・ホールだが、そのプレイは、色褪せることはない。