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風巻隆「風を歩く」からNo. 316

風巻 隆「風を歩く」から vol.28「梅津和時さん」

一枚の写真がある。右下にオレンジ色で87.9.27と日付が入っていて、中央にサックスの梅津和時さん、左側にトロンボーンの河野優彦さんと愛娘のメヒコちゃん、右側にボクが写っている。87年のニューヨーク、チェルシーと呼ばれる一帯のW19ストリートにあったスペース「THE KITCHEN」で、ジョン・ゾーンらが企画したジャパンウィークといった日本の伝統音楽や前衛音楽を紹介するフェスティバルの企画で、梅津、河野、風巻のトリオが実現した。終演後、倉庫街の歩道での撮影なのでバックが暗く、そこがニューヨークなのかはよくわからないけれど、三人の表情には充実感が見てとれる。

梅津さんとはその前年、東京のライブハウスで行われた「鳥の歌1986→山谷」という、篠田昌已や大熊ワタルが中心になって音楽を提供し、撮影現場で二人の監督が右翼に殺された「山谷(ヤマ)~やられたらやり返せ」といういわくつきの映画へのベネフィットコンサートで共演はしていたけれど、このニューヨークで共演できたことが、その後の二人の活動の原点になっている。「THE KITCHEN」での演奏の際には、梅津さんから最後の終わり方を提案され、作品を作っていくという意識で演奏ができた。満員の観客の熱気にも助けられ、ジャズをベースに「新しい音楽」を指向する演奏になった。

80年代初頭にニューヨークへ渡った河野さんとは、これまでも84年にジョン・ゾーンとのトリオを「THE ALCHEMICAL THEATER」で、87年6月にはでポール・ハスキンとのトリオを「A-MICA」で演奏している。まだ学生の頃、近藤等則らのE・E・Uのライブで顔を合わせた若い演奏家で、即興演奏の練習を和光大学で行っていたのだけれど、河野さんとはその頃からの付き合いだ。この写真を撮ってくれたのは山谷でも活動していた写真家の大島俊一さんで、ボクらは梅津さんに誘われるまま、打ち上げでイーストヴィレッジの「サッポロイースト」というラーメン店に繰り出し、生ビールで乾杯する。

梅津さん、大島さんとはその3日後、トム・コラが企画したWBAIというFMラジオ局の「YAMA」という番組に出演し、日本の若いミュージシャンがその映画のために結集していく経緯のようなことを、いくつかの音楽とともに紹介していった。梅津さんに「あんなに緊張したカザマキくんを見るのは初めてだ。」と言われるほど、その日のボクは慣れない英語のトークにビビッていたのだけれど、トムの博識と梅津さんの人柄に支えられて何とか収録を終え、その後に、三人で連れだってコリアンタウンの韓国料理屋へ行ったのだけれど、その思わずヘロヘロ笑ってしまうほどの辛さには心底ビックリした。

何しろはんぱじゃない辛さとそのおいしさに涙がにじみ、鼻水をすすりながら、「これ、おいひーねー」と舌ももつれ、顔中がトホホといった風に力が抜け、わけもないのにヘロヘロの笑顔になっていて何だかとっても変。ただランチを食べただけなのに、ちょっとあぶないトリップでもしたような気にすらなって、「これって何だろうね?スゴイね。」と笑顔のままに鼻を拭く。辛いとかおいしいとかいう世界も突き抜け、何か別の世界にストンと降り立ったような不思議な気持ちがした。デザートのスイカは店からのサービスだったのだけれど、舌のしびれも消えて、何とも言えない爽快感が口に広がった。

その時ふと思ったのは、あらゆる感覚や感情を突き詰めていくと、あるところでスッと力が抜けてただ笑うしかないという境地に入っていくんじゃないか。悲しみや苦しみ、そうしたものを乗り越えたときの目の前が開かれていくあの感覚。その生そのものを肯定していく世界の中で、人はシンプルなものに立ち返っていくような気がする。古いジャズや沖縄・八重山の民俗音楽には「底抜けに明るい」ものがあるけれど、その中にはさまざまな感情があって、表には出てこない思いのあることをボクは知っている。こんな風にニューヨークという風通しのいい場所で、ボクは梅津さんと出会ったのだった。

89年の秋、ミュンヘンからギターのカーレ・ラールを招聘したときに、吉祥寺「MANDA-LA2」で梅津さんとトリオでライブをしたことがある。それまで山谷・玉姫公園での越冬ライブや、東京クライデーの「ボーダーの時、ボーダーの音」というイベントのような政治的な運動がらみの集まりで演奏することも多かったのだけれど、カーレ・ラールの招聘ということ自体が、それまでの一期一会的な即興ではなく、作品を意識していく音楽活動を彼と行っていきたいと思ったことで始まったものだったし、牧歌的で東洋的なメロディーも織り交ぜ、演奏をリードする梅津さんの存在は、とても大きく感じたものだ。

「MANDA-LA2」でのトリオの演奏の一部は、音場舎からリリースしたカセット「ZIZS/泥魚」に収録されている。ちょうどその年は、それまで立ってタイコを叩いていたスタイルを、椅子に座ってバスドラの音をコントロールするようになっていたし、楽器もいくつかリニューアルし、より繊細な音作りができるようになった。85年のダニー・デイビスとの全国ツアーを期にバスドラを使うようになり、音楽へ歩み寄ったのと同じ様に、梅津さんと演奏するようになって、ボクは自分の音楽をもう少し高めたいと思うようになっていた。そして梅津さんと二人で出来ることは何か、少しずつ考えるようになっていた。

80年代から「音の交差点」という即興演奏のシリーズを続け、ダニー・デイビス、ペーター・コヴァルトやトム・コラ、ハンス・ライヒェルなどの海外の即興演奏家や、竹田賢一、向井千恵、香村かをり、大熊ワタルなど、さまざまなミュージシャンとセッションを重ねてきた明大前の「キッド・アイラック・ホール」で、1990年の1月、「梅津和時・風巻隆 アクースティック デュオ」という新しいシリーズをボクは立ち上げた。そのチラシを作る際に、このデュオのあり様をわかりやすく伝えるヴィジュアルが必要だと思って、手持ちの絵葉書などをあれこれと探していたら、一つのイラストに目が釘付けになった。

それは絵本作家のスズキコージさんの「PLEASE MR. POSTMAN」という絵葉書をまとめて一冊の本にしたもので、クラリネット奏者と一つのタイコを叩く打楽器奏者のツーショットで、東欧の民俗音楽のような雰囲気を醸し出していた。このイラストの顔の部分を描き直せば、二人のやろうとしている音楽をわかりやすく伝えることができるのではないかと考え、コピーした画像の顔の一部にホワイトをかけ、ボールペンで二人の顔を似せて描いてみた。参考にしたのは、例のニューヨークでのスナップ写真で、その時梅津さんが帽子を被っていたので、イラストのクラリネット吹きにも帽子を被せてみた。

スズキコージさんとは若い頃、井の頭公園の花見の頃に偶然お会いしたことがあり、とても近しい人という思いを持っていた。井の頭公園駅の近くの児童遊園で公園を背にしてタイコを叩いて路上で演奏したボクを見かけると、無茶苦茶なコトバで歌を歌いかけた面白い丸メガネの人がいて、ボクが夜中近くにタイコを持って公園を歩いていると、「さっきのタイコの人でしょ?一緒に飲みませんか」と女性の方から声を掛けられて、そこにさっきの歌を歌った丸メガネの人もいた。ボクは女性の方にお酒を勧められて話をしていると、「あそこの彼、実は絵本作家なんだよね、スズキコージっていうの。」

スズキコージさんが歌を歌ったときもかなりお酒が入っていたので、ボクのことを覚えているかはわからないし、ボクが彼の飲み会に参加したときには、彼はもう既に酔いつぶれていたので、一緒に話した記憶もない。ただ、ボクと梅津さんが「アクースティック・デュオ」という新しい企画を始めるにあたって、彼の作品を一部作り替えるといったことをしても、それを彼だったら「何これ、面白いね。」と受け入れてくれるのではないかとボクは思っていた。実際、2022年にオフノートからソロCD「ただ音を叩いている」をリリースした際にもこのイラストを使ったのだけれど、快く受け入れてくれたのだった。

絵を描くということに、ボクは小さい頃から大きなコンプレックスを抱いていた。小学校に入る前、何か絵でも描けばと親がわら半紙を用意してくれても、そこに野球のスコアを書くようなそんな子供だった。小学校の図工の坂本先生、中学校の美術の菅原先生という指導者に恵まれてコンプレックスは少なくなったものの、似顔絵を描くというのは相当なプレッシャーだった。ただ、スズキコージさんが絵の雰囲気をしっかりと作り上げてくれていたので、梅津さんのメガネとヒゲ、ボクの眉毛と目といった特徴を原画に書き加えるとそれぞれの顔の雰囲気が絵に現れてきて、そのイラストは完成した。

この梅津さんとの「アクースティック・デュオ」は1990年から2003年まで、年1~2回ぐらいのスローなテンポで、明大前「キッドアイラック」や、新宿「シアター・プー」、大磯「JAZZ IN 大磯フェスティバル」などで続けられた。梅津さんはいつも多くの楽器を持参して、一度に二つの楽器を吹いたり、楽器を持ち替えることで自分の演奏を異化していくような、ジャズのイディオムからは離れて「新しい音楽」を指向するような演奏を展開した。椅子に座ってタイコを叩き始めたボクも、リズムを作り、即興で作品をつくっていくという方向で、梅津さんの演奏をサポートしていった。このデュオは、スズキコージさんのイラストのような民俗的、牧歌的な音楽を基調としながら、アクースティックな音の可能性を限りなく広げていった。

風巻隆

Kazamaki Takashi Percussion 80~90年代にかけて、ニューヨーク・ダウンタウンの実験的な音楽シーンとリンクして、ヨーロッパ、エストニアのミュージシャン達と幅広い音楽活動を行ってきた即興のパカッショニスト。革の音がする肩掛けのタイコ、胴長のブリキのバケツなどを駆使し、独創的、革新的な演奏スタイルを模索している。東京の即興シーンでも独自の立ち位置を持ち、長年文章で音楽や即興への考察を深めてきた異色のミュージシャン。2022年オフノートから、新作ソロCD「ただ音を叩いている/PERCUSSIO」をリリースする。

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