風巻 隆 「風を歩く」から vol.42 FREE WORLD BIG BAND ~「月と遊園地」
text by Takashi Kazamaki 風巻 隆
1989年にミュンヘンからギタリストのカーレ・ラールを日本に招聘してから、ボクらは、即興音楽のデュオとして世界を股に歩き、ニューヨークの音楽シーンとリンクしながらCD作品を3作作っていった。また、ヨーロッパで公的な助成金を活用してフェスティバルが行われていることを知り、93年のカーレ・ラールの来日ツアーの頃から「芸術文化振興基金」へ助成を申請し、経費の一部を賄っていた。カーレ・ラールとの作業を進めながら、もう少し規模の大きいフェスティバル的なものができないかと考え95年に企画したのが、FREE WORLD BIG BANDという世界規模のオ-ケストラだった。

ヨーロッパからカーレ・ラールとサックスのクリストフ・ガリオ、ニューヨークからドラムのサム・ベネットと、コントラバスクラリネットのポール・ハスキン、エストニアからギターのマルト・ソーとトロンボーンのエドアルド・アクリンの6人を招聘し、日本の即興演奏家と共演するという企画で、当初は東京のドイツ文化会館ホールと神戸のXEBEC(ジーベック)ホールで開催する予定だった。ただ、1月17日、神戸に大きな地震があり、程なくしてディレクターの下田さんから今年の開催は難しいという連絡が入った。XEBECはその後スプリンクラーの破損による浸水などもあって、大きな被害を被っていた。
XEBECの下田さんはボクの幼馴染で、若い頃にはバンド仲間でもあった。89年から神戸のポートアイランドで活動を始めたXEBECは、スピーカー会社のTOAが「音の情報発信基地」としてオープンし、現代音楽や民族音楽、サウンドアートや実験的なジャズやパフォーマンス、さまざまなワークショップなどが、主に共同企画として行われていた。下田さんとはケエル・ケモタとあだ名で呼び合う仲なのだけれど、一緒に仕事をするのはこの時が初めてで、地震の後に留守番電話の録音機能を使ってインタビューを試み、「FREEWAY」というニュースを発刊して神戸の現状を報告してもらった。

当初は京都ドイツ文化センターでの開催も目指していたのだけれど、関西の公演を支えてくれる人が見つからず、赤坂の東京ドイツ文化センターでのオーケストラ公演と、江古田BUDDYでのアンサンブル公演という形に落ち着いた。カーレ・ラールがエストニアのタリンで即興音楽のオーケストラを試みたという話は知っていたので、どんなやり方だったのかと本人に聞いてみると、もし東京でオーケストラができるのならばコンピュータを使って、ネットワーク上でヴィジュアルな楽譜やサインを使ってみたいと言ってくる。話が大きくなりとても困惑したけれど、その可能性を探ってみることにした。
まだ今ほどパソコンが普及していなかった時代、ただ、ヴィジュアルやアートに強いアップルのMACと、ビジネスに強いWINDOWSという色分けはされていたので、ダメモトでアップル・コンピュータに話を持っていくと、驚くことに9台のコンピュータを演奏用に貸してくれるという。もちろん運送費はこちらが持つことになったけれど、それは大した経費ではなかった。海外のミュージシャンのヴィザ取得には、カーレの招聘に長年協力してもらっていたカンバセーションに協力していただいた。ヨーロッパ、エストニアからの4人の航空券はルフトハンザが4人で43万円弱に大幅に値下げしてもらった。
コンピュータを演奏に使うことを宣伝したら、「Mac Fan」といった雑誌を刊行している毎日コミュニケーションがチラシに広告を載せてくれることになったり、ケーブルテレビからボクがインタビューを頼まれたりして身辺はバタバタに忙しくなった。カーレもまた、やりたいことがいろいろでてきてそれを誰がサポートするのかが問題になってきて、急遽、当時では珍しくコンピュータを使って演奏活動をしている大谷安宏さんに出演を打診すると、二つ返事で快諾してくれた。ニューヨークから来日する予定のポール・ハスキンが体調不良で来られなくなったのだけれど、何とか当日11月19日を迎えた。
大谷さんはカーレ・ラールと連絡を取りながら、コンピュータを使って演奏を指揮するシステムを作り上げてくれていた。PAの川崎さんは9人の演奏家の音像をホールの空間に正確に散りばめてくれた。この日のゲストはサックスの梅津和時さんとピアノの黒田京子さん、二人ともカーレの来日時に共演を経験している。舞台のそでに置かれたモニター三台は、当初はカーレの指示する画面をリアルタイムに伝えるものとして用意されたものだったが、何らかの不具合があってそれができないとわかると、カーレの用意した画像を流すはずだったのだけれど、当日、それもできなくなってしまった。
当日、そんなトラブルが次々とでてきたので、チラシにも名前が挙がっていたポール・ハスキンが出演できなくなったことを告知することも忘れてしまって、彼の友人だという観客からクレームが入る。ステージにはそれぞれのミュージシャンの目の前にパソコンのモニターが並んでいる。当時のモニターはブラウン管テレビのような奥行きがあり、画面も大きくはない。そのブルーの画面にカーレからの指示となる言葉や、イメージ画像が送られ、実際に響いている音を聴きながら音を発していく。同じ条件で一緒に演奏することで、参加したメンバーのあいだに、次第に絆のようなものが生まれてくる。
途中、カーレから「piano」という指示が出て、梅津さんが席を立ってピアノのところへ行き、黒田さんと連弾するというハプニングもあったのだけれど、それは梅津さん独特のオトボケだったのかもしれないし、もしかしたら「即興というのは何でもありなんだ」という即興演奏家の矜持の現れだったのかもしれない。9人の演奏のなかでも際立っていたのは、エストニアから来たトロンボーンのエドアルド・アクリンとギターのマルト・ソーの献身的な演奏だ。即興演奏というと自分が前に出たがる演奏家が多い中で、全体の音を聴き、自分の立ち位置を見定めて、絶妙なサポートワークを見せてくれた。
11月22日、江古田BUDDYでのアンサンブル公演は、いくつかの組み合わせを次々と変えていく、演奏家にとってはやり慣れたセッションとなった。この日のゲストはピアノの宝示戸亮二さん、ギターの内橋和久さん、クラリネットの大熊ワタルさんで、三人ともジャズから少し離れた立ち位置にいる人達なので、それぞれのセッションも、それぞれの個性といったものを表に出した演奏になった。ドイツ文化会館ホールのコンサートはもちろん、この日のBUDDYのライブも多くのお客さんが集まってくれ、これまでのカーレ・ラールとの公演では感じることができなかった満足感を感じることができた。
神戸の地震から3か月後、ボクはXEBECの下田さんと三宮で落ち合って、スタッフのパーティーに飛び入りで参加させてもらった。まるで怪獣映画のセットのような地震の爪痕が残る街を歩き、ネオンが消え、屋台のほのかな明かりが人のぬくもりを感じさせる町で、やけに元気な人達の陽気な笑い声に包まれて、こっちが元気をもらうようだった。5月にダンスの神蔵香芳さんと「月と遊園地」という公演をキッド・アイラックで行い、6月にXEBECで行われたオールナイトイベントに神蔵香芳さんと一緒に参加するという流れの中で、96年、XEBECでの公演を「月と遊園地」にして企画を始めた。

神蔵さんとは91年10月に大阪・高島屋の茶室「白寿庵」で「セピア」というパフォーマンスを、また93年4月、オランダからアド・ペイネンブルグというバリトンサックス奏者が来日した際に、大阪「伽奈泥庵」で「空に近づく方法」という公演を行い、その9月には伊丹「AI HALL」での「I & I VIBRATION」というダンスと音楽の即興コラボの企画に参加していた。そうした関西での活動を土台に、芸術文化振興基金や国際交流基金に助成を申請すれば、海外からミュージシャンを招聘しても何とかなるかと思って、XEBECのダンス公演二日と、大阪・中津「ミノヤホール」のセッションを企画していった。
ただ、助成金が思うように集まらなかったり、関西での公演を取り仕切ってくれる人がいなかったこともあって、96年に企画した神戸「XEBECホール」での神蔵香芳とFREE WORLD BIG BANDによる「月と遊園地」公演と、「ミノヤホール」でのセッションは、思うように人が集まらなかった。ただ、東京に来られなかったコントラバスクラリネットのポール・ハスキンが参加してくれたことで音の幅が広がり、また「ミノヤホール」では珍しく彼のクラリネットの演奏も聴け、その演奏は後年、CDとして作品化されることになるのだけれど、東京から音響スタッフを移動させたことも含め、反省点は多かった。
ただ、そんな絶望的な状況のなかで、「ミノヤホール」での演奏のさ中に、ボクは天啓と言ってもいいような「気付き」を得ることができる。それはただ普通に即興で演奏していたときのことなのだけれど、今までボクは「何かをしない」ことをしていたことに気づく。タイコの叩き方はオープンとクローズの2種類なのに、音をコントロールすることばかり考えていて、タイコから音が抜けていくようなオープンな叩き方を封印していた。また、スティックの軌道というものをそれまで考えたこともなかったのだけれど、スティックの軌道がタイコの鼓面に垂直に動いた時に一番音が抜けることもわかった。そして音がタイコから抜けるとき、自分という存在が無になっていくという感覚がわかった。自分が音楽をコントロールするのではなく、タイコが、楽器が音楽を奏でていくのをボクはただ聴いている…、そんな感覚を持てるようになった。そのときボクは39歳。秋11月には父親になるというそんな特別のタイミングで、ボクは、ようやくタイコの叩き方が分かった気がした。
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