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風巻隆「風を歩く」からNo. 306

風巻 隆「風を歩く」から Vol.19「A. Mica Bunker」~ポール・ハスキン

text by Takashi Kazamaki 風巻 隆

ニューヨークのイーストヴィレッジ、街路樹の緑が印象的で、古いアパートが並ぶ住宅街といったE. 9thストリートに、「A. Mica Bunker (A-MICA)」という小さなスペースがあった。地域の社会活動家の拠点として使われていたベースメント。文字通り地下の穴倉といったような場所で、10人も集まれば満員なのだけれど、そこで毎週日曜日、夜というにはまだ早い午後の8時からIMPROVISORS NETWORKという即興演奏のライブが行われていた。毎回2組ずつで、ほとんどがデュオかトリオというミニライブで、独特の世界を持つミュージシャンと出会えるのを楽しみに、ボクもよく顔を出していた。

1987年当時、その「A-MICA」の企画を切り盛りしていたのが、ポール・ハスキンという背の高い、柔和な笑顔が印象的なミュージシャンだった。彼はブッキングやチラシ作りなどの雑用をこなし、毎回ライブに顔を出して全ての演奏が終わると少額の寄付を聴衆から集めていく。シアトル出身のポールは、当時ジュリアード音楽院の図書館で働きながら演奏活動をしていて、その長身を利用して、コントラベースクラリネットというあまり他の演奏家が見向きもしないような低音楽器を演奏し、象のいななきやゴリラの雄叫びのような、ノイズという言葉ではけして括られない独特な非楽音を奏でていく。

その音を出すのがどんなに大変かというのは、彼の顔色や、ほとばしる汗や、大きな体のゆすり方を見ればよくわかるのだけれど、それだけの労力を使って出てくる音が、ブオッとか、ボソッとか、パオーッとか、言っては悪いけれど、どこかユーモラスで、愛らしい。即興演奏というものは人柄がよく表に出るものだけれど、ポール・ハスキンほど、その人柄が音楽に表れているミュージシャンもいないだろう。朴訥な物言いをする彼は、多くのインプロヴァイザーから心から愛され、その献身的な演奏姿勢は誰からも尊敬され、多くの音楽家が彼の優しい笑顔を見たくて「A-MICA」へ足を運んでいた。

プエルトリカンが多く住む、ロアーイーストサイドのラドロー通りでボクがしばらく暮らしていたとき、一時期、ポール・ハスキンがルームメイトになったことがある。アパートの所有者のケイティ・オ・ルーニーがヨーロッパへツアーに出かけたとき、留守を預かる形でポールが現れたのだけれど、それほど荷物を持ってはいなかったので、ダウンタウンの寝床ぐらいの意味だったのかもしれない。ただ、当時まだ日本では知られていなかったエスプレッソコーヒーの淹れ方を教わったり、外で歩いて缶ビールを飲むときは、紙袋に入れてコッソリ飲むんだといったニューヨークの暮らし方を、随分と教わった。

ポールの話し方には特徴があって、ゆっくりとぎれとぎれに話す。自分がビールを飲みたいときは、ボクもビールが飲みたいはずだと考える彼は、近くのグロッサリーでビールを買うときにはいつでもビールを余計に買ってきて、二人で話すときには、いつもビールを飲んでいたような気がする。この年、6月14日に「A-MICA」でポールと、トロンボーンの河野優彦とボクのトリオを、6月28日には、「PS122」のHOT HOUSEという企画でポールと、チェロのトム・コラとボクのトリオを、7月16日には、この年オープンした「KNITTING FACTORY」で、ポールとギターのクリス・コクランとのトリオを行った。

9thストリートの「A-MAICA」では、5月24日にサム・ベネットとのデュオ、6月にはポールと河野優彦さんのトリオ、8月16日にはサムのバンドBOSHOで活躍していたパカッションのクミコ・キモトさんとデュオ、10月11日には「A-MICA」の常連でもあったギターのダグ・ヘンダーソンと、同じくギターのデイヴィッド・ワトソンとのトリオで演奏している。これらのライブは自分で企画したというよりは、共演者から誘われて出演したものが多い。また、飛び入りのような形でセッションになることもあり、10月はダグとデイヴィッドのデュオの予定だったのだけれど、二人のたっての希望で共演が実現した。

「A-MICA」は、1984年当時には「ALCHEMICAL THEATER」と称し、IMPROVISORS NETWORKはクリス・コクランが世話人だった。「すとれんじふるうつ」でのライブで知り合ったジョン・ゾーンとニューヨークで再会し、「どこかで一緒に演奏できるかな?」と尋ねたときに紹介してもらったのが「ALCHEMICAL THEATER」で、クリスの部屋を訪ねて企画を伝えると、二つ返事でOKだったことを覚えている。その時の企画はジョン・ゾーンと河野優彦とボクのトリオ。当時、マウスピースをいくつも机に並べてせわしなく演奏していたジョンが、立ってアルトを吹いてくれたことを、とてもうれしく思ったものだった。

その後、「ALCHEMICAL THEATER」がE.13ストリートへ移転し、詩の朗読やパフォーマンスの拠点となっていった後に、ミュージシャン達が共同してE.9th ストリートの拠点を自主的に運営していったのが「A. Mica Bunker」というスペースなのだろう。毎週日曜日の夜にライブを行うときだけ、その場所を借りてCHEAPと公言して投げ銭制のライブを自主的に続けていく。サイドウォーク(歩道)にある扉を上へ向けて開けるとそこには地下へ下りていく階段があって、地下の客席には、どこからか拾ってきたようなソファーや椅子が並べられて、小さくフラットな舞台がしつらえてある、そんなスペース。

いつだったか、まだ暑い夏の盛りに、部屋の中では暑いからとアパートの屋上に上って、ポールとクリスと三人でビールを飲みながら話をしたことがある。屋上に上ると空が広く、風が気持ちいい。北にミッドタウンの摩天楼が、南にワールドトレードセンターのツインタワーが見える。「ところでタカシ、ニューヨークにこのまま住み着こうとは思わないのかい?」とクリスが尋ねてくる。「ボクらはいつでもウェルカムだよ。」とポール。「そうだなあ、ヨーロッパにも行きたいし、東京も大切だしね。」とボク。その頃は、お互い、まだこれからの人生というものが未知なままで、それだけ将来が輝いて見えた。

もうすぐ東京へ帰るという頃、ポールに頼んでヨーロッパのスペースのオーナーや、ツアーを企画してくれるエージェント、そして自主的な活動を続けているミュージシャンのリストを作ってもらった。その時はまだ、サムやジーナとレコーディングした音源がどこのレコード会社から出せるかもわかっていなかったし、ニューヨークは2度目でようやく動き方がわかってきたけれど、ヨーロッパのことは何も情報がなく、まったくの手探り状態だった。ドイツやベルギー、オランダはもちろん、スペイン、イタリア、フランス、イギリス、さらにスウェーデンやポーランド、チェコなどの情報も彼に教わったのだった。

さらに、ニューヨーク以外のアメリカの各都市で、自主的な活動を続けているスペースや、ミュージシャンなども彼に紹介してもらった。そうした情報は、もちろん彼が音楽活動のなかで知りえたもので、即興演奏というなかなか地味な活動をワールドワイドに展開していくためには、そうしたネットワークがまず手掛かりになるだろうことはボクも想像できたし、そうした情報を惜しげもなく伝えてくれたポール・ハスキンは、まさしく親愛なる友人だった。鶴巻温泉の「すとれんじふるうつ」がニューヨークへの扉を開けてくれたのと同様に、ヨーロッパへの扉を開けてくれたのは、ポール・ハスキンだった。

半年間のニューヨーク滞在を終えてボクが帰国したひと月後の11月23日、廃校になった小学校を改装した「Performance Space 122」(PS122)で、「A-MICA」に集っていたインプロヴァイザー22名によって「EXQUISITE CORPSE」(美しき屍)というレコーディング・プロジェクトが行われた。何故このタイトルになったのかはわからないが、この頃すでに「A-MICA」の存続が危ぶまれていたのかもしれない。このプロジェクトはウィル・スタンバーグが発案し、全員が一度に演奏するのではなく4人を限度にし、個々が演奏のイメージを図形に描き、引き継ぐ人がそれに描きたすというものだった。

そうした中で、演奏者が変わるロングピース(5~7分)と、演奏者を固定したショートピース(30秒~2分)がいくつも生まれた。それをダグ・ヘンダーソンが自宅で編集したものが LP『Exquisite Corpses from The Bunker』となり、88年、Heartpunch Musicレーベルでリリースされた。この頃、ジョン・ゾーンのCOBRA や、ブッチ・モリスのCONDUCTIONなど、即興演奏家を集めたオーケストレーションが行われていたが、誰かの指示やゲームのルールに従うのではなく、あくまで個々の演奏家の感性といったものにのっとって、自発性や偶然性から、即興演奏をオーケスラにする試みだった。

その後、「A-MICA」でのIMPROVISORS NETWORKは存続が難しくなり、一時期はロアーイーストサイドのスペースで細々と続けていたようだけれど、結局、この企画は立ち消えになってしまった。ポールとは1990年にニューヨークでのレコーディングで一緒に演奏し、また、96年には来日し、神戸「ジーベックホール」でのダンスの神蔵香芳とFREE WORLD BIG BANDでの「月と遊園地」公演と、大阪「ミノヤホール」でのコンサートに参加してくれ、ボクのいくつかの CD作品に、その独特の音を遺してくれたのだけれど、2018年の11月末、生まれ故郷のシアトルで帰らぬ人となった。60歳だった。

風巻隆

Kazamaki Takashi Percussion 80~90年代にかけて、ニューヨーク・ダウンタウンの実験的な音楽シーンとリンクして、ヨーロッパ、エストニアのミュージシャン達と幅広い音楽活動を行ってきた即興のパカッショニスト。革の音がする肩掛けのタイコ、胴長のブリキのバケツなどを駆使し、独創的、革新的な演奏スタイルを模索している。東京の即興シーンでも独自の立ち位置を持ち、長年文章で音楽や即興への考察を深めてきた異色のミュージシャン。2022年オフノートから、新作ソロCD「ただ音を叩いている/PERCUSSIO」をリリースする。

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