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風巻隆「風を歩く」からNo. 307

風巻 隆 「風を歩くから」Vol.20 パーキンス+オルーニー+カザマキ 日本ツアー 

text by Takashi Kazamaki 風巻 隆

1988年の夏、ニューヨークからエレクトリック・ハープのジーナ・パーキンスと、ドラムのケイティー・オルーニーを招聘して国内をツアーしたことがある。87年の半年をニューヨークで暮らし、その音楽活動の結実として、88年には当時の西ドイツのDOSSIER RECORDSから、サム・ベネットとのデュオとジーナ・パーキンスとのデュオをカップリングしたLP『143 LUDLOW ST. NYC』がリリースされたこともあり、そのLPのキャンペーンとしてそのツアーを企画したのだった。ジーナは85年にフレッド・フリス、トム・コラとの「スケルトンクルー」で来日していたこともあって、多くの期待が集まる企画だった。

ニューヨークでボクらはよく一緒にいた。ボクはケイティーのラドロー通りのアパートをシェアしていたし、ジーナもすぐ近くに住んでいた。ケイティーのアパートのリビングにはグランドピアノや彼女のドラムセットがセッティングされ、アンプも揃っていてスタジオのようになっていた。時々ジーナが一緒に演奏したいと訪ねてきて、昼日中に窓を開けっぱなしでガンガン音を出したこともある。年齢が近かったこともあって、この三人は会えばビールを飲みながらジョークを交わすほどボクらは仲がよかった。また、1988年という年は、東京の即興音楽シーンにとってある種の地殻変動が起きた年だった。

3月、ボクが横浜「大桟橋ホール」を会場に企画した二日間にわたる「デュオ・イムプロヴィゼーション・ワークショップ」には、当時「じゃがたら」で活動していたサックスの篠田昌已さんや、まだほとんど無名だったターンテイブルの大友良英さんも参加してくれていた。4月からは、ピアノの黒田京子さんのユニットORTの、新宿「PIT INN」での昼ライブのパンフとして「ORT LIVE」というB5判のミニコミが音場舎の北里義之さんによって始められる。その創刊号の巻頭インタヴューが大友良英さんだったということは、そのミニコミが東京の新しい音楽シーンを伝えるメディアだったことを意味している。

また、季刊「ジャズ批評」の61号(1988年7月号)はハードバップを特集していたのだが、「海外の動向」というコーナーでは、大友良英さんによる「NYコンテンポラリーミュージックシーン1988」というレポートを始めとして、「女性の手による女性だけのニュー・ミュージック・フェスティバルーカナダ」と題して、天鼓さんやジーナ・パーキンスらが出演したフェスティバルのことが紹介されている。また「NY即興音楽シーンで進行する一大変化」と題してトム・コラとボクの対談が9ページにわたって掲載され、話題のコンサートでは、「WOMEN’S ACTIVITY ニューヨーク↔東京」が取り上げられていた。

「ORT LIVE」の第4号では、「Flavor of Green Tea Over the Rice」というタイトルで、ジーナ・パーキンスとのニューヨークでの演奏活動を紹介する風巻の文章や、アメリカの音楽雑誌 Modern Drummer 誌(1988年4月号)に掲載された、ビル・ミルコフスキーの「Downtown Dozen」から彼女の発言を含むケイティー・オルーニーの項を北里義之さんが訳出。そして「ヒステリック・エナジーの回路―ジーナ・パーキンス論」と題する音楽評論家の福島恵一さんによるジーナのこれまでの音楽活動を広く紹介する文章が掲載され、ジーナ・パーキンスとケイティー・オルーニーの来日を後押ししてくれた。

ジーナとケイティーとのツアーは、それぞれのソロやデュオ、トリオと組み合わせを変えながら即興で7~10分ぐらいの曲を作っていくという方法で進んで行った。ケイティーは持ち運びができるフレームドラムのキットを持参してトリガーとサンプラーでさまざまなノイズやヴォイスを演奏に取り入れ、ジーナも自作のエレクトリック・ハープとディレイをはじめとする様々なアタッチメントを駆使して重層的な音群を作り出していく。ケイティーの明快でロック的なリズムと、風巻のたゆたうようなナチュラルなリズムがぶつかりあったり融合したりしながら、三人は、とてもパカッシヴな演奏を繰り広げていった。

東京の公演は、池袋の西武百貨店 8Fの「スタジオ200」で、「WOMEN’S ACTIVITY NY↔東京」というタイトルで、ヴォイスの天鼓、胡弓の向井千恵、サックスの早坂紗知を迎えて、女性だけの即興演奏の会を作り、ボクは慣れないトークで「NYニューミュージックシーンをえぐる」というタイトルで、北里義之さん、福島恵一さんとトークセッションを行った。この企画はボクがスタジオ200へ持ち掛け、「現代ジャズ講座」シリーズの一つとして実現したものだった。ジーナやケイティーの活動の中にフェニミズム的な要素があることと、まだ少数だった女性のインプロヴァイザーに光をあてるものだった。

7月24日、鶴巻温泉「すとれんじふるうつ」、25日、新横浜「スペース・オルタ」から始まったジーナとケイティーとのトリオのツアーは、盛岡の金野吉晃さん、名古屋の岡崎豊廣さんらの協力もあって、全国10カ所で行われた。その多くはジャズ喫茶やライブハウスだったけれど、その中で異色だったのは8月6日、湯布院・塚原高原での「MUSIC LANDSCAPE」だった。85年に小杉武久や高木元輝、ダニー・デイヴィスらが集った塚原高原で、今回は、ログハウスのテラスをステージにオールナイトのフェスティバルが企画され、夏の高原の夜に地元のバンドらとともにボクらの音は広がっていった。

8月11日の金沢・ブラック&ブルーでの公演を最後に、ジーナが急遽帰国することになり、翌日の富山でのライブはキャンセルになってしまった。それでもボクとケイティーは気を取り直して最後の公演地の佐渡へと向かう。佐渡は81年のソロツアー以来何度も訪れているけれど、今回は13日にドンデン山にある国民宿舎「大佐渡ロッジ」の屋上でのコンサートとなった。その日は午後の公演で演奏が終わってから地元の人達との交流会があり、その中で宿根木に住むという方から、ぜひ皆さんでうちに遊びにきてほしいと招待され、ツアーが終わった気楽さもあってご好意に甘えることにした。

その方は、そばの栽培から、だしにするトビウオ釣りまでして、手打ちそばを作るというすごい人なのだが、ちょうど盆踊りがあるというのでケイティーと、このツアーにずっと同行していた彼女の友人のキャロラインを誘って出かけた。深い入江と山に挟まれた小さな集落の一日に何本も来ないバス停前の広場に、小さなやぐらが組まれ太鼓が一つ置かれている。酒屋のとなりにテントが張られそこにマイクが一本立っている。ちょうちんが並ぶわけでもなく夜店が軒を連ねるわけでもなく、いつもの日常の延長といった風情が漂い、夕食を終えた人達が普通のラフな格好で三々五々集まってくる。

さっきまでテントの中で一杯やりながら談笑していたオジサンがバチを片手に太鼓に歩み寄ると、やおら太鼓を叩きはじめる。すると、陽に焼けたのか、しこたま飲んだのか、もう赤い顔をしたオジサンがマイクの前で歌いだす。世間話に花を咲かせていたオバチャン達も、ほとんど条件反射のように手足が動き出して、やぐらの周りでゆっくりと「小木おけさ」を踊りはじめる。ボクもその輪の中に入って見よう見まねで踊ろうとしているのだが、なかなかどうして難しい。面白い足の運びがあって、そこがポイントだなと考え考えやっているので、ギクシャクした動きになっているのが自分でもよくわかる。

薄暗かった空もとっぷり暮れて、夏空に星がまたたきだす。都会のネオンに慣れっこになった目には、この夜の暗さは少し怖くもあり、また、どこか懐かしい。漆黒の闇の中で、踊りの場所だけがほのかな明かりに照らされ、浮かび上がっている。うたも太鼓も、疲れたかなというところで、さっといつのまにか交替し、踊りはとぎれるということがない。淡々とした繰り返しかと思っているうちにじわじわっと気分が高まり、その場がだんだん高揚していくのがわかる。自分が一人ここにいるというあたり前のことがどんどん頭から遠ざかり、盆踊りの輪それ自体が、一つの生き物のようになって動き出す。

突然、踊りの輪の中から声を張り上げて女の人が歌いだす。すぐに男の人が合いの手をいれ次第に掛け合いのようになった。「え、何?これって即興」などと思ってドギマギしているのはたぶんボクだけで、踊りは次第に高まっていく。踊りは明らかに最初のゆったりとした動きに比べ速くなっているのがわかる。踊りを楽しむ余裕だけはでてきたその頃、歌や太鼓の交替が早くなり、踊りの輪の中から一人二人と抜けていくようになると、ここらが潮時とばかりに、何とまたあっけなく終わってしまう。体の中に盆踊りの余韻を感じ、潮の香りを胸いっぱい吸いながら、ボクたちもまた家路を急いだ。

11月には、雑誌「COS」が名古屋の岡崎豊廣さんらによって創刊され、倉本高弘さんが湯布院の「MUSIC LANDSCAPE」をレポートしてくれている。また、ジーナとケイティーのインタヴューも掲載され、即興演奏についての彼女達の言葉がある。ケイティーは「私はダイナミクスに興味があり、何らかの方法で力強い方向づけをするということが、インプロヴァイズド・ミュージックの中で見失われがちだと思うのです。」と言い、ジーナは「私にとってはこの無形式の中から独自の新しいフォームを作り上げてゆくという点に興味をもっているといえます。」と語っていて、 「スタジオ200」での公演は、「フリーであるという事は本当にいろいろな事を意味するのですね。とにかく良い経験が出来ました。」としている。

風巻隆

Kazamaki Takashi Percussion 80~90年代にかけて、ニューヨーク・ダウンタウンの実験的な音楽シーンとリンクして、ヨーロッパ、エストニアのミュージシャン達と幅広い音楽活動を行ってきた即興のパカッショニスト。革の音がする肩掛けのタイコ、胴長のブリキのバケツなどを駆使し、独創的、革新的な演奏スタイルを模索している。東京の即興シーンでも独自の立ち位置を持ち、長年文章で音楽や即興への考察を深めてきた異色のミュージシャン。2022年オフノートから、新作ソロCD「ただ音を叩いている/PERCUSSIO」をリリースする。

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