JazzTokyo

Jazz and Far Beyond

閲覧回数 ...

Column ラグランジュ・ポイント 金野Onnyk吉晃No. 331

オト・コトバ・ウタ(6)「伊豆下田に一夜だけの宗教を見た」(下)

text by Yoshiaki Onnyk Kinno 金野ONNYK吉晃

3. 沼(つげ義春の描くような)

私は思う。
土方、阿部、灰野、お七が日本を発見したのではない。また、彼らの模倣者達が日本を発見したのではない。
ニホンが彼らを見いだし、彼らに憑いたのだと。彼らが自己の根源に向き合ったと思ったのは、それはニホンという霊だった。
ニホン? 霊? ニホンの霊?「世迷い事」か。
私自身もそう思う。このように言ってみてもざわつく。しかし、書いてみると心が落ち着くのだ。
あるいは、私は言霊(コトダマ)に憑かれたのか。
では言霊とは何か。それは文字やテクストではない。口に出す、耳で聞くオト〜振動なのだ。

コトバを文字、記号にする事。これは別種の呪法である。口承音楽が記譜されてしまうように。オトを出す人と記譜する人、かつては同じで、そして分かれ、また一つになっていく。
文字の生まれた社会では、文字はエリートの象徴だった。文字を持たない人々から、文字は魔術、呪符として恐れられた。
いや、見方によれば文字は嫌われ、軽蔑されたのである。だから大事な約束、記憶は口で繰り返す事(語り部)が重要で、文字などにすべきではなかったのだ。だから契約の儀式が重要だった。

動物達にもオト、コトバはある。が、文字はない。ヒトは文字を生み出す事で、抽象的次元を得た。新しい形の嘘を、物語を生み出せるようになった。
私の「世迷い事」はレトリック、すなわち文字の連ね方の技に過ぎないのだ。繰り返すが、文字はコトバとイコールではない。
私の意識(ココロ)はコトバでできている場であり、コトバの引力(それはシニフェ〜シニフィアンの戯れ=「弱い相互作用」のような)が私の観察した現象と釣り合う位置、ラグランジュ・ポイントが文章になったに過ぎないのである。

60年代の日本前衛芸術にも言える。「もの派」、「九州派」、「具体美術協会」、あるいは挑発的アクション、ハプニング「ハイレッドセンター」や、「0次元」のような。しかし、彼らは言霊から逃れ出ていた。その理由について今は措く。
演劇はどうか。「黒テント」、「状況劇場」、「天井桟敷」、「維新派」を思い出す。彼らは日本の言霊に絡めとられていたか。
蓋し文学は違うだろう。何故ならそれは、それ自体でニホンゴというコトバの沼だから。
また、作曲家たちも違う。コトバとは違う記述法を持っていたからだ。

それから半世紀経過した現代において、そんなに事情は変化していない。ただ、ニホンゴは巧妙に電子的に流布し、希薄化し、より欺瞞的になっただけだ。

二万年前から、この弧状列島各地に住んだ人々のコトバは吹き寄せられ、大陸から入って来た漢語、漢字と混ぜあわせられた。長い間それは続いた。
列島のどこかに、いやそこかしこに盆地がある。
その盆地にはニホンゴのスープ、つまりは言霊がゆっくりとたまり、ニホン沼となった。これは国民性やイデオロギーではない。沼なのだ。その沼には得体の知れない何物かが棲んでいる。それは「美しい日本のワタシ」かもしれない。
我々はそれを養う為に、今もこの沼にコトバを投げ込み、またそこからコトバを汲み上げる。

ニホン沼の水を飲むと、どうなるのか。それは養老の滝ではない。
演歌や歌謡曲へのオルタナティヴとして、またマージービートの模倣として、あるいはベンチャーズのエレキサウンドに痺れて生じたバンド連中は、おしなべて「グループサウンズ」となる。その結果はタイガースやスパイダースなのか。あるいはゴールデンカップスやフラワートラヴェリンバンドなのか。
彼らは皆沼に沈んだ。そして沼から這い上がって来た妖怪は「裸のラリーズ」とジャックスだろう。
一方、ボブ・ディランの影響下、反戦歌、プロテストソングとしての性格があった筈のいわゆる「フォーク」は、高石ともや、岡林信康、高田渡らによって広まった。が、吉田拓郎、井上陽水を経て、瞬く間に「四畳半フォーク」へと、あるいは体質を替えて「ニューミュージック」へと変質していく。

ニホン沼に一度沈んだ「フリージャズ」は、骨までその水を染込ませて、這い上がってきた。その怪物の名は山下洋輔トリオという。
(菊地雅章「銀界」、富樫雅彦「Spritual Nature」、沖至「しらさぎ」も一度はニホン沼に浸かった果てだ。しかし、様式と化した表現は山下トリオに極まる。)

70年代後半、ニホン沼の水が沸騰した。その蒸気は「ジャパノイズ」のプネウマとして世界中へ拡散して行った。「ジャパノイズ」は、或る意味ニホン沼の固有種なのかもしれない。

ニホン沼に浸かったスタイルは上記だけではない。「タンゴ」、「パンク」、「テクノ」、「テクノポップ」、「レゲエ」、「ヒップホップ」、「ラップ」…それぞれに沼が沁みた変容を見せたが、ここでは触れる余裕が無い。

4. ”SPIRITS REJOICE”:Ghost

下田に集まった面々が自発的に即興演奏をすると、庄田がいみじくも漏らしたように「どんちゃん騒ぎ」である。
これは盆踊り、ヨサコイ、阿波踊り、ネブタ、花笠踊り、ナニャドヤラも同じである。さらには、一遍(1239〜89)が創始した時宗の踊り念仏、お陰参りなのか。三里塚に結集した農民達は結局「幻野祭」で武田節を唄い踊った。
下田の”SPIRITS REJOICE”は、日本各地で開催される多種多様な祭礼の一例に過ぎないのかもしれない。
多くの伝統踊り(古さを誇っているが形式が固定したのはせいぜい明治以降だろう)は、輪踊り、つまりロンドの形式だった。そしてまた出会い系サイトだった。いずれそれは男女入り乱れての「どんちゃん騒ぎ」になり、気があった同士の番(つがい)は闇に消える。これをカガヒ、歌垣という。
演奏能力の最大公約数は、つまり単純なリズムと催眠的なリフレイン(言葉、節、念仏)となる。象徴的には性行為とも言える。
新たな生殖、生成のための儀礼。由来怪しく歴史の浅い「伝承、伝統」も、外来の様式も、ニホン沼に沈み浮いて来る。これはレトリックでしかないのか? 現象の解読なのか。
アーティスト、ミュージシャンは皆、個性的たろうとして、いつの間にかニホン沼にはまってしまう。誰が最初にそこにはまり、最初に浮き上がるのか?
集団即興の場では、テクニックのあるつもりの者、音のでかい奴は、ヘゲモニーを握らんとして沼にはまる。
彼らは実はジャズではなくそういう沼で育ったから。すでに、其処に来るまでに沼の水を飲んで来たから。
その沼には同調圧力という渦が巻いている。全てはメールシュトレームのようなニホン沼に沈んでゆく。
だから伝統踊りも集団即興も同じになる。
そこで舞う女もまたアメノウズメになる。女はアマテラス(つまり日の本)を引き出そうとする。
それはそれで良い。ただ私には、下田 ”SPIRITS REJOICE” に「時代閉塞の現状」にある「忘れられた日本人」を見てしまうのだ。
(詳述する余裕は無いが、土方巽と田中泯はニホン沼を干上がらそうとしたように思える。)

ニホン沼とは、畢竟「日本史」であるとも言えよう。井沢元彦は、「日本史真髄」(小学館新書、2018)において興味深い視点からその質の一部を言い当てている。

5. JAZZ MACHT FREI!

庄田はライブの後半戦のために、自作曲の譜面を書いて(それは皆、よく知られた曲の日本的解釈だ)、全員にやらせてきた。その中でのソロや逸脱を許すように。まつろわぬ民を統べるには「書かれたもの」が必要だった。戒律や念仏を教えなければならなかった。
しかし結局は同じ事だ。全員、次第に暴れだす。「ここにこそジユウがあるんだ! ヒョウゲンは我々をジユウにするんだ!」と。それが「魂の喜び=SPIRITS REJOICE」なのか? はたまた現世からの救済なのか。浄土なのか。
それがニュージャズ・シンジケートという宗派なのか?
カリスマ教祖、庄田次郎がでかい音を出す。誰よりもでかいオトを。
そして赤い襦袢をからげて半裸になり、狂女達と一体化してゆく。ああ。これはバッカスとバッケーの祭儀か。
「あそびをせんとやうまれけむ、まへまへかたつむり」宴は終わりに近い。

庄田のニュージャズはアッシャー家のように下田の海に沈んでゆく。
171年前、ペリーが開港させたその湾に。(終わり)

https://jazztokyo.org/column/lagrange-point/post-115147/
https://jazztokyo.org/column/post-114441/
https://jazztokyo.org/column/lagrange-point/post-113249/
https://jazztokyo.org/issue-number/no-327/post-112546/
https://jazztokyo.org/issue-number/no-326/post-111826/

 

金野 "onnyk" 吉晃

Yoshiaki "onnyk" Kinno 1957年、盛岡生まれ、現在も同地に居住。即興演奏家、自主レーベルAllelopathy 主宰。盛岡でのライブ録音をCD化して発表。 1976年頃から、演奏を開始。「第五列」の名称で国内外に散在するアマチュア演奏家たちと郵便を通じてネットワークを形成する。 1982年、エヴァン・パーカーとの共演を皮切りに国内外の多数の演奏家と、盛岡でライブ企画を続ける。Allelopathyの他、Bishop records(東京)、Public Eyesore (USA) 等、英国、欧州の自主レーベルからもアルバム(vinyl, CD, CDR, cassetteで)をリリース。 共演者に、エヴァン・パーカー、バリー・ガイ、竹田賢一、ジョン・ゾーン、フレッド・フリス、豊住芳三郎他。

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください