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ジャズを撮る!菅原光博No. 288

菅原光博 ジャズを撮る!#15 NYジャズ・シーン「ロフト・ジャズ #3」

    1. photo & text: Mitsuhiro Sugawara 菅原光博

ロフト・ジャズの3回目はシカゴ出身のジャズ・ユニット「AIR」。1978年7月に自費で出かけた際、ヴィレッジ北側のユニオン・スクエア・パークで撮影したが、今まで公開する機会がなかった写真の初公開。AIRのオリジナル・メンバー、ヘンリー・スレッギル (sax)、フレッド・ホプキンス(b)、スティーヴ・マッコール(ds)のトリオ。
ティン・パレスは、イースト・ヴィレッジのバワリーにあったクラブ。1980年の写真で、出かけてみたらたまたまアル・フォスターが居て、被写体になってくれた。アート・テイラーが現れて、珍しいふたりのドラマーの2ショットになった。ヨーロッパから帰ってきたデクスター・ゴードン、ふらりと現れたセシル・テイラー、ウォルター・ビショップ(p)トリオの写真と合わせて。

AIR @Union Square Park, NYC 1978


AIR
シカゴAACMの精鋭のひとりサックス奏者ヘンリー・スレッギル (1944~) により1971年に結成されたトリオ。オリジナル・メンバーはベースのフレッド・ホプキンス (1947~1999)とドラマーのスティーヴ・マッコール (1933~1989)。1989年にスティーヴ・マッコールが早出した後はアンドリュー・シリル、次いでフェローン・アクラフがドラムの椅子に座った。
ヘンリー・スレッギルに初めて出会ったのは、1975年5月、シカゴで開かれた「AACM設立10周年記念フェスティバル」だった。AACM:Association for the Advancement of Creative Musicians:創造的ミュージシャンの進歩のための協会は、シカゴ市が肝煎りで黒人居住区に設立した組織で、アフリカ系アメリカ人がミュージシャンとして自立するために音楽を身に付け切磋琢磨することを目的としていた。初代会長はピアニストでコンポーザーのムーハル・リチャード・エイブラムス (1930~2017) で、オーケストラを率いていた。当時、僕はトリオレコードでシカゴのDelmarkレーベルからリリースされていたAACMシリーズを国内仕様でリリースし、同行した評論家の悠雅彦氏はトリオと共同でWhynotレーベルを立ち上げ評論活動の一環としてアルバム・プロデュースを計画していた。DelmarkのAACMシリーズですでに体験していたとはいえ、僕らは眼前で繰り広げられる音楽の余りの豊穣さにほとんど目がくらむ思いをしていた。僕らが真っ先に目を付けたのが、まだ世に紹介されていないヘンリー・スレッギルのAIRとチコ・フリーマンのコンボ、それにムハル(首領)のピアノ・ソロだった。思いのほか難航したのが条件交渉だった。いずれもインテリで独自の理論で自己主張を展開してくる。例えば、ムハル。「日本は裕福な国で、国産の世界に通用する素晴らしいピアノを製造している。演奏料の代わりにAACMにピアノを1台寄贈してほしい」。
AIRについていえば、同年10月にデビュー作『Air Song』を録音、ヘンリーは上掲の写真にみられるように、テナー、アルト、バリトン・サックス、フルートを演奏している。ちなみに、AACMのミュージシャンは多楽器奏者が多い。音楽性を豊かにするためにそういう教育をし、機会を与えているのだ。早くも翌年には2作目の『Air Raid』を録音。いずれも内省的で密度の濃い演奏を展開している。
1作目をリリース後、NYのボブ・カミンズから連絡が入り、彼のIndia Navigationを通じアメリカ発売を決めた。当時 Aristaの マイケル・カスクーナからも面談を求められたが、情報収集が目的だったようで、2年後から自らアルバム制作している。
スレッギルは、その後数々の目覚ましい実績を積み上げ、2016年には作曲でピューリッツア賞(音楽部門)を受賞、2020年には、NEAのジャズ・マスターに推挙されている。日本のプロデューサーがいち早くその才能を見出し、アルバムを通じて世界に紹介したという誇るべき事実は記憶されて良いと思う。(稲岡邦彌)

The Tin Palace (ティン・パレス)
1973年秋、ロシア系住民のひとりミーシャ・サラドフがイースト・ヴィレッジのバワリー&2nd ストリートにオープンしたナイト・クラブ。バップからフリーまでのジャズバンドに加え、アミリ・バラカ(リロイ・ジョーンズ)などの詩人も出演、アーティストの社交場となった。ビルの外壁に Tin(ブリキ)を貼り付けたため Tin Palace(ブリキの館)と名付けられた。ロフトジャズの終息と共に70年代末に閉店。

菅原光博

1949年、北海道上川郡愛別町生まれ。ワークショツプ写真学校細江英公教室OB。1973年1月よりジャズを中心に、レゲエ、ブルース、ソウル系コンサートを内外で取材開始、雑誌、ジャケット、ポスター等をメデイアとする。著作に、『田川律+菅原光博/ジャマイカの風と光』(1984 音楽の友社刊)、『菅原光博+藤田正/ボブ・マーリー よみがえるレゲエ・レジェンド』(2014 Pヴァイン)。 https://mitsuhiro-sugawara.wixsite.com/photographer

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