ニューオリンズ・ジャズの草分け的な 巨人キッド・オリー 竹村 淳
ぼくが初めて心からジャズに惹かれたのは、京都での浪人生活を経て1957 (昭和32) 年春に早稲田大学第一文学部に入学して間もない頃だった。校内で勧誘されて参加した学生 劇団の白鳥座で、同じく演劇専攻の新入生、相馬悌三君と知り合ったのが発端だった。 彼は自分でもハワイアンを演奏する音楽好きで、ニューオリンズ・ジャズの草分け的な 巨人キッド・オリー (1886 – 1973) の素晴らしさをぼくに会うたびに熱っぽく語った。 ある日のこと調布にあった彼の家を訪ねてオリーのレコードを聴かせてもらった。これ がぼくとジャズの本格的な出会いで、オリーの演奏を聴いていて、ぼくは無性にニューオ リンズに行きたくなった。その夢が叶ったのは71年だったが、そのことは後述したい。 ぼくが買った最初のジャズ・アルバムは、ニーナ・シモン (1933 – 2003) のデビューLP 『リトル・ガール・ブルー』だった。かねがね女性ボーカルが好きなぼくは、ジャズ・ボー カル通とされていた大橋巨泉氏が新聞だか雑誌だかで賞賛していたので、それを当時大学 の4号館地下にあった生協に頼んで取り寄せてもらって15%オフで手に入れ、毎日のよう に聴いた。その頃の大卒の初任給は1万円に満たない金額だったが、LPレコードは1枚 2,000円前後の高価なものが多く、15%の割引はとても有難かった。 やがて経済的な理由から、ジャズに限らずLPを買う余裕がなくなり、ぼくはもっぱらラジオでクラシック音楽やシャンソン、ジャズなどを聴いていた。巷では1950年代末頃から モダン・ジャズ人気が急速に高まり、ぼくもジャズ喫茶をよく訪れた。 1956年3月~5月のドン・コサック合唱団を振り出しに、ボリショイ劇場バレエ団、レニングラード・フィルハーモニー交響楽団、ボリショイ・サーカスなどを次々に招聘し、敗戦から10年余り経ったとはいえ娯楽に飢えていた日本人の間にやり手の“呼び屋”として その名を轟かせていた神彰 (じん あきら/1922 – 98) 氏がアート・ブレイキー (1919 – 90) & ジャズ・メッセンジャーズを招聘し、初来日公演が1961年新春に実現した。 ラッキーなことに招待券をもらってぼくが観たコンサートは一般公演ではなく、会場も 新宿伊勢丹内のホールでのマチネー公演だった。そこは300人前後収容の小ホールで、ブレイキー以下、全メンバーの表情までよく見てとれ、初めてナマで体験するファンキーの 塊のような演奏に、ぼくの血は大いに騒いだ。余談だが、驚いたのはブレイキーがドラムスの側に日本酒の一升瓶をおき、随時ラッパ飲みしながら太鼓を叩いていたが、コンサートが終わる頃にはボトルが空っぽになっていたことだ。 当時のぼくはと言えば、大学の卒業式が迫っているのに就職先が一向に決まらずかなり焦っていた。むろん数社の就職試験を受け、一次試験はいずれもパスしたが、面接で両親がいない孤児だとわかると選ばれることはなかった。結局、コネを頼りに某広告代理店にコピーライター見習いとしてやっと入社できた。だが勤め始めると、どうにも会社と反りが合わず、62年末の結婚を機に退社。某放送局のCM課長の紹介で、同じ広告代理店ながら創立からまだ2年たらずの東急エージェンシーへ転職し、63年の正月明けから渋谷に あった同社に出勤するようになった。 入社後しばらくして、当時のスーパースターだった石原裕次郎が、堀江謙一氏のヨット による太平洋横断体験記『太平洋ひとりぼっち』を映画化するにあたり、その資金稼ぎのために初めてテレビにレギュラー出演するという話が飛び込んできた。テレビ局は日本テレビ、番組名は 「今晩は裕次郎です」 だった。ホストがビール好きで知られた裕次郎であり、サッポロビールが提供スポンサーとなり、その広告代理店が東急エージェンシーに決まり、なぜかぼくがその担当に指名された。何をしたかといえば、普通の大瓶ビール3本分相当の新商品「サッポロジャイアンツ」をいかにも美味そうな泡を立てて大ジョッキー に注ぎ、それを裕次郎が一気に飲み干すという生コマーシャルを制作することだった。それでぼくは一気に超多忙の身となった。63年7月3日の第1回放送を皮切りに 「今晩は裕次郎です」 は華々しくスタート。その年の秋に憧れのソニー・ロリンズが初来日したが、やはり仕事と重なり、ぼくは公演に行けず仕舞い。そんなふうにプライベートを犠牲 にして働いたのに「今晩は裕次郎です」はなぜか視聴率が上がらない。テレビ局側はなんとかしようと美空ひばり、長嶋茂雄、渥美清といった豪華ゲストを次々に投入したり、裕次郎をわざわざ阿波踊りに駆り出したりもしたが、視聴率は低迷のまま。落胆したサッポ ロビールが番組提供を辞退し、番組は64年3月で打ち切りとなった。 その後、64年6月にサンケイホールで観たピーター・ポール&マリーの初来日公演にいたく感動し、ぼくの心はしばしジャズから離れていくことになった。
そんなぼくが熱心にまたジャズを聴くようになったのは68年夏のことだった。 その年2月に、日本コロムビアに代わってソニーが米国CBSレコードと提携してCBS・ソニー株式会社をスタートさせることが判明。東急エージェンシーでも新会社をスポンサーに迎えるべく、音楽好きのぼくを中心に企画を準備してプレゼン (広告主への広告計画提示) をしたところ、業界最大手のD社に競り勝って、首尾よく同社の広告を一手に扱えることになったのだ。 同社の大賀典雄専務の要請で、ぼくは当初は六本木にあったCBS・ソニーの宣伝課に出向という形となり、夕方になると当時まだ渋谷にあった東急エージェンシーに戻り、担当クリエイターたちと打ち合わせというのが日々の勤務スタイルとなった。 道玄坂の中程のところに66年にオープンしたヤマハミュージック渋谷店があった。わが勤務先からそこまで徒歩5分ほどだったので、ぼくはよく訪れていた。そのヤマハ渋谷店 と同じビルの地下に、“Hi Dick” (ハイ・ディック) というミュージック・バー があり、ぼくは時々顔を出していた。ある晩、同店に寄ってみると、驚いたことにテディ・ウイルソン (1912 – 1986) が北村英治 (1929 – ) らと出演しているではないか。あのベニー・グッドマン のカーネギー・ホール公演でピアノを弾いていた伝説の名ピアニストが来日していることさえ知らずにいたぼくは、夢のような奇跡に興奮し、素晴らしい演奏に酔いしれた。
Hi Dickは昭和初期から大活躍した歌手ディック・ミネ (1908 – 1991/本名: 三根徳一) の 子息の経営だという噂を耳にしたことがあった。余談だが、芸名のディックは英語のスラングで男性器をさす。三根は立教大学時代に相撲部に所属していて、スッポンポンになっ て回しをつける際に、居合わせた米国人教師が彼のディックのデカさに驚嘆し「ディック、見ねぇ (三根)!」と叫んだという故事に由来すると巷間いわれていた。 もう半世紀も昔のことゆえ記憶は定かではないが、テディ・ウイルソンはしかるべきコ ンサートホールでの公演予定もなく、一度ちらっとテレビ出演しただけで、約1ヶ月ほど Hi Dick に出演していたらしい。共演の北村英治らにしても依頼された仕事というよりは、彼にとってアイドルのような存在のテディと一緒にやりたい一心で、いわば押しかけ出演 に近い状態だったようだ。テディが出演中と知ってからは、ぼくは夕方になるとソワソワし、よほどのことがない 限りはHi Dickに行き、ピアノに近い席に陣取り演奏を楽しんだ。ミュージシャンの体調もからむため、その日その日で演奏の出来不出来があるにしろ、ナマ演奏の魅力はレコー ドの比ではないことも思い知った。
1971年夏、仕事がらみで初めてアメリカ合衆国 (米国) を訪れた。 その仕事とはCBS・ソニーレコードの関係で、米CBSレコードが主催する国際的な集まりであるコンベンションに日本側のスタッフの1人として参加するのが主目的だった。世界各地にあるCBS傘下各社のエグゼクティブやスタッフを集めてLAの高級ホテルで数日間 開催される大きなイベントだった。 したがって東京とLAを往復すればすむ話だったが、ぼくには他にも行ってみたい所が いくつもあった。日本円と米ドルの交換レートは、実質的に1米ドル=¥100程度なのに、 1米ドル=¥360という敗戦国ならではの不利なレートがまだまかり通っていた。航空運賃にもそのレートが適用されるため高額だった。それが会社持ちとなるこの機会を逃してはならじと、旅好きのぼくは密かにプランを練った。 1960年代の米国ではヒッピー文化が大隆盛したが、その揺籃の地とされるサンフランシスコをまず訪れた。LAでは前述のコンベンションへの参加がメインだが、抜け目なくディズニーランド観光も旅程に組み込んだ。その後、CBS Records本社訪問という大義名分をかざしてニューヨーク (NY) へ。 その時のNY滞在のハイライトはビル・エヴァンス・トリオのライブだった。NY到着後 に入手しチェックした “Village Voice” 誌で、同トリオがヴィレッジ・ヴァンガードに出演 することを知ったとき、ぼくは小躍りした。61年のアート・ブレイキーの初来日以来、ジャズのビッグ・ネームの来日が相次いだが、エヴァンスの来日は話題にすらならない。彼の名盤『ワルツ・フォー・デビー』などを愛聴し、彼の大ファンを自認するぼくにはまさに 天恵のご褒美に思えたものだった。 ぼくはそのエヴァンス・トリオを聴きに3夜連続で足を運んだ。エヴァンス (p)以外は、 エディ・ゴメス (b)、 マーティ・モレル (ds) という顔ぶれで、あの『ワルツ・フォー・デ ビー』でベースを弾いたスコット・ラファロは直後に交通事故死し、ドラマーもポール・ モチアンではなかった。だがそんなことは問題外。日本のコンサートホールで聴くのと違い、NYのヴィレッジ・ヴァンガードでハイボールを飲みながら耳を傾けるエヴァンスの ピアノはぼくにとってなにものにも替え難い至福の響きだった。そしてこの体験は、ジャズ離れしていたぼくを完全にジャズの世界に引き戻すことにもなった。 NYから、ぼくは米国訪問の最終目的地にしていたニューオリンズへと向かった。学生時代から憧れていたキッド・オリーはすでに引退していたが、それでも彼が活動していた本場でディキシーランド・ジャズを聴くためだった。
街並みも美しく、 散策するだけでも楽しかった。ふらりと入ったレストランのクレオール料理もどこかフレンチの流れを汲んでいるせいか、よく舌に馴染んで美味しかった。
そして予期せぬミュージシャンとの出会いは、ぼくのニューオリンズ訪問のハイライトとなり、その素晴らしい演奏にぼくは有頂天になった。 宿泊したホテルの受付でお勧めのジャズ・スポットを訊いて、ぼくが訪れたのはプリザ ヴェーション・ホールだった。町の有名な中心街フレンチ・クオーターのセント・ピーター・ストリートにあり、その界隈で最古とされるアーシュリン修道院に次いで古いとされる建 物は1750年に私邸として建てられ、1788年と1794年の大火のときも無事だったという。その古色蒼然たる風情の建物の一階に、1960年代初めに現地の企業家ラリー・ボレシュタインがギャラリーとしてオープンさせたのが始まりだという。やってくる客のために、暇を持て余しているロートルのミュージシャンたちを集めて演奏させたところ、それが画廊よりもウケて、当時としては珍しい飲食サービスなし、ダンス・フロアなしの純音楽ホールとして盛況したと伝えられている。ホールといっても4~50人入れるかどうかの広さで、床は板張りだった。3~4人用の 年代物の長椅子がいくつかあり、壁際に古い椅子が数脚おかれていたが、むしろ積み上げ てある座布団を自分で持ってきて床におき、そこに座る客が多く、ぼくもそれに習った。 入場料がいくらだったかは全く記憶にない。演奏曲をリクエストすると1米ドル、人気 曲“When the Saints go marchin in 聖者が街にやってくる”は3ドルだったことは鮮明に覚えている。近年は1名につき米10ドルと聞くから、当時は3ドルぐらいだったろうか。 三々五々ミュージシャンたちがやってきて所定の位置につく。やや遅れて車椅子に乗っ た老女が入ってきたのを見て、「さすがジャズ発祥の街。演奏を聞かないと眠れない人もいるんだ」などと、勝手な想像をしていると、付き人に押されて車椅子はそのままピアノ の正面まで行って止まった。彼女こそがスィート・エマ (1897 – 1983) だった。 時は1971年8月に入って間もない頃だったから、1897年3月25日生まれのエマは74歳 だったことになる。歩行は不自由としても、ピアノの腕前は達者そのもの。曲によってメガフォン片手に唄うのだが、高齢特有のしゃがれ気味の声ではあったものの、音程の確かさ、ボーカル・センスの良さは抜群で、ぼくは大いに楽しんだ。彼女の生演奏にふれられただけでも遥ばるニューオリンズまでやってきた甲斐が十分あったとも思った。記念にと 64年録音のLP『New Orleans’ SWEET EMMA and Her Preservation Hall Jazz Band』を購入し、サインをねだると、エマをはじめ全員が気軽に応じてくれた。 ぼくは傘寿を迎えたのを機に2017年から身辺整理を始め、かなりの本やLPを処分したが、彼女のサイン入りのこのアルバムはわがお宝として手元に置き、時々聴いてはエマと会った日に思いを馳せている。
竹村 淳 (たけむら じゅん)
1937年神戸市に生まれ、5歳から現在の京田辺市で育つ。音楽ジャーナリスト。
1981年~85年と 87年~2005年にかけてNHK-FMでラテンアメリカとカリブ音楽のDJを務める。85年に株)テイク オフ(Takemura Officeの略)を設立し、キューバのレコード公団EGREMの音源を積極的にCD化した ほか、ブラジル/ボリビア/ペルー音楽の本邦紹介にも努めた。またペルーの至宝ギタリスト、ラウ ル・ガルシア・サラテの初来日公演を2000年に実現したほか、ブラジル/ペルー/パラグアイの有 名アーティストたちの招聘にも尽力した。その傍ら、NHK文化センターや立教大学ラテンアメリ カ研究所の講師を務めた。2009年3月に開講したラテン音楽パラダイス塾を月1回のペースで2022 年11月まで主催した。著書に『ラテン音楽パラダイス』(NHK出版→講談社+アルファ文庫)、『ラ テン音楽名曲名演ベスト111』(講談社→アルテスパブリッシング)、『国境を超えて愛されたうた』 (彩流社)、『反戦歌 戦争に立ち向かった歌たち』(アルファベーターブックス) など。