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特集『私のジャズ事始』

高校時代に連行されたジャズ喫茶 淡中隆史

私がジャズを熱心にきくようになったのは高校生のころ。はじめて音楽に接してから、ずいぶん後のことだ。
「じゃあ、それまで何きいてたの」と、よく問われる。いままでテキトーに答えてきたけど、それはクラシック音楽だけなのです。
そもそも純クラシック環境で育ち、父親は道楽でヘタクソなピアノを弾くレコードコレクター。彼のむかし話に「1956年ごろNYでグレン・ゴールドを聴いた」というのがあった。たしかにグールドは初期にゴールドとも呼ばれていたらしい。それゆえ、この与太話をウソとは断定できない。だとしたら、これは(ほぼ)同時期の瀬川先生のNYチャーリー・パーカー体験に匹敵する。

1970年代になっても実家や親類たちがジャズにいだくイメージはひどくネガティブなもの。「〇〇叔母さんちのジャズバンドでコントラバスやってた息子、あの人だけは法事によばないよ、ゲーノー関係だから」(←サベツだ)なんて会話がまかり通っていた。でも私はその「ズージャのおじさん」が好きで、こっそり大森の家に遊びに行くと、SKD出身の奥さんがまっぴるまから二十歳前の私に秘蔵のウィスキーをご馳走してくれた。いわく「ジャズでウッハウハ儲かって、この家もそんとき買ったんだ」などなど。ドンバ時代の話は楽しそう。
「そうか、ジャズってお金が儲かる音楽なんだ」と単細胞的理解。(それ、大昔の話なんです、が)

そんなこんなで私は幼少期の「洋楽事始」からクラシックのみに親しんでいた。
小学生のときは学校帰りにピアノの先生宅でレッスンに通う。
中学の授業が終わり、いつものようにレコード屋によったあと、ウチに飛んで帰って正座してバッハやワーグナーを聴いてます、みたいな可愛げのない子供だったはず。中学3年でマーラーにハマって「大地の歌」のお気に入りの一節 “Dunkel ist das Leben, ist der Tod”(生きてるのも暗いが,死んだって真っ暗だ=やや意訳)を筆写して勉強机の前に貼っておいたら父親が見つけて、「おまえ、受験勉強いろいろ大変なのわかるけど、一度おとうさんと友達の精神科医に会ってみないか、なぁ」と誘われたのを覚えている。(なんたる勘違い、親というものはあつかいづらい)

ところが、高校2年にもなるとまわりの状況がなにやら激変。学生運動が始まっていて、友人関係対策上「ぼくクラシック小僧です」などとプチブルテキなことを言うと殴られそうな雰囲気になっていた。クラシックといっても好きなのは立派に反体制的(?)な現代音楽なのだが、そんなのは言い訳にならない。
左翼高校生のたまり場はジャズ喫茶(=不良の巣窟)と決まっていたので、さっそく面白半分に連行され、ジャズなるものを聴かされてみた。「これがジャズか、うるさいもんだなぁ」。でも驚くことに30分もすると、大音響の奇妙な音楽がアタマとカラダにすぅーっと浸透していった。決してイヤでなくなったのです。
紫煙漂う中で「三里塚」に代表を送る準備、学内バリケードの作り方などが話題でBGMがジャズという構図。その時に流れていてアタマに刷り込まれたのはコルトレーン「バラッズ」やマイルス「フォア・アンド・モア」など1960年代の定番、いま考えると、当時の5年ほど前にリリースされたレコードということになる。全国規模では同じような体験を2千人くらいの高校生が共有していたと思うけど、もっと多いような気もする。
さらに少しのち、1970年前後に発売されたジャズアルバムにはリアルタイム特有のおもい入れがある。それらの中心にECM初期のアルバムたちがあったことはいうまでもありません。

その後、大学生になると現在に至るジャズ友達もでき、自宅が吉祥寺にあるアンラッキーさも手伝って、いよいよジャズまみれで暮らすことになった。音楽書籍出版社で週2の編集部パシリのアルバイトをしていた期間、帰りがけには「きみ、そこに転がってるサンプル3枚くらい持ってっていいよ」とのお言葉が。「神かっ、待ってました、ありがたやー」とジャケットなしの白盤をいただく。さらに帰りがけに新宿のレコ屋によってLPを買い、ピットインかDIGとファンキーでシメてバイト代をぜんぶ消費、という夢のような日々。連日連夜の修行のせいで、すっかりジャズファンと成り果てていた。

その2年後にレコード会社に入社できた。のちに邦楽制作部に異動されたその日に先輩から「たんちゃん、ツェーマンエンかして」(このおじさんはナニ語で話しているのか?)と言われるような大人の不良環境にも馴染んだ(なじむべきでなかったかもしれない)。めぐり巡って25年後にようやくジャズ担当にたどり着き、会社を卒業した現在もボチボチ制作を続けている。

あこがれの菊地雅章(プーさん)のアルバムをつくることができ、多くのジャズに関係できたのも、稲岡さんに会えたのも、様々な巡り合わせと時代とのラッキーな符合のせいにちがいない。
それもこれも10代にかなり不純な動機でジャズ喫茶なる悪所に連れて行かれて、妙に感動したこと。
これが私の遅れたジャズのことはじめなのです。

淡中 隆史

淡中隆史Tannaka Takashi 慶応義塾大学 法学部政治学科卒業。1975年キングレコード株式会社〜(株)ポリスターを経てスペースシャワーミュージック〜2017まで主に邦楽、洋楽の制作を担当、1000枚あまりのリリースにかかわる。2000年以降はジャズ〜ワールドミュージックを中心に菊地雅章、アストル・ピアソラ、ヨーロッパのピアノジャズ・シリーズ、川嶋哲郎、蓮沼フィル、スガダイロー×夢枕獏などを制作。

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