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No. 216Interviewsカンザス・シティの人と音楽 竹村洋子

48. キム・パーカー インタビュー

2015年8月27日 オレイサ(カンザス州)

present: Chuck Haddix,Teddy Dibble & Yoko Takmura
インタビュー:チャック・ヘディックス テディ・ディブル 竹村洋子
photo: courtesy of Kim Parker & Chuck Haddix
写真提供:キム・パーカー チャック・へディックス
photo of Kim Parker & translation by Yoko Takmeura
写真&翻訳:竹村洋子
special thanks to Verne Christensen

 

キム・パーカー (Kim Parker): ジャズシンガー。サックス奏者チャーリー・パーカーの義娘。
1946年8月22日、ニューヨーク生れ。父親は白人男性。母親はチャン・リチャードソン(Chan Richardson:1925〜1999)。女優でダンサーであり、チャーリー・パーカー(Charlie Parker:1920〜1955、以下バード) の最後の妻。
1950年、キムは4才の時、母親のチャンがバードと結婚したことにより、バードの義娘となる。1950年から1955年まで約5年間、バードと共に暮らす。 チャンがバードの間にもうけた娘プリーと息子ベアードの姉となる。
1955年3月、キムが8才の時にバードは死亡。
1957年、キムが11才の時、チャンはサックス奏者のフィル・ウッズ(1931〜2015)と再婚。一家はフランスに移住する。チャンとフィルの間に出来た息子ギャルと娘エイミーの姉となる。13才の時、スイスのハイスクールに入学。
その後、キムはアメリカに戻り、ハイスクール、ニューヨーク州、ハムステッドにあるホフストラ・ユニヴァーシティの演劇科で学びながら、ジャズシンガーとして活動をする。
1967年に結婚し、その後は音楽シーンから一旦姿を消す。
1976年、長男アレクザンダーを授かった 頃からジャズシンガーとしての活動を再開。
1983年、母親チャンとフィルは離婚し、チャンはその後フランスに留まり1999年に74才の生涯を終える。
現在、キム・パーカーは、ペンシルヴァニア州ストラスバーグで1人暮らし。年に3〜4回、クラブでの仕事をこなしている。

今回のインタビューは、昨年2015年8月27日にミズーリ州カンザス・シティの郊外、カンザス州オレイサで行った。
キム・パーカーは8月29日、バードの95才の誕生日を祝う『チャーリー・パーカー・セレブレーション』にスペシャル・ゲストとして招かれた。
インタビューは2013年に出版された『bird: The Life and Music of Charlie Parker』著者のチャック・ヘディックスの呼びかけにより実現した。チャック・ヘディックス氏、バード研究家のテディ・ディブル氏と筆者(竹村)の3人が事前に質問内容等を打ち合わせ、へディック氏のリードによって進められた。
キムは、緑豊かで静かな住宅地にある、友人のヴァーン・クリステンセン宅に1週間程滞在しており、約2時間のインタビューはそこで行った。


♪ キムと家族

質問:まず、あなたの家族について話して下さい。
キム : それは大変な質問だわ!何処から話しましょうか?まず、私の母方の祖父母に遡らなきゃね。

祖母はアイオワ州の農家の娘でミルドレッド・ヴァイオレット・ランクトン(Mildred Violet Lankton)といい、1898年生れです。 彼女は10人姉弟の5番目でした。5人女の子が生まれ、次に5人男の子が誕生しました。18才の時、シカゴに行く決意をしました。何処からお金を調達したのか知りませんし、尋ねた事もありませんが、とにかく彼女はシカゴに行きました。彼女の友人のショウのオーディションを受け、仕事を見つけました。それがダンサーとしてショウビジネスで働き始めたスタートでした。彼女はカリフォルニアに行ったり、またシカゴに戻って来たりしていました。

祖父はショウのプロデューサーで、ベンジャミン・デヴィッド・フェインバーグ(Benjamin David Feinburg)です。アメリカに渡って来てからB.D. バーグと短く変えました。
彼は、ウィル・ロジャース,メイ・ウエスト、ファティ・アーバックル(註1)といった有名な芸人達を抱えていました。ニューヨークに行き、レストランを持ち、ショウの仕事もしていました。その頃、祖母はジークフェルド・フォリーズ(註2)のオーディションの話を聞きつけ、そこで仕事を得ました。祖父は祖母の事を『自分だけのもの』でいて欲しい、と思っていたので、彼女が1人勝手にオーディションを受けて仕事を得た事に慌てた様です。ニューヨークのウエストサイドにあるニュー・アムステルダム劇場が彼女の仕事場でした。1922〜23年頃の事です。

註1: Will Rogers(1879-1935)コメディアン、作家、社会評論家、ボードビル芸人。Mae West(1893−1980)女優、歌手、セックス・シンボルとしても有名。Fatty Arbuckle(1887−1933)喜劇役者、サイレント時代の全盛期を支えた。
註2:Ziegfeld Follies -1907年に設立されたブロードウェイのショウ・プロダクション。1930年代以降映画俳優も抱える。

私の祖父は1880年生れで、船でロシアから来ました。ロシア帝国領のリトアニアです。おそらく1898年です。

という事はあなたのお祖父さんはユダヤ人でしたか?お祖父さんとお祖母さんは異教徒間の結婚だったんでしょうか?
その辺りの事は皆うまくやってたと思います。祖母は信心深い人じゃなかったし。(註3)

祖父は1931年に亡くなりました。祖母はその時34才でした。
祖母は絶対不満を言わない人でした。彼女は再婚もせず、残りの人生をずっと未亡人で通しました。100才近くまで生き、彼女が知っている誰よりも長生きしました。30年代も40年代も50年代も、ニューヨークにいる彼女を訪れて来る多くの人達に囲まれていました。
祖母は、エレベーターのないアパートの4階(西7番地、52丁目、ニューヨーク:7W,52nd Street,New York) に住んでいました。アパートの階段は64階段ありました。私はいつも階段を上る度に数えてたので覚えています。
祖父が亡くなった後,祖母はレストランのクローク係として働きました。
1995年10月18日に亡くなりました。

私の母(後のチャン・パーカー)は1925年6月29日生まれです。彼女の本名はベヴァリー・デロレス・バーグ( Beverly Delores Burg)といいます。デロレスっていうのは『悲しみ』っていう意味なのよ。(笑)
私は母が16歳の時(1942年)からの日記を持っています。それには、色んな事があからさまに書かれています。彼女は「おお〜!ジョニー愛してるわ!彼は本当にハンサム、素晴らしい人だわ!彼の薄緑色の目!どうして彼の目は薄緑色なんでしょう!?」とか。そして次の日には、「ああ!フレディ、とっても愛してるわ!」なんて、まったく馬鹿馬鹿しいんだけど、1年中次から次へと男達の事を書いています。
彼女は日記に、ある夏、避暑地で芝居を演じた事を書いています。その下手くそな演技は周りの皆を落胆させ、母は仕事を失ってしまいした。そう、母は女優でした。彼女は「どうやら、私はあんまりいい女優じゃないみたいね。」と書いています。(笑)

母は晩年、詩人になり多くの詩を残しました。私は最近、彼女がストリングスのために書いたかの様な作品に出会いました。
それは、スザンヌ・カイルのために作った美しい詩です。スザンヌ・カイルはレナード・バーンスタインの従妹です。母の作品は素晴らしいものです。
(キム唄い出す)

Dew on somber grasses,
feeling slow as sweet molasses
Birds and bees are buzzin’
Gonna get my cousin, ask him,
‘Shall we go up to the pond?’

母は1999年9月9日に亡くなりました。母はいつも「私は絶対死なないわ!」と言ってました。当時、彼女はフランスに住んでいて、そこで亡くなりました。私と弟のギャルが病院に行った時には、彼女はもう逝ってしまった後でした。病院側に、母に会いたいかと尋ねられられましたが、私は会いたくなかったわ。でも、会いに行きました。弟のギャルは行きませんでした。
私達が母の家...それは古い農家だったのですが、そこに戻った時、私は彼女のベッドの縁に座って笑い出してしまったの。私は周りを見回し、「まったくもう!お母さん、あなたは正しかったわよ!あなたは絶対死なないわ!どうしてって、こんなにいろんな物を残して、全部私がお母さんの後始末をしなきゃならないじゃないの!」ってね。それから私は彼女の遺品を捨て始めました。でも出来なかった。母の本当に大切なものが山程残っていたんですもの。私は今だに母の物を捨てながら、彼女の秘密を少しずつ暴き続けているんですよ。

私の叔父(チャンの弟ジミー)は1930年に生まれました。彼は父親を全く知りませんでした。彼は未だ生きています。

私は、1946年8月22日生れです。
当時、私の祖母は、レストランのクロ—ク係をしていたので、彼女はずっしり重い財布を持って帰ってきました。1kg位あったと思います。財布は彼女が働いていたクロークルームで、チップとしてもらった25セント硬貨でいっぱいだったんです。これが私のお気に入りでした!私は硬貨を紙で包んで遊んでいました。私が赤ん坊の頃に、本物の硬貨や紙幣に囲まれて座っている写真があるのよ。誰か恵まれない人にあげようと思ってたのかもしれないわね。私の幸せな人生の始まりだったけれど、全く長続きしなかったわね!(笑)

註3:当時のアメリカには、ユダヤ人に対する偏見と差別がかなりあり、多くの芸人が本名のユダヤ姓から芸名に変えた。『チャン・リチャードソン』も芸名で、彼女がダンサーだった頃に変えたと推測される。

♪バードとの暮らし

あなたは、あなたの人生そのものであったニューヨークの52番街で育ちましたね。
52番街は私の育った所です。(7W, 52nd Street, New York) 私は辺りを走り回り、ブロックを駆け抜けていました。誰もが私を知っており、誰もが私を見ている事も解っていたので、私は絶対に安全でした。アパートのドアマン、ストリッパーやミュージシャン達と辺りで遊び回っていました。
52丁目は母がジャズに出会った所です。当時、祖母はキャブ・キャロウェイ、デューク・エリントンや、多くのミュージシャン達が来ていたコットン・クラブのクロークルームで働いていました。そこも、母がジャズに出会った所です。ジャズは母のすべてだったわ。

誰もが母をものにしたがりました。彼女はすばらしく美しかったし、最高にヒップでした。彼女はおそらく、世界中で一番ヒップなジャズ・ミュージシャンの奥さんだったんじゃないかしら?本当よ!本当に彼女は美しく洗練されてたわ...だからみんな彼女を欲しがったのよ。

バードは母が家の部屋のペンキを塗っている時に会いました。彼女は梯子に乗っており、バードは一瞬にして母に恋をしてしまったのです。(註4)
母はバードと恋に落ちました。ここに彼女の日記の一つがあります。これはバードが亡くなった後のもので、私は丁度読み返したばかりだったので持って来ました。これを読むと、母がどれほどバードを愛していたかが解り、胸が張り裂けそうになります。バードは彼女の人生における『真の愛』だったのです。
彼女はバードの音楽をそんなに聴いていませんでした。でも、彼女は彼の音が好きで、彼のやっている事を理解する事が出来ました。

註4:チャンとバードが最初に会ったのは1943年、バード23才、チャン18才。チャンの友人がバードを家に連れて来た。
2人が最初にデートしたのは1945年。バード25才、チャン21才。チャンの21才の誕生日。当時、チャンは「52丁目の女王」と呼ばれていた。

 

バードとお母さんが最初に住み始めた時の事を覚えていますか?
いいえ、私は幼過ぎたわ。私がバードと一緒に住み始めたのは4才半でした。私達が最初に一緒に暮らしていた東442、11丁目の事は覚えていますが、11丁目がどんな所だったかは、覚えていません。
でも、その後に住んだ、151丁目のアヴェニューBのアパートは覚えています。私達の所は、入ってちょっと階段を数歩降りて行った所だったわ。歩道のちょっと脇の下の階だったの。
現在、歴史的ランドマークになっています。ジュディ・ローズという女性がそのアパートをビルごと買いました。(註5)

註5:1950年5月29日、チャンとキムは東442、11丁目(442E, 11th Street)のバードのアパートに移り住む。
1951年、プリー誕生の前に151アヴェニューB(151 Avenue B)のアパートにバード、チャン、キムは引っ越す。アヴェニュー Bのアパートは現在のイースト・ヴィレッジ、トンプキンス公園の東にある。,

私はそこでの5才の誕生日を覚えています。
バードはキャデラックを買いました。夜の仕事の後、タクシーを捕まえる事がとても難しかったのです。そう、黒人だったからです。
バードが私と母を車に乗せて街をドライブした事を覚えています。彼は運転し、私を膝の上に座らせてハンドルを握らせました。彼はバードランド( ブロードウェイ、52丁目)でよく演奏していたのですが、仕事の後に9番街のデリカテッセンによく行きました。
彼は大きくて分厚いターキークラブ・サンドイッチを買いました。これはよく覚えています。いつもドライブのハイライトだったもの!

バードと一緒に歩く事は本当に素晴らしかったわ!彼は本当に威厳があって堂々としていました。道ですれ違う人達は皆そう感じてたはずよ。
私達が誰だか知っている人達に会うのはとても楽しかったわ。私達は西4丁目のコーヒーハウスによく行きました。え〜と、Rで始まる名前の店です。それからワシントン・スクエアも。鳩が彼の頭の上に乗ったりしたのよ。バードは「ハイ!君、バード?!」なんて言ったりしてね。(笑)

これは、私がとっても好きな話なんですが...私達が6番街を歩いてた時、バードはあの頃人気者だった西部劇スターのギャビー・ヘイズに会ったのよ!バードはカウボーイとインディアンが出て来る様な西部劇番組の大ファンでした。まあ、そんなテレビ番組がバードのお気に入りだったの。
バードは同じ通りの向こう側から、ギャビー・ヘイズがやって来たのを見て、『ギャビー・ヘイズ!ギャビー・ヘイズ!』って叫んだら、ギャビー・ヘイズが『やあ!バード!』って言ったんで、驚いてひっくり返っちゃったのよ!ギャビ−・ヘイズがバードを知ってたのよ!とっても愉快な話でしょう!?バードはギャビーのサインをもらったわ。なんてお茶目!

私達はある時、手品を売ってる店に行きました。彼は棺に入っているミイラを買ったの。中に入ってるミイラがトリックか何かの拍子で起き上がっちゃうのよ。それから、ピーナッツキャンディの缶詰を買ってくれました。缶を開けると、中から蛇がいっぱい飛び出して来たわ!それから、彼は『ブザー』が好きだったわ。あの『ブー』ってなるブザーよ。それを手に握って、誰かの手を取って握手をするの。そうすると、『ブーーー!』って鳴るのよ。バードはそんな子供染みた事がとても好きでした。

バードはとても保守的な人でした。
彼は私の弟ベアードが生まれた時、母に言いました。「息子の前で裸で歩き回るなよ!」と。母は「だって、彼は未だ赤ん坊よ!」

 

私の子供時代は矛盾だらけでした。学校に行く時は、朝起きて自分で朝食を作ってました。6才だったのよ!自分でお昼のサンドイッチを作り、1人で学校に歩いて行ってました。私は、そこにいる子供達が何だったのか解らなかったわ。どうして私があの子達と一緒にいるのか全く解らなかった。そこにいるのはみんな子供なのよ。私は彼らと何をしてたのかしらね?私は大人の中で育ったので、その状況が全く理解出来ませんでした。

学校の始まりは朝10時半。私は毎朝、嘔吐していました。摂食障害だったようです。メキシコ人の女の子だったと思いますが、その子が11時になるとパンツの中にお漏らしをしていました。学校の用務員は毎朝10時半に私が嘔吐するまで待ち、もう1人の子を11時まで待って、2人の体を清潔にしなきゃならなかったんです。
それから、爪の検査の様なものがありました。子供達がどれ位清潔かチェックするチャートの様なものがありました。私の事は誰も面倒を見てくれなかったから、きっと汚い爪をしてたのでしょうね。
学校側は家に連絡票の様なものを送り、それには「医者に連れて行く必要がある。」と書かれていました。私がどこか変だったからです。それでバードが私を医者に連れて行きました。医者は私に幾つかの質問をし、バードに「この子は学校を怖がってるんですよ!あなたが学校に連れて行くべきだ!」と言いました。
その後、バードは私と一緒に学校に行く様になりました。私は父親の手を握ってました。私は大きな黒人の男と私が一緒にいるのが、どれ程異様な光景かなんて、全く気になりませんでした。これが毎日嘔吐する事よりずっと異常な光景だとも思いませんでした。私の嘔吐は止まりました。私は『私のお父さん』と一緒だったので、もう平気だったのね。(キム、静かな微笑み)

あなたのお父さんの大きな暖かい手、そして彼がどれほどあなたを愛していたか、という事ですね。
ええ、彼は私を愛してたわ。(キム、大きな微笑み)

母とバードは言い争いました。彼女はダンスの仕事でモントリオールに行きました。バードはとても混乱し、私の顔さえも見たくなかった様ですが、最後には私を見つめて気を取り直しました。彼は私を愛していました。これは、どうやって母とバードが仲直りしたか、という話なのよ。私は彼らの『糊』の様な役目でした。
バードは本当に私を愛していました。

ああ、そうだわ!彼は『日曜のディナー』が本当に気にいっていました。それは、私達家族のとても大きなイベントでした。私の祖母、叔父、2人の祖母の友人が来ていました。
バードは本当に楽しそうでした。みんな揃って撮った写真があります。バードの膝に乗っているのはプリーです。ベアードは後ろの方で高い椅子に座り、その隣に母。レイおばさん。そして私の叔父やジャネットおばさん。祖母は写真を撮ったので写真の中にはいません。
私はみんなの一番前で「ジャジャ〜ン!」なんてやってました。とても自己顕示欲が強い子でした。長椅子の上に立って唄ってたんだけど、下手くそだったわね。
バードはこの中流家庭の日曜のディナーが本当に好きでした。それは『白人の中流階級』のやっていた事です。彼はそのディナーを構成する要員の1人だったのです。
これは、バードの死にも関連があると思うのですが、彼は塩を何から何まで真っ白に、食べ物が全部白く覆われてしまう位にかけて食べていました。本当にクレイジーだった!
日曜のディナーは毎週やってた訳じゃなかったけれど、本当に楽しかったわ。

 

日曜のディナーにはミュージシャンは来ましたか?それとも家族だけでしたか?
大事なポイントね!
バードは家の中にミュージシャンは1人として入れませんでした。決して!
ある時、プリーがベビーカーの前のちょっとしたスペースに出ていたの。ピアニストのジョー・アルバニーが立ち寄ったのですが、バードは彼をドアから突き飛ばし、「出て行け!」って言いました。彼は「あいつはここにいて欲しくない、汚い!」って言ってました。

ジョー・アルバニーのドラッグをバードはやっていたと思いますか?
ええ、そうだと思います。
でも、バードはミュージシャンは誰一人として家の中に入れませんでした。

どうやってバードはヘロインを家で使っていたんでしょう?
彼は家には持ち帰りませんでした。(キム、嬉しそうに微笑む)母はその事を日記に書いています。母はバードは絶対に家にヘロインを持って帰らなかった。と書いています。

私はバードがヨードチンキを飲んだ事を覚えています。(註6)一度、彼がそれを手にした時、母が警察を呼んだ事を覚えています。警察官がやって来た時、バードは「やあ!来てくれて嬉しいよ!今、強盗が入ったんだよ!ここに強盗がいたんだよ!」と、そんなでっち上げ話を喋りまくっていました。

その夜の事は覚えていますか?
母が「まあバード!やっちゃったのね!」と、言ったのを覚えています。救急車とデイリー・ニュースの記者達が来た事を覚えています。それだけです。

註6:ヨードチンキは日本でも70年代頃までポピュラーだった家庭用消毒液。劇薬。

バードが家で練習していた記憶はありますか?
いいえ、全くありません。全く練習していませんでした。
それから、バードは家でジャズをプレイしませんでした。彼はクラシック音楽をよく聴いていました。ストラヴィンスキーなんか好きでした。
彼はナディア・ブーランジェについて音楽を教わりたかったようです。
この話は映画『バード(Bird) 』(註7)の中にもあります。ああ、それから、あの映画の話はほとんど母の日記に基づいて作られています。

註7:Nadia Boulanger(1887ー1979)フランスの作曲家、ピアニスト、指揮者。
チャーリー・パーカー伝記映画『Bird』:1988年作、クリント・イーストウッド作。

バードはミュージシャンとしての仕事,レコーディング・セッッションとか、そういった物を家には持ち帰らなかった?彼が何処で練習をし、どんな仕事をやっていたか解っていましたか?
いいえ、あんまり解っていませんでした。
母は「ダディはシカゴにいるのよ。」とかそんな事よく言ってました。
私は彼がスウェーデン・ツアーに行った時の事は覚えています。何か大きな動物のおもちゃ、ウサギか、そんなものをお土産に持って帰ってきてくれました。それから、小さな木馬。今でも持ってるのよ!
私達はオカリナを持っていました。あの小さなパイプ、知ってるでしょ?これも今でも持ってるわよ。それから、バードのオペラグラス!バードがオペラグラスを使ってたんですよ、想像してみて!それと真珠。母のために真珠とオペラグラスをパリで買って来ました。

バードがナイトクラブで働いていた所へ行きましたか?
バードランドには時々行ってました。ステージの左側のちょっと暗い所に座っていました。私は眠っちゃいそうだったけど。

アヴェニューBの角に、バードがよく行くバーがあったの。彼はそこのバーによく座っていました。そこのみんなは「チャーリー」って呼んでたわ。みんなは彼が誰か知らなかったのよ。ただの1人の男だと思ってたのよ。あの頃、隣近所にはジューイッシュ、ジプシーやロシア人なんかがいて、マルチな文化がありました。ニューヨークらしい所よね。バードはそこのバーの男達と遊び回ってました。みんなミュージシャンではなく、普通の人達でした。母は私をそこに行かせて、バードを家に連れて帰らせようとしました。
それで私はそのバーによく歩いて行きました。「ダディ、私達お家に帰らなきゃ!」って言うと、彼は「オーケイ、プディン!」って言うの。(一同、柔らかな笑)
彼は私の事を『プリンセス・ピー・ピー(おしっこのお姫様)』って呼んでたわ。私がベッドを濡らすから。(一同笑)

あなたは、彼が本当にノーマルであった側面を、とても大事にしている様ですが...。彼は家では真面目な人でしたか?
ええ、とっても!

バードは丈の短いパンツのスーツを良く着ていました。彼はバミューダ・パンツの様な短いパンツをはいて歩き回っていました。周りの人達は、見た事もないようなクレイジーな格好のバードをジロジロ見ていました。
彼はニューヨークからニュージャージー州のトレントンによく行っていました。私達は時々、車で彼を迎えに行きました。彼はよく新聞を脇の下にはさんで現れました。おかしいでしょ?!彼はスーツを着て、新聞を小脇にはさんで電車から降りるような、『普通のビジネスマン』を演じて遊んでいたんですよ。皆、彼がミュージシャンでチャーリー・パーカーだと知ってるのにね。

アヴェニューBのアパートはどんな風でしたか?
あのアパートでは、私のベッドルームは真っ黒で暖炉の上にデス・マスクがある部屋だったんですよ。子供にはとても素晴らしい部屋だわ!(笑)

その真っ黒な部屋であなたはどうなっちゃったんですか?(一同爆笑)
そんなの覚えてないわ!

私の母はクリスマスのギフトに、自分が読みたい本を私に買ってくれる様な人だったの。
私はボードレールの『悪の華』やアーネスト・ヘミングウェイの『移動祝祭日』とか『天使よ故郷を見よ』なんかを読んだのよ。全く理解できなかった。私は今だに読み続けていますよ。(註8)
それから、彼女が見たい映画にも連れて行ってくれたわ。私はディズニーとか、そんなのは全く縁がなかったわ。彼女が連れて行ってくれたのは、血とか砂とかフラメンコがある様な映画なの。『ローマの哀愁』とか、そんなの中年女性とジゴロの話じゃないの!?私は子供だったのよ!(大笑い)『リバティ・バランスを撃った男』もね。本当にクレイジーよ。それからバレエを観にシティ・センターに連れて行ってくれたわ。

註8: 『Les Fleurs du Mal de Poche』 by Baudelaire、『A Moveable Feast』 by Ernest Hemingway 、『 Look Homeward Angel』 by Thomas Wolf
『Roman Spring of Mrs. Stone(1961)』『The Man Who Shot Libert Valance (1962)』

近年、あなたはアヴェニューBのアパートを訪ねたそうですが、どんな様子でしたか?
素晴らしかったわ!その後、2回行きました。BBCのインタビューを受けた事があります。私が思っていたよりずっと小さかったわ。
そこでジュディ・ローズが多くのミュージシャン達の世話をしていた様です。サックス奏者のデューイ・レッドマン(1931〜2006)がいたのを思い出します。ジュディは新しいニカ夫人(註9)のようでした。彼女はあのアパートを歴史的ランドマークとして登録させるのに随分尽力しました。その事もあって私は2回行ったのです。
最近インターネットで見たわ。

註9:バードが最後に亡くなった時にバードの面倒を見ていたドロネス・パノニカ・ドゥ・コーニングズウォーター男爵夫人の様な人という意味。

 

あなたはお母さんの日記を持っていますね。それを読んで、バードとお母さんが最初、どんな関係だったか解りますか?彼女は、最初は内気な人だった様に思えますが。
ええ、母は内気な人でした。

バードと母はもの凄く激しく惹かれ合っていました。お互いの持つ強烈な魅力は、彼女を怯えさせました。もしバードと母が喧嘩したら、彼は母に「昔遊んでた男達と一緒に何処かに行っちまえ!」とか言って怒鳴り散らしてたでしょうね。
彼女は男達を知っていました。バードは男でした。母とバードの間にあった強烈に激しい関係は、彼女を逆に怖がらせました。彼女は男を知っていたのよ。
でも彼女は、「もう二度と恋はしない。」なんて言った事はなかったわね。

母の1955年から1956年の日記があります。それを読んで驚いたんですが、彼女はバードが死んだ後もバードに取り憑かれていました。

♪プリーとベアード

プリーとベアードの事は覚えていますか?
プリーがいつ病院から家に帰って来たのか、はっきりと覚えていません。ベアードの事はよく覚えています。私は多分、母に注目してもらいたかったんだと思います。ベアードは私より6つ年下です。私が6歳の時、ベアードが病院から家に来ました。私はプリーのベビーサークルに入ってオレンジジュースの入ったベビー・ボトルを持ち、彼らの帰宅を待っていました。母とバードの初めての赤ん坊、母とバードの大〜きな赤ん坊!(笑)

勿論、私はプリーもベアードも大好きでした。プリーは本当に可愛かった。彼女は喋れなかったけど、ものすごくはかない感じで、とても神秘的でした。彼女はとっても特別な存在でした。何か仮面をつけている様だった...素晴らしく魅惑的な。彼女が寡黙だったからそう感じたのかもしれません。「バー!」とかそんな事しか言わなかったし。でも何かオーラの様なものが溢れ出ていました。
ベアードはとっても強くて誰にも負けない様な子でした。バードが亡くなった後,母はベアードを甘やかし、皆にベアードのことを『リトル・バード』と呼ばせました。

 

バードとベアード、プリーとの関係はどんなものでしたか?
母はプリーが病気になった時、とても慌てていました。彼らはプリーが患っていた嚢胞性線維症(註10)がどんな病気か知りませんでした。その病名さえ知らされていませんでした。プリーは2才半で亡くなりました。
母はバードがベアードと私にだけかまい、プリーの事を全くかまわなかったので焦っていました。バードはプリーの生まれつきの弱さを見るのが怖かったのかもしれません。プリーは病気でしたから。
母はバードに言いました。「ベアードはミドルネームを持っているわ。あなたはベアードに歌も書いた。キムにも書いたわ。どうしてプリーには何も書いてやらないの?プリーはミドルネームも持っていないのよ。」
バードはプリーが死んでからほぼ1年後に亡くなりました。(註11)フランシス・ポードラと母が一緒に作った本『To Bird With Love』(註12)にとても悲しい写真があるのをご存知かしら?ワシントン・スクエアかどこかなの。私はカメラの外にいるんだけれど。あれはプリーが亡くなった後で、バードと母がこうやって下を見ているの。2人は死んだ目でベアードを見てる。

註10:嚢胞性線維症(通称CF)は、全身の外分泌腺(肺、膵臓、肝臓、消化管、汗腺、精巣など)の正常なはたらきを阻害する疾患。粘っこい分泌液が各器官の管に詰まり、呼吸困難や消化機能の低下を引き起こす、致命的な難治性疾患。
註11:プリー、1951年7月17日生−1954年3月没。
ベアード、1952年8月10日生〜2014年3月23日没。
註12: Francis Podras1935−1997, 『To Bird With Love 』

あなたの家族は日曜のディナーを一緒にとったり、まとまって団結力があった様ですね。バードとチャンの絆もとても強かった様に思えますが。いつ頃、彼らの関係がおかしくなり始めたと気付きましたか?

私はしょっ中、祖母の家に行かされていました。かなり多くの時間を祖母と過ごしました。小学校2年生になった時に祖母の家からアップタウンにあった学校に行ったのを覚えています。私が祖母の所にいた事が彼らに良かったかどうか、よく解りません。でも何か起こっている事は薄々感じていました。

母がプリーが死んだ時に病院から帰って来た時の事も覚えています。プリーは5回も心臓が止まったんです。タクシーの中で、病院で、そして最後に屈してしまいました。
祖母は私と一緒にいました。母は祖母に電話したと思います。バードはカリフォルニアにいました。母は病院にプリーを引き取りにいく間、私とベアードの面倒を見てくれる様に電話で頼んだと思います。もしくは、病院から電話してそこに来る様に頼んだか...いずれにせよ、母の事は覚えています...

(突然、キムは号泣し始める)

私は、ただ母がむせび泣いていたのを思い出したの...むせび泣いていたのよ。
もう、私ったら、とっ散らかっちゃったわ!

♪バードの晩年と死

バードの晩年、彼は多くの時間を巡業して過ごしましたね。それは家族にどんな影響がありましたか?
母とバードは私の前であんまり喧嘩したりしない様にしました。だから、私は祖母と一緒に多くの時間を過ごしたんです。

バードはドラッグをやめてから、お酒を飲み始めました。彼は十二指腸潰瘍だったのよ。
彼はミルクにスコッチを入れて飲んでいたわ。「ミルクは胃壁をコーティングするから大丈夫なんだ!」って。それが彼の健康ドリンクよ。

バードがヨードチンキやお酒を飲んだりした事で、バードとチャンとの関係が変り始めましたか?
バードと母の関係が変化していったのは、いろんな事が積み重った結果だったと思います。母はバードを変らせる事や、あまりに自己破壊的な彼を助ける事にも、もう自分の力が及ばないと感じていました。母はいつも、バードがヘロインだけに留まっていたら生き長らえたかもしれないと思っていました。でも彼は大酒飲みになり、自分の体を酷く痛めつける様になった。私は彼の塩の使い方もその一つ原因だっだと思ってます。
彼の食欲は見事に旺盛でした。セックス、食べ物とお酒とドラッグ。彼はそのすべてを欲したわね。

彼らの関係が壊れかけて来た頃、チャンはさぞかし傷ついていたでしょうね。あなたはバードがどれほど彼女を愛していたか想像できるでしょう。
ええ、とても。プリーの死でいろんな事が変り始めました。負のスパイラルがどんどん落ちて行くように...。多分、無意識のうちにそうなって行ったんでしょうね。私はバードの言動や行動についてあまり言いたくないんですが、何かプリーの死の事が彼の頭の中にあった様な気がします。ドラッグやお酒とか、バードがやってた全部がプリーには毒だったかもしれないって。
それからベアードは生まれた時から、セリアック病(註13)を患っていた様です。バードは2人の欠陥のある子供を作ってしまった。

註13:セリアック病:(celiac disease)は小麦、大麦等に含まれるタンパク質の一種であるグルテンに対する免疫反応が引き金になって起きる自己免疫疾患。

母はバードをパリに連れて行こうとしました。ニューヨークの外に連れ出したかったのです。どうしてだか解りませんが。結局、パリには行きませんでした。私達はニューヨークからペンシルヴァニア州のニューホープに引っ越しました。バードはそこにたまにやって来ました。(註14)

註14:1954年、バードが亡くなる前にチャン、キム、ベアードはペンシルヴァニア州、ニューホープに移る。その少し後にランバーヴィルに移る。

母とバードは大喧嘩したに違いない、と思っています。母が私達とペンシルヴァニア州のランバーヴィルに引越したからです。彼はそこが何処かすら解っていませんでした。
私達はバードが亡くなった事を知らされた時、そこにいました。
母はトレントンのクロークルームで働いていました。祖母はベアードと私と一緒にいました。祖母は母に電話をしませんでした。家で何かあったんじゃないかと、母に心配させたくなかったんでしょう。それは賢明な判断でした。
私は『死』というものが全く解っていませんでした。私は翌朝学校に行きました。祖母が私を迎えに来て、私達はニューヨークに行きました。私はお葬式には行きませんでした。プリーのお葬式にも行きませんでした。母や祖母は私を世間にさらしたくなかったんでしょう。

バードの死後、母は世間から疎外されました。彼女はひどく悲しく孤独でした。
(キム、大きなため息)
みんな、何もかも取って行ってしまった。お葬式もバードの遺体も何もかも...結婚証明書すらなかった。その時、バードはすでに重婚者でしたから。バードと母は結婚していなかったんです。でも彼女には『正真正銘のバードの子供』が2人いた。
それは1955年3月の事でした。

1955年の8月、私達はランバーヴィルに住んでたのですが、ハリケーンで大洪水がありました。そこには昔、大きな水車小屋があったんですよ。天井まで6mはありました。そこは中央にオープンスペースが広く取られていて、階段で上に上がって行くとリビングルームを見渡せる様なつくりになっていました。そこで私達は暮らしていました。
おかしな事に、私と夫は1978年に、その昔住んでいた同じ家に引っ越したんですよ。そこは昔と同じ洪水の匂いがしました。
洪水は屋根裏部屋まで来ました。ありとあらゆる物が泥だらけになり、私達はすべてを失ってしまったのよ。ベアードと私は小さな寝室の同じベッドで寝ていました。私は気分が悪くなって、母の寝室に移りました。暑い夏で屋根裏部屋だったわ。
母はボートを漕いで、彼女がしまっておいたバードのサックスや書き記された想い出の品々を取りに戻りました。彼女はバードに関する物をすべて取っておいたのです。彼女は自分でボートを漕ぎ、電線がたれ落ちてきて、誰も近づけないような所まで行きました。母は懐中電灯を持ち、一晩中バードの遺品を探していました。

バードの財産や著作権などはきちんと管理されていないんですね。
バードは遺書を作ったけど、タクシーの中に置き忘れて来ちゃったのよ。(笑)

私は、クリスティーズのオークションで売りに出されたバードのグラフトンのサックスが、アメリカン・ジャズ・ミュージアムでディスプレイされているのを見ました。
私は母に「お母さん、このサックスを天国には持って行けないのよ。私達にはお金がないのよ。どうして何かちょっとだけバードの遺品を売って、残りの人生を少しでも楽にしようとしないの?」って。最終的に私は母を納得させました。全部私がやり、母の了解を取りました。私はすべてをやり遂げたと思いますが、私自身の未来の事は何も考えていませんでした。私は、バードの多くの遺品を手元に置いておく事が出来たかもしれませんが、売ってしまいました。(註15)
その後、母は5年生きました。私は1995年にペンシルヴァニアに帰りました。私が彼女を肉体的に5年生かしたと思っています。あの頃、母の背中はもうボロボロでした。彼女がどうしてあんな状態で何も治療しなかったのか理解できません。今は私の背中がボロボロですが。(笑)
彼女はより豊かな人生を送れたと思います。私はまだバードの遺品の荷ほどきしていない物をいくつか持っています。バードの名前が書いてあるバードが出した封筒とか、多くの印税計算書も見つけました。どの位の金額がミュージシャン達に支払われていたとか、社会保障番号とか、そんな感じもものがいくつかあります。

註15:1994年、ロンドンの『クリスティーズ』のオークションでバードのグラフトンのサックスは93.500ポンド(約1400万円)で落札され、現在カンザス・シティのアメリカン・ジャズ・ミュージアムに展示されている。

 

これはとてもつらい話なのですが、母はベアードを合法的にバードの相続人にさせる事に、闘って、闘って、闘い抜きました。彼女はいかさま弁護士を雇ってしまったんで、相続のことがきちんとできなかったのです。この事は未だ終わってないのですよ。
でも多くの人達は、私がバードのお金や何かを持っていてリッチだと思っているわ。母は1セントももらえなかったんですよ。

バードについての専門研究者は山程います。バードに関して、最大の誤まった認識は何だと思いますか?
まあ、大変な質問!バードは完全にカメレオンだったのよ。彼は彼が望む様になれました。彼は嘘をつき、それをもっともらしく人に信用させる事が出来たのよ。バードは有名人で普通の人じゃなかったから、何でもやってのけたわ。
誤解するもなにもないわ、バードは何でもぶちこわす問題児だったのよ!
彼は仕事がもう終わりそうな頃、遅れてやって来ました。次の日同じ仕事がありバードは来たけれど、彼の姿は何処にもなかった。ステージの下で眠ってたのよ。だから、その日は仕事にありつけた。(一同笑)彼は自分のやりたい様にやった。彼は本当におかしかった、おかしな男!

彼は一瞬を生きましたね。
彼は長生きしようなんてしてませんでした。勿論、こんな事は私が大人になってから感じる事ですが、彼は超新星でした。彼は空の上をピシューッ!ってすっ飛んで行った感じね。フラッシュの様に敏速に抜けて行ったようだわ。
バードは超人的で、スーパースターであり、超有名人でした。
同時に、彼はマイホーム主義の人でした。彼は子供達を愛し私の母を愛しました。これは誰も見なかった側面でしょう。 彼は世間と家庭とを切り離していましたから。

あなたの家族とバードとの想い出や経験はとても魅力的な話ですよ。
そうね。
祖母はね...彼女は素晴らしかったわ。本当に偏見のない人だったわ。キャブ・キャロウェイなんかがよく家に来ていました。彼女はコットン・クラブで働いていたし。
彼女はショウビジネスの世界にいた事があり、その生活がどんなものか良く知っていました。だから、母とバードを常にサポートしていました。バードは祖母の事が大好きでした。ある時、誰かが彼女に「バードとあなたがどんなだったか話して下さい。」て、聞いたの。祖母は「そうね〜、彼は私のミートローフが好きじゃなかったわ!」って。
(一同笑)

もう本当に私しか話せないわね...。みんないなくなってしまったもの。私には素晴らしい想い出が沢山あるわ。

♪カンザス・シティのバード

お祖母さんの事を何度か話してくれましたが、あなたとアディ(バードの母親)との関係はどうだったんでしょう?
私はアディを知りません。バードが死んだ時、母がアディに連絡を取ろうとしていた事は知っています。私はアディからの手紙を持っていますから。彼女は“B”が(みんなベアードを“Boy”と呼んでいました)彼が元気かどうか聞いていました。
彼女はカンザス・シティの外に引っ越した事、そこは何もする事がない所だという様な事を言っていました。母もアディもお互いに距離を置いてつき合うのがベストだと思ったのでしょう。

バードはこのカンザス・シティで生れ育ちました。あなたは子供〜青年時代の若いバードについて何か想像しますか?
そうね。私はチャック・ヘディックスの書いた本がとても好きです。アディが働きに行き、夜遅く帰って来た時の事なんか。私が5歳の時ニューヨークを歩き回っていたのと同じです。通りを走り回り、お母さんが家に帰って来ると眠ってるふりをする。それがとってもバードらしくておかしいわ!彼はいたずらっ子だったのね。彼の目の中には悪魔がいた様な感じなの、解るかしら?
ティーンエイジャーなのに、夜そのあたりを遊び回って家に帰って来る。そんな彼を想像するととっても楽しくなるわ!

彼がカンザス・シティで住んでいたワイアンドット3527のアパートには去年行きました。素晴らしく美しく改装されていました。私はあの日の午後、ずっとそこで過ごしました。そこでラジオのインタビューを受けました。全然動きたくなかったの。バードがいた所にいるって、本当に素晴らしかったわ。本当に美しく、かけがえのない体験でした。カンザス・シティは私をそんな気持にさせてくれるんです。どこへ行っても、すべて私が行く所すべてで!

昨年、バードのお誕生日のお墓でのセレモニーの後、ブルース・ワトキンス・センターでレセプションがありました。そこでスピーチする様に頼まれました。私が話を始め、こう言ったんです。「バードが私を娘に選んでくれて光栄に思う。」って。その時、もう言葉が出て来ませんでした。私は泣き出してしまったんです。(笑)
その後、大きなテーブルが2つあり、皆で囲んで食べたり飲んだりしました。私はテーブルの周りにいる皆を知っていました。もう一つのテーブルには、私の知らない年配の男性達が座っていました。私はそっちのテーブルに行って座り、彼らと話をしました。私は何か話す様に頼まれ、話し始めたらまた泣き出してしまったの。ある1人の男性が「私はあなたに夢中になってしまった!」って言うんですよ。私は「あなたが私に夢中?どうして?」。彼は「だって、あなたが私を泣かせるから。」それから私達はハグし合い、一緒に泣き始めてしまいました。素晴らしかったわ!まるでシンフォニーのようだったわ!

こんな話があります。チャーリー・パーカーはカンザス・シティが好きではなかった。そしてカンザス・シティはチャーリー・パーカーを好きではなかったと。何処からこんな話が来たと思いますか?
全く解りません。私の知っている事すべては、バードが母に『カンザス・シティにつれて帰らないでくれ。』と言っていたことです。何か悪い体験があったんじゃなでしょうか?仕事でここに来て、何か嫌な事でもあったんじゃないかしら?私は、本当に何も知らないんです。

バードは多くの時間を、ここカンザス・シティで過ごしました。プリーが生まれたすぐ後,カンザス・シティでお金を工面するため立ち寄り、そのお金をチャンに送った電報が残っています。演奏しにも、お母さんのアディにも良く会いにこの街に帰って来ていました。
おかしな話ね。それは皆が知りたがってる話だと思います。もし私が知っていたら話せますけどね。私はバードがプリーの隣に埋葬されたかったんだと思います。彼らはそんな計画を持っていた様ですよ。

あなたは、チャーリー・パーカーの事を、彼の娘として、また1人のジャズシンガーとして、どうやって次の世代に語り継いで行こうと思いますか?
ジャズに興味のない人達に話をしていくのは難しいわね。そんな人達に話すのはもの凄く骨の折れる仕事ですもの。
「ジャズにはインプロヴィゼーション(即興)がある事を理解なさい。
もしチャーリー・パーカーのアップテンポのソロを聴いたら、彼のハートや頭の中から彼の口や指を通して出て来るものすべてを、瞬時に理解できるでしょう。演奏のスピードなんて計算できないでしょ。音楽を理解するには、理屈ではなくもっと身体で感じる事が大事なのです。
ジャズは、コードがあるだけです。コードの組み立てが、インプロヴィゼーションによって増幅されたり強調されたりしているだけです。 そうやって聴いてごらんなさい。バードのインプロヴィゼーションが、どんなに驚くべき事か理解できるでしょう。」
ジャズにはメロディが無いとか、ワイルドだから好きじゃない、という人達にはこう言います。これが人々にアプローチするただ一つの方法だと思うわ。

私はずっと、今の私のままでいたいわ。私は1人で暮らしています。それが大好きなの!お腹が減ったら食べるし、疲れたら眠るわ。テレビは自分でリモコンを使ってつけるわ。別に他の人達に相談する事も必要もないしね。そんな生活が好きなのよ。そんな事が私を元気にします。私にはプライバシーが必要です。
私はとても社交的な人間ですが、庭に出て雑草をむしったり、そんな時間が大好きなのよ。(笑)

(2015年8月27日、オレイサ、カンザス州、ヴァーン・クリステンセン宅にて)


♪インタビューを終えて

夏の雨上がりのとても気持のいい朝だった。
キムは淡いブルーのカジュアルなロングドレスで現れ、和やかに私達を歓迎してくれた。明るいダイニングでコーヒーを飲み、しばらく談笑した。

2時間のインタビューはあっという間に終わった。キムは一つ質問をすると5つ位の返事をしてくれた。話をするのがとても上手な人だ。極めてプライベートな質問にも全く嫌な顔せず、快く色んな事を話してくれた。が、バードとチャンの最初の娘のプリーが死んだ時の事に話が及んだ時は、さすがに話すのがつらそうだった。思わず泣き出し、インタビュー側の私達全員ももらい泣きしてしまった。インタビュー終了後、皆で『とても楽しかった!グループ・セラピーみたいだったね!』と大笑いした。キムは、悲しくて涙が出たのではなく、さまざまな記憶がドッと甦って来て思わずエモーショナルになり、涙が止まらなくなったのだそうだ。

キムは非常に繊細で神経の細やかな人だ。また、見事な記憶力と想像力を持つ。質問に出来るだけきちんと答えようと四苦八苦してくれた。が、キム自身がバードと過ごしたのは彼女が4才半から約5年程であるため、話の年代が前後したり曖昧な点が出て来る事は否めない。インタビューの中で、キムが話している母親チャン・パーカーの書いた膨大な日記と自伝『My Life in E-Flat』が、彼女の幼少の頃の記憶を呼び起こすものとして大きな役割を持っているようだ。
チャン・パーカーの日記はファイロファックス程の大きさの日記帳に、びっしりと美しい字で書かれていた。その分厚い日記を見せてくれ、一部公開しても良いと言ってくれた。

また、自分が子供の頃の写真を何枚か見せてくれた。彼女はもの凄く可愛くて賢そうな女の子だった。勿論、今も変らず、とてもチャーミングで魅力的な女性だが。その可愛く賢い女の子が、大人ばかりの極めてアブノーマルな環境で育った。バードとの生活の中での異常とも思える事も、彼女の口からいくつか出て来た。
しかし、キムと過ごしたバードは、穏やかで、妻と子供達を愛し家庭を大事にする『優しく良きお父さん』だったようだ。それを語る時のキムは本当に嬉しそうだった。
バードがどれ程子供達を愛していたかは、バードが『キム(Kim)』『レアード・ベアード(Laird Baird)』と言う曲を彼らに捧げている事からも明らかだろう。
後日キムは、「どうしてインタビューを受けるかと言うと、私はバードの事を本当に愛していたから。彼についてあまりに嘘と間違った事が蔓延しているのよ。私はそれを正して本当の事を出来るだけ伝えたいからなの。」というメールをくれた。

キムは、音楽の教育は特別に受けていない。生まれた時から音楽に囲まれていたその環境が彼女を自然にシンガーにした、と言う。バードと一緒に住んでいた時、彼らの家にはフランク・シナトラ、メル・トーメ、ナット・キング・コールなどのレコードが沢山あり、そんな歌にとても影響を受けた。特にバードやチャンとの友人でもあったランバート・ヘンドリックス・ロスはキムのお気に入りだった。彼女は10才か11才の時に<Song a Song of Basie>の全パートを1週間で覚えた。
スイスのハイスクールに入った頃から人前で唄い出した。その後アメリカに帰国し、ハイスクール、大学で学びながら、ジャズシンガーの活動をしていたそうだ。その時のバンドのメンバーは3番目の父であるフィル・ウッズ、ゲイリー・バートン、スティーヴ・スワロウ、クリス・スワンセン。
1967年に結婚後、暫くはメイン州の田舎の電気も水道もない様な所で、夫と一緒に農業をやっていた。メイン州からペンシルヴァニアに戻って来た頃、また唄い始めようかな、と思ったそうだ。家にピアノがあったので独学でピアノを練習した。
息子のアレクザンダーが生まれた時、チャン・パーカーがフランスからアメリカに一時帰国していた。キムはチャンのヴォーカル・グループに入った。キムによると、彼女の公式デビューは、1979年、ペンシルヴァニアでの『2nd Annual Celebration of the Art Festival in Delaware Water Gap』という催しで、チャンのグループで唄った事だそうだ。その時、彼女は『パーカー』と言う名を使いたくなくて『キム・イベコ』と名乗り、皆に日本人かと思われたらしい。彼女が2枚目のアルバム『The Language of Blue』をリリースした時に初めて『キム・パーカー』と言う名を使った。
キムの離婚後、母親のチャンは彼女のネットワークを使い、キムをヨーロッパで活動できる様に手配した。キムは今までにイタリーのミラノやスウェーデンのレーベルでアルバムを数枚リリースしている。共演ミュージシャン達は、ケニー・ドリュー、マッド・ヴィンディング、エド・シグペン、マル・ウォルドロン、トミー・フラナガン等、錚々たる顔ぶれだ。
彼女のどのCDを聴いても、そのミュージシャン達をバックに気負う事なく、素晴らしいリズム感でスイングし歌い上げている。
最近のキムは「年齢と共に声の音域が狭くなって来けれど、歌のレパートリーは増えて、ソウルはグンと深くなったし、昔よりずっと良いシンガーだわよ!」と言っていた。
キム・パーカーは、 11才にして3人もの父親を持ち、しかもその2人はジャズ界の歴史に残る大天才、巨匠なのだ。 チャーリー・パーカーもフィル・ウッズも、キムの最高の先生達で、最高な音楽環境にいた事は間違いない。

「私にとって音楽は、『愛』を形作るもの。私の歌はあなた方のハートにきちんと届かなきゃならないのよ。今、世の中はそんな愛に溢れた音楽がもっともっと必要なのよ。」と言う。
現在、シンガー、キム・パーカーは、4月2日のクラブでのショウで唄う曲の選曲に頭を悩ませているところである。(2016年1月25日記)

*参考文献
Chan Parker 著:『My Life in E-Flat』University of Sounth Carolina Press, 1993
Chuck Haddix 著:『bird: the Life and Music of Chalie Parker』University of Illinois Press, 2013

*関連リンク
2015年チャーリー・パーカー・セレブレーション
http://www.archive.jazztokyo.org/column/takemura/part044.html

キム・パーカー <My Funny Valentine>1986 in Swizerland
https://www.youtube.com/watch?v=YzSDPLyPpfI

アヴェニュー B アパートメント
http://www.6sqft.com/historic-charlie-parker-townhouse-in-alphabet-city-hits-the-market-for-9m/

*写真の無断転載はきつくお断りします。


*編集部註

カンザスシティのJAM Magazineに当記事の英文ダイジェスト版が掲載されました。下記のサイトからPDFでプリントできます。

An Interview with Charlie Parker’s Daughter

The Kansas City Jazz Ambassadors, Inc.のサイトにも当記事の全文が英語バージョンで転載されました。

Parker Interview

竹村洋子

竹村 洋子 Yoko Takemura 桑沢デザイン専修学校卒業後、ファッション・マーケティングの仕事に携わる。1996年より、NY、シカゴ、デトロイト、カンザス・シティを中心にアメリカのローカル・ジャズミュージシャン達と交流を深め、現在に至る。主として ミュージシャン間のコーディネーション、プロモーションを行う。Kansas City Jazz Ambassador 会員。KAWADE夢ムック『チャーリー・パーカー~モダン・ジャズの創造主』(2014)に寄稿。Kansas City Jazz Ambassador 誌『JAM』に2016年から不定期に寄稿。

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