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Jazz and Far Beyond

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Interviews~No. 201

#88 アーリル・アンダーシェン(アリルド・アンデルセン)

2010年9月6日
@銀座日航ホテル
interviewed by Kenny Inaoka/稲岡邦弥
photo:collection of Arild Andersen/Inaoka(*)

アーリル・アンダーシェン
1945年10月27日、ノルウェー生まれ。
1967年から6年間ヤン・ガルバレク・カルテット(テリエ・リプダルg、ヨン・クリステンセンds)で演奏。この間、オスロに在住したドン・チェリーtpとジョージ・ラッセルpに師事、大きな影響を受ける。72年から74年にかけてNYに武者修行に出かけ、サム・リヴァースtsやポール・ブレイpと共演、腕を磨く。帰国後の1974年、自身のバンド「マスカレロ」を結成、ECMに3作を残す。カーリン・クログやラドカ・トネフなどノルウェーのヴォーカリストとの共演も多く、アルバムも残されている。80年代後期からはノルウェーの伝統的なフォーク・ミュージックと即興演奏の融合を試み、フォーク・シンガー界の第一人者クリステン・ブラーテン・ベルクと組み、その成果を『サグン』(ECM)として発表。2004年にはアテネ・オリンピック委員会から委嘱を受け、ソフォクレスの「エレクトラ」に基づく音楽劇を作品化、公演を行うとともにECMに同名のアルバムを残した。

♪ 40数年のキャリアで初めての来日...

Q:今年は屋台村でのショーケースでしたが、来年ホールに招かれたとしたらどういうバンドで来たいですか?

AA:同じトリオだね。来年も続いていたらだが(笑い)。今は、このトリオがとても気に入っている。

Q:40数年のキャリアで初めての来日でしたからね。

AA:そうさ。政府は、あなたはもうエスタブリッシュされたミュージシャンだからわれわれのサポートがなくても独自にツアーできるでしょう、若いミュージシャンにチャンスを与えてはどうか、というんだ。それは違う。キース・ジャレットやチック・コリアは別として、ジャズを演奏している限りそれほど余裕のある生活はできない。僕は40年以上ジャズを演奏してきたけれど、一度も日本に出掛けてくるチャンスがなかった。若いミュージシャンもずいぶん育てた。ECMにも新しいミュージシャンをいろいろ紹介した。ノルウェーに限らずね。そんな話をして僕の立場を理解してもらったんだ。

Q:そうだったのですか。僕は73年から10年間トリオレコードでECMのレーベル・マネジャーを務めていました。あなたも参加している『SART』(ECM1015)と『TERJE RYPDAL』(ECM1016)がマンフレートと契約した最初の4作のうちの2枚でした。それ以来初めてですからね、あなたのナマを聴くのは。すでに40年以上が経過しています。一昨日、代官山のクラブで最初の一音を聴いたときはさすがに胸にこみ上げてくるものがありました。

AA:日本のファンが僕らを食い入るように見つめ、必死で耳を傾けて聴いてくれているのがステージからもよく分かった。他の国では経験したことがない感動的な光景だった。だからメンバーを集めて何度もお礼の挨拶をしたんだ。あれは社交辞令ではなかったんだよ。

Q:「東京JAZZ」への来日直前にクラブ出演が決まって、しかも昼1時スタートの“ジャズ”でしたけどね。マティアス(アイク)の場合は、朝11時からのスタートだった。成田から直行でね。レコードを持って県外から駆けつけたファンもいましたよ。

AA:僕も何人かにサインしたよ。ECMの初期のレコードを持ってきたファンがいたね。

Q:ところで、来年、仮に「ビッグ・フォー」(ヤン・ガルバレク、テリエ・リプダル、アリルド・アンデルセン、ヨン・クリステンセン)で声がかかったらどうしますか。

AA:う~ん。僕とタリエはすぐにでも駆けつける。ヨンはアキレス腱を痛めてバスドラを自由に踏めなくなっているんだ。でも喜んで参加するだろう。問題はヤン・ガルバレクだ。何年か前にマンフレートからこのカルテットで録音したいって声がかかったんだ。だけど、ヤンが「もう、70年代には戻りたくない」って断ってきた。だから、このカルテットでの公演の可能性は少ないと思うね。

Q:Terjeは「タリエ」と発音するのですか。

AA:そうだよ「タリエ・リプダル」。

Q:日本では、40年以上「テリエ」と表記されてきました。あなたは「アリルド・アンデルセン」。今回、「東京ジャズ」から「アーリル・アンダーシェン」と発表されて驚き、慌てました。「テリエ」も「アリルド・アンデルセン」もマンフレートから教えてもらったのですが。

AA:彼もドイツ人だからね、仕方がない。

Q:“ジャズ”はアメリカ発なので英語的に発音する場合が多いですね。

♪ 3本指でベースを弾く

Q:右手の3本指の巧みな使い方に驚いたのですが。いつから3本指で演奏するようになりましたか。

AA:3本指を使うベーシストを初めて目の当たりにしたのはセシル・マクビーだった。1967年だったかな、チャールズ・ロイドのカルテットで北欧に来たときのことだ。とにかく驚いた。セシルは主にアルペジオに使ってたんだ。それから速いパッセージを弾く時。次に見たのは、オスカー・ピーターソンと来たニルス・エルステッド・ペデルセン。彼は3連符を3本指で弾いていた。3連符の場合は3つの音ですからアタマがいつも人差し指になるのですが、8分音符で4拍を弾く場合アタマの音を弾く指が1本ずつずれて行く。これが難しい。つまり、3本の指を均等な力で使わないといけない。とくに薬指は日常ではあまり使わない指だからこれを鍛えるのにいちばん時間がかかった。いまではもちろん3本の指をどの指と意識せずに自由に等しく使えるけどね。

Q:ピアニストでも同じ悩みがあるようですね。リッチー・バイラークは薬指と小指の力を付けるために鋼鉄製の重い指輪をはめて指を動かす運動をした、と言ってました。最近でも薬指にはゴツいメタルのリングに大きな石をはめた指輪をしていました。

AA:僕の場合、2本指に戻ったときがあったんだ。リズミックなスタンダードを演奏する機会が多いときね。それから何年かしてオープンなリズムの演奏に戻ったときは3本指が必要になってね。しばらく鍛え直す期間が必要だったけど。若いベーシストには無理して3本指を真似ずに、2本指で行くことを薦めているんだ。ミンガスなんか1本指だったからね。

♪ ドン・チェリーとジョージ・ラッセル

Q:ドン・チェリーとジョージ・ラッセルとの関わりについてそれぞれ聞きたいのですが。

AA:ふたりからは計り知れないほど影響を受けている。とくに、ドン・チェリーにはミュージシャンとしてだけではなく、人間として学ぶところが多かった。ドンと最初にあったのは、1968年11月のベルリンのジャズ・フェスティバル「ベルリン・ジャズターゲ」だった。このとき演奏したオーケストラの演奏はレコードになっている。

Q:例の『エターナル・リズム』(『永遠のリズム』独MPS)ですね。僕自身、大好きなアルバムの1枚です。

AA:ドンの思想を音楽で表した内容だった。フェスティバルで演奏したときはファラオ・サンダースtsも参加していたんだ。他に、ソニー・シャーロックg、カール・ベルガーvib、ヨアヒム・キューンpなどがいた。僕がバンドのメンバーではいちばん若かった。23才で凄い体験をしたんだ。それからドンはオスロに来た。
註:『永遠のリズム』の詳細については下記を参照;
http://www.jazztokyo.com/mb/free_music/v25/v25.html

Q:オスロにはしばらく滞在していたのですか。

AA:そう。その頃までに僕らはオスロでカルテットを組んでいたんだ。リプダル、ガルバレク、クリステンセンとね。それから2管を加えてセクステットを組んだ。スタントン・デイヴィスtp、とトロンボーンが加わって。このバンドでツアーをしたんだ。ケルンから始まってイタリーまでね。ケルンのコンサートにマンフレート(アイヒャー)が来たんだ。コンサートが終わって楽屋に来た。そして、ガルバレクに向かって「僕は新しいレコード会社を作ったんだ。このノルウェーのカルテットでレコードを作ろう」って。そして、彼がオスロに来て作ったのが『アフリック・ペッパーバード』(ECM1007)さ。1970年9月のことだった。それから、マンフレートに頼まれてロビン・ケニヤッタの録音に参加した。このときのピアノはヴォルフガング・ダウナーで彼はマンフレートが連れてきた。

Q:『ガール・フロム・マルティニーク』(ECM1008)ですね。

AA:それから、僕がボボ・ステンソンpをマンフレートに紹介したんだ。僕とボボとヨン・クリステンセンが加わってスタン・ゲッツtsのバンドで南アフリカまでツアーした。5週間の長いツアーだった。帰国してマンフレートに薦めてトリオでレコーディングした。当時はエレクトリック・ベースを弾いていた事もあった。

Q:ボボ・ステンソンの『アンダーウェア』(ECM1012)のトリオは、スタン・ゲッツのツアー・バンドだったんですね。

AA:そう。

Q:ジョージ・ラッセルについてはどうですか。彼が組んだバンドでも演奏していましたね。

AA:ジョージ・ラッセルは理論家だった。彼がオスロに住んでいる間、毎日のように彼の自宅に行っていろいろ話を聞いた。後にリディアン・クロマチックについて書物を著すんだが(註:『GEORGE RUSSELL’S LYDIAN CHROMATIC CONCEPT OF TONAL ORGANIZATION』)、僕が学んだのは極論すると伝統的なコードに捕われるな、ということだった。オープンに行けということ。

Q:最近の演奏はまたオープンになっていますよね。昨日のトリオの演奏もオープンでした。

AA:ピアノがいないしね。自由にやれる。ジョージ・ラッセルのバンドというのは、セクステットで、ジョージのピアノとスタントン・デイヴィスが加わった。1970年3月にスウェーデンでライヴ録音した。このときは、ジョージとヤンの作品を演奏した。(註:『George Russell Sextet feat. Jan Garbarek/Trip To Prillarguri』Soul Note)

♪ ラドカ・トネフの想い出

Q:歌手のラドカ・トネフ(1952年6月25日~1982年10月21日)との関わりについて聞きたいのですが。

AA:ウフフ。

Q:彼女のアルバムで共演していますし、アルバムのプロデュースも担当していますね。

AA:ラドカのことを知っているのかい。

Q:もちろんですよ。日本では“伝説の歌手”として良く知られています。

AA:そうか。僕たちは生活を共にしていたんだ。
彼女に最初に会ったのは1974年か1975年の初めのことだった。彼女の声は独特で、素晴らしかった。あるとき、ヨン・バルケの家で僕のカルテットで練習をしていたときだった。部屋の外から「コーヒーは如何?」という声が聞こえたんだ。不思議な声でね。まるでマイルス・デイヴィスがミュート・トランペットを吹いているような感じだった。

Q:なるほど。

AA:コーヒーを持って現れたのは、何と若い女性だったんだ。僕はとにかく彼女の声の素晴らしさに魅了されてね、練習に誘って、しばらくして一緒に暮らすようになった。そして、突然自殺したんだ。どうしてそうなったのかは分からない。感情の起伏の激しい人だった。とてもはしゃいでいたと思ったら突然落ち込んだりね。雪の降る寒い夜だった。彼女が30才の時だった。それ以来、僕は毎年クリスマス・イヴになると彼女の墓を訪ね、花を手向けている。去年も出掛けたし、もちろん今年も行く。とにかく彼女は特別な存在だった。素晴らしい才能に恵まれていてね。繊細過ぎたんだ。いまでもノルウェーではとても人気がある。僕らはノルウェーを出て、一時ドイツで暮らしていたこともあるんだ。だから彼女はドイツでも人気がある。

Q:なんだかジャニス・ジョプリンを思い出しますね。ラドカは日本でも人気がありますよ。

AA:えっ!本当かい?それは素晴らしい。とにかく彼女は僕の心の中ではずっと生き続けている存在だ。

Q:レコードで共演したのは?

AA:3回だ。それから、彼女とスティーヴ・ドブロゴスとのデュオを僕がプロデュースした。(註:『フェアリーテイルズ』Curling Legs/1986年)このレコーディングはノルウェーでの最初のデジタル録音だった。2トラックだったけどね。大きなホールで録音したんだが、とても話題になってオーディオ・マガジンでも盛んに取り上げられた。それから昔のライヴ・レコーディングがリリースされるようになった。1977年のハンブルグでのコンサートだ。ラジオで放送した録音が残っていた。全部で5枚だね。ライヴの録音はまだ残っているけど。

Q:僕がよく聞くのは『ウインター・ポエム』ですが。

AA:それは最初のレコーディングだ。1977年の録音でね。ヨン・クリステンセンdsやラース・ヤンソンpの他にストリングスも加わっている。これは僕がプロデュースし、ミックスも監修した。
(続く)

*初出:JazzTokyo 2010.9.30

稲岡邦彌

稲岡邦彌 Kenny Inaoka 兵庫県伊丹市生まれ。1967年早大政経卒。2004年創刊以来Jazz Tokyo編集長。音楽プロデューサーとして「Nadja 21」レーベル主宰。著書に『新版 ECMの真実』(カンパニー社)、編著に『増補改訂版 ECM catalog』(東京キララ社)『及川公生のサウンド・レシピ』(ユニコム)、共著に『ジャズCDの名盤』(文春新書)。2021年度「日本ジャズ音楽協会」会長賞受賞。

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