ニューヨーク:変容する「ジャズ」のいま 第19回 ビリー・ミンツ・カルテット at Balboa
ビリー・ミンツほどクールなミュージシャンは、探そうとしてもなかなか見つかるものではない。トレードマークの帽子とサングランスを着けて寡黙に佇む様子はもちろんそれだけでクールなのだが、彼の本当の魅力を一言で表現するとしたら、「詩的」であることに他ならない。良いアーティストというものは普段の振る舞いや口にする言葉から「詩」を連想させるものだと私は思う。だが、俗物的な成功や社会への関係性などを通して精神的充足を希求しているうちに、自分の中にある「詩」を失ってしまうという矛盾にアーティストが陥ることは珍しいことではない。ビリーの佇まいは「詩」に溢れている。ある種の抑制とともに彼の中に存在しているのは、こんこんと流れ続けて循環する純粋な水のような、何かだ。口では多くを語らない彼の叩くドラムは、時に驚くほど繊細で、時に驚くほど饒舌である。
ニューヨーク州クイーンズ生まれのビリーは70年代から精力的に活動し、リー・コニッツやハロルド・ダンコ、アラン・ブロドベント、チャールス・ロイドなどとのレコーディングやツアーを重ねてきた。スタンダードも美しく聞かせる奏者でありながら、フリーでも自由自在に演奏を展開する。ビリー・ミンツというドラマーには、ミュージシャンのためのミュージシャンという形容詞が似合うと思う。万人に知られる華やかな経歴や名声のようなものはないかもしれないが、一旦ビリーのドラムの虜になると人々はその魅力に取り憑かれてしまう。ニューヨークのミュージシャンにビリー・ミンツという名前を出すと、彼の事を知る者達は揃って溜息がちに彼を賞賛する。ビリーの周りにはいつも音楽があり、味わい深い風が吹いている。
Balboaは、ブルックリン地区にあるカリブ料理のカジュアルな食堂だ。Balboaの前の通りを挟んだ向かい側には、かつてブルックリン・ドジャースのスタジアムがあった跡地(現在は低所得者用の団地になっている)と、60年代に暗殺された公民権活動家メドガー・エヴァースという人物の名前のついた市立大学の小さなキャンパスが広がっている。Balboaはこの店の店主でありシェフであるカリブ系の男性の名前だ。ここで毎週水曜日に開かれるライブシリーズは、今年の8月頃に突如として始まった。それ以前は、この店の前を通る度に、ほとんど客がいない割にやけに広い店内を覗いては私は不安になっていたのだが、当の店主はそんなことはあまり気にしていないようで淡々と店を切り盛りしている様だった。このシリーズ、「A. E. Randolph Presents」は、アンダーグラウンドからかなり名の知れたミュージシャンまで様々なニューヨークの演奏家を呼んでライブを開催している。そのほとんどが即興を主体とした演奏なのだが、即興音楽なんて聞くことのない普通の人々も訪れるこの店でそんなライブシリーズが開かれているのはいかにもニューヨークらしいと私は思う。
ビリー・ミンツ・カルテットの演奏は、何の前置きもなく唐突に始まった。有機的で細やかな速めのスイングを、ビリーが叩き出すと、トニー・マラビーがソプラノを取り出して吹き始める。譜面台にチラっと見えたビリー手書きの楽譜には大きく音符やコードが書き込まれ、何かのアートワークの様にも見える。ベースのヒリアード・グリーンは体を横に大きく揺らしながら徐々に音楽に入り込んでいく。ピアニスト、ロベルタ・ピケットの奏でる不協和音のリズムには否応なくモンクの影が見えた。数曲目に入ると、濃密で緊張感のあるスイングフィールと重厚な音の重なりに会場は包まれ、私はジョン・コルトレーンのカルテットの音を思い出さずにはいられなかった。そんな激しい音の潮流の中でも、名手トニー・マラビーは次に出す音を決して急がない。激しいインタープレイがじきにフェードアウトし、ビリーのドラムソロが展開を引き継ぐ。「さらさら」とも「きらきら」とも聞こえるシンバルの音はビリー・ミンツの世界を象徴するもので、川底で太陽の光に反射し光る砂金を思わせる。そこにアブストラクトで柔軟なリズムが加わると、もうこれは誰にも真似することの出来ない、ビリー・ミンツにしか叩けないドラムの音となるのだ。
ビリーは私の短いインタビューにも答えてくれた。
蓮見令麻(以下H): ビリー、あなたのドラム演奏はとてもユニークなものです。特に「間」の使い方と音響的ディテールにはいつも感服させられます。繊細な演奏をあなたを難なくこなしているように見えますが、どのようにしてこの独特の奏法を習得したか教えてもらえますか?
ビリー・ミンツ(以下M): 僕の演奏にきちんと耳を傾けてくれてありがとう。そういうディテールに気づいてくれて嬉しいよ。その質問には、特別に何かひとつの答えはなくて、僕の経験してきた物事すべてが関係していると思う。
H: Balboaで聞いたあなたのバンドの音楽から、私はジョン・コルトレーン・カルテットの音を思い起こしました。具体的には、楽曲におけるいくつかの側面とバンドとしてのサウンドの重厚さがその理由だと思います。意識的または無意識的なレベルで、コルトレーン・カルテットからの影響を受けていますか?
M: コルトレーン・カルテットの音楽はすごく好きだ。あのバンドはマイナー・キーやモードを使った音楽を演奏した。それに加えて、バンドのそれぞれのメンバーの個性的な演奏が音楽をあそこまでのものに仕上げた。ビル・エヴァンスのスコット・ラファロとポール・モチアンとのトリオも素敵な音だった。Balboaで弾いた曲は確かにマイナー・キーやモードを使った曲だった。バンドメンバーも全体の音作りに一役買ってるよ。
H: 伝説のクラブ「Slugs」であなたが経験したことについて教えてもらえますか?
M: Slugsは小さなジャズクラブで、マンハッタンのロウアー・イーストサイドにあった。3丁目のアヴェニューCとアヴェニューDの間だったかな。70年代の当時、そのエリアはとても貧しい地区だった。関係ない話かもしれないけど、Slugsの数件先にあったフライドチキンとフライドシュリンプの店は最高に美味かったよ。Slugsに初めて行ったのは17か18の時で、僕はまだ両親と一緒にクイーンズの実家で暮らしていた。その日クラブに入ると、エリック・ドルフィーのバンドが演奏していた。また別の日には、ハンク・モブレーのバンドが演奏していて、ステージにはリチャード・ウィリアムス、セシル・マクビー、シダー・ウォルトンが立っていたが、ドラマーは居なかった。世間知らずだった僕はバンドの演奏中にステージの前に行って、モブレーに「やってもいいか?」と聞いたんだ。モブレーが戸惑っているうちに僕はそのままステージにあがってドラムを叩き始めた。何の曲だったかは覚えていない。曲が終わって僕はドラムから離れようとした。そうするとモブレーが僕の方に振り返って、「もう一曲やってくれないか?」と聞いたんだ。バンドは「All Blues」を演奏し始めた。曲が始まって数分後、ステージに向かって歩いてきたのはビリー・ヒギンスさ。僕はすぐにドラムスティックを彼に手渡したよ。モブレーは僕に礼を言ってくれた。あのクラブでは素晴らしい音楽を何度も聞いた。
H: あなたはニューヨークのクイーンズ地区出身ですが、長い間カリフォルニアに住んでいましたね。当時のニューヨークやカリフォルニアのシーンはどんなものでしたか?全く違う二つの土地に住んだことは、あなたの音楽にどんな影響を与えましたか?
M: 僕は50年代、60年代にかけてクイーンズで少年時代を過ごした。色んな音楽を聞いたし、色んな音楽を演奏したよ。その当時は演奏の仕事はいくらでもあったんだ。70年代に入ると、マンハッタンに住み始めた。僕の一週間は大抵こんな感じだったよ。土日はクラブや結婚式、バーミツバ(ユダヤ教の成人式)で演奏、月曜の夜はVillage Vanguardに行ってサド・ジョーンズとメル・ルイスのバンドを聞きに行った。火曜は The Cryers というロックバンドとCBGBで演奏したり、Max’s Kansas Cityというカントリーバンドと演奏したりした。日中はリハーサルやジャムセッションや練習に明け暮れた。木曜は79丁目とアムステルダム街にあったStrykersというバーで毎週演奏したよ。エディー・ダニエルズのバンドで、リック・レアード、アンディ・ラヴァーンがメンバーだった。ロサンゼルスに引っ越したのは1981年、友人のマイク・ガーソンがきっかけだった。スタンリー・クラークのバンドで仕事をするために1978年にロスに移住していた彼が、ロスに沢山仕事があるから来ないかと僕を誘ってくれたんだ。それで結局20年もロスに住むことになった。数々の素晴らしいミュージシャンと仕事をすることが出来てとてもラッキーだったと思う。カリフォルニアではあらゆるものがスペースを置いて点在してるから、僕の演奏における「間」の取り方もそこから影響を受けたのかもしれないね。
H: 音楽における「伝統」と「アヴァンギャルド」をどう定義しますか?あなた自身はこのふたつのどちらかに当てはまると思いますか?
M: 僕はただ音楽を演奏するだけさ。
*写真提供:アリーニ・ミュラー
このシリーズでは、友人でもある素晴らしい写真家のアリーニに写真を担当してもらった。