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InterviewsNo. 287

Interview #240 ヤン・クラーレ Jan Klare(ザ・ドーフ指揮者/サックス奏者)

Interview by 剛田武 Takeshi Goda
by E-mail,  February 2022

ドイツ中西部のルール地方(ドルトムント~エッセン)を拠点に活動する25人編成のビッグバンド、ザ・ドーフとウムランド・レコードについてはJazzTokyoでもこれまで何度か取り上げてきた(⇒Review #1992 『The Dorf / Phill Niblock ‎- Baobab / Echoes』)。レギュラー・メンバーとして活動するサックス奏者フローリアン・ヴァルターによると、The Dorfとは村落、Umlandとは周辺エリアを意味するという。アメリカの前衛音楽家フィル・ニブロックのドローン・ミュージック作品を取り上げたり、ベートーヴェンの運命をデフォルメしたり、ユニークな活動を繰り広げるザ・ドーフと、ドイツの個性的なミュージシャンの作品をリリースするウムランド・レコードの設立者&指揮者であり、自身もサックス奏者であるヤン・クラーレ Jan Klareに話を聞いた。

http://www.janklare.de/
http://www.orf.thednet/


■おいたち

剛田武(以下TG):お生まれを教えてください。

Jan Klare(以下JK):1961年ドイツのホーエンリンブルク Hohenlimburgです。

TG:音楽演奏を始めたきっかけは?

JK:演奏はまず聴くことから始まります。私が最初に聴いたバンドは消防隊バンドでした。5歳の頃、他のことに飽きると祖母のピアノの鍵盤を叩くようになりました。11歳の時、短期間ピアノ・レッスンを受けました。14歳の時、最初のフルート・レッスンを受け、15歳の時教会の吹奏楽合唱隊で初めにトランペット、後にトロンボーンを担当しました。

TG:10代の頃はどんな音楽を聴いていましたか?

JK:初めて買ったレコードは、T・レックスの『ザ・スライダー』とベートーヴェンのピアノ・ソナタでした。
それからハード・ロックと初期のデヴィッド・ボウイ。その頃はクラウト・ロックの時代で、カン、アモン・デュール、キング・クリムゾンなどが人気だったので、普通のバンドの他にその手のバンドのコンサートに行ったり、レコードを買ったりしました。私が管楽器を習おうと思ったきっかけはシカゴです。

TG:サックスをはじめたのはいつ頃ですか?

JK:21歳の頃デュッセルドルフの学校で勉強していた時のルームメイトがブラジル音楽を得意とするギタリストで、彼が買ったサックスを借りて吹き始めました。

TG:音楽は音楽学校で学んだのですか?それとも独学ですか?

JK:音楽学校に入ったのは遅かったです。30歳になる頃でした。
それまでは、頭の中にある音楽を演奏しようと試行錯誤することと、時々いろんな楽器の教師のレッスンを受けることの両方をミックスしていました。

TG:即興音楽をやるようになったきっかけは?

JK:80年代末にロンドンに住んでいました。ルームメイトのディーン・ブロドリック Dean Brodrickという友人から大きな影響を受けたのですが、彼がエヴァン・パーカーとマーク・サンダースのコンサートに連れて行ってくれたのです。当時ディーンはLMC (ロンドン・ミュージシャンズ・コレクティブ*) に関わっていて、その縁で私は即興音楽への第一歩を踏み出したのです。デレク・ベイリー、ジョン・ブッチャーなど当時の英国シーンの偉大なミュージシャンをたくさん観ました。

1995年にオランダへ移りました。すぐにウィルベルト・デ・ヨーデ Wilbert de Joodeと知り合いました。彼とは今でも一緒にプレイしています。彼を通してICPオーケストラや関連メンバーと繋がり、オランダ・シーンに多大な影響を受けました。同じ頃に再びドイツとコンタクトするようになって、ヴッパータール Wuppertalシーンのミュージシャンと連絡を取り合うようになったのです。

*1975年にイギリス・ロンドンで設立された、現代音楽、実験音楽、即興音楽の支援と振興を目的とした文化チャリティー団体。

TG:あなたの演奏活動やバンド、コラボレーションなどの歴史を教えてください。

JK:余りにたくさんありすぎて、書き出すと3ページものリストになってしまいます(笑)。Bandcampを参照してください。

Umland Records https://umlandrecords.bandcamp.com/
Jan Klare    https://jakeplaymo.bandcamp.com/

TG:好きなミュージシャン、アーティストを教えてください。

JK:好きなミュージシャンは多すぎて全部言えませんが、思いつくままに挙げると、ロバート・フリップ、デヴィッド・ボウイ、ソニー・ロリンズ、ストラヴィンスキー、ブライアン・イーノ、マーク・ボラン、リゲティ、ジェラール・グリゼー、ハリー・パーチ、ニーナ・シモン、アート・ベアーズ、ジェントル・ジャイアント・・・。

■ザ・ドーフとウムランド・レコードについて

TG:ドルトムントを拠点とした活動は長いのですか?ドルトムントを含むルール地方の音楽シーンの特徴を教えてください。

JK:私が育った町はドルトムントから30km離れた場所でした。しかしデュッセルドルフへ移ってからはその町に戻ったことはありません。でも今住んでいる場所はドルトムントから60kmの街です。

ドイツのシーンは、例えばイギリスやオランダ、フランスのように中央集権的ではありません。それらの国では、ロンドンやアムステルダム、パリが本当の中心で、それ以外は田舎でしょう。

90年代のドイツはそうではありませんでした。確かに過去20年の間にどんどんベルリンに集中していって、ベルリンが国際的にドイツの文化的首都と言われるようになりました。しかし、90年代はケルンがとても重要な都市でした。ミュンヘンやハンブルグ、フランクフルトにも興味深い人々がいましたが、ケルンこそ何かが起こるシーンだったのです。

ルール地方にはフォルクヴァング芸術大学があり、偉大なミュージシャンが何人かいますが、私の考えでは、それを本当のシーンへと形作ったのは“ザ・ドーフとウムランド”に他なりません。今あなたが目撃しているように。今日に至るまでルール地方は労働者の地域であり、お互いに連結した数多くの都市に跨って広がる工業地帯です。歴史的には、長い時代に亘って労働者としてやってきたポーランドとトルコの人達の影響を強く受けていて、ある意味でメルティング・ポット(文化の坩堝)と言えます。とはいっても、例えばニューヨークや東京のように国際的に知られているから人が集まるのではなく、生計を立てるために人が集まって、地下へ潜って石炭を掘る地域なのです。

ここには何十年にもわたって培われた連帯感が根底にあると言えます。。なぜなら炭坑で仕事をする人たちは、お互いに強い信頼感で結ばれていたからです。その連帯感は現在でも存在しています。それがルール地方とベルリンやケルンのような場所との大きな違いになっています。

TG:2006年にザ・ドーフを結成しますが、大編成のグループのアイデアはどこから来たのですか?

JK:ドーフの前にもいくつかの試みがありました。先に述べた友人のディーン・ブロドリックが、ゼロからバンドを作る方法を教えてくれて、花を咲かせるバンドもあれば、枯れてしまうバンドもあることを目の当たりにしました。90年代初めから定期的に10人くらいのバンドやプロジェクトを作って、様々な音楽的アプローチを試みてきました。

ザ・ドーフも同じように始まったのです。ドルトムントのジャズクラブ、ドミシル Domicilが、月に一日私の好きなことをやらせてくれることになったので、自分の音楽ファミリーになれそうな人たちを招待しました。それが数年かけてどんどん形になっていったのです。

TG:フローリアン・ヴァルターからザ・ドーフのことを大編成のビッグバンドだと聞いたとき、グローブ・ユニティやサン・ラ・アーケストラのようなフリージャズ・ビッグバンドを想像しました。しかしアルバムを聴いたら、現代音楽に近いシリアスで静寂な音楽だったので驚きました。ザ・ドーフの音楽スタイルや姿勢について説明してください。

JK:ザ・ドーフは、即興演奏のバンドであるとか、複雑な音楽制作マシンであるとか、特定の美学やアプローチに取り組むことはありません。常に参加しいる人たちが、あれやこれやと試して、刺激的でコミュニケートできるものにしようとしているのです。だから常に特定のスタイルや基準にこだわることはありません。昔も今も、常にどのアプローチや、どの方法論が最高の音楽と最高の興奮をもたらすかを議論して定義し直しています。

TG:ウムランド・レコードのアイデアはどのように出来たのですか?

JK:何年か活動してきて、もしかしたらオーケストラとしてのザ・ドーフが存在しなくなる日が来るかもしれないと気付きました。それと同時に、それを実現するために貢献した素晴らしい人たちや、素晴らしいプロジェクトを持つ音楽家たちも消えてしまうことは残念なことだと。そこで私たちは、それぞれの個人の長所やアプローチに焦点を当てることが必要だと考えました。そのためにレコード・レーベルのウムランドが生まれたのです。

TG:ウムランドはドルトムント地区やドイツのミュージシャン専門のレーベルですか?

JK:ウムランドはザ・ドーフで演奏したことのあるすべてのミュージシャン、80人以上の人々と、彼らのバンドや繋がりのある人々のものです。
主にルール地方の音楽が中心ですが、もちろん広がりがあって、とてもオープンな構造を持っています。だから定義するのは難しいですが、すべては根底にある音楽的な糸で繋がっています。

TG:ドイツの他の地域やヨーロッパの他の国のミュージシャンや社会と繋がりはありますか?

JK:もちろん、ドイツの他の地域や海外と繋がりのあるミュージシャンはたくさんいます。ご存じの通りフローリアン・ヴァルターは国際的に活動を広げていますし、ドラマーのサイモン・カマッタ Simon Camttaも海外のミュージシャンとコラボレーションをしています。私も定期的にオランダ、ベルギー、アメリカの人たちと共演しています。

■『プロテスト・ポッシブル』について

TG:このアルバムのアイデアはどのように得たのですか?

JK:私は社会における政治的な状況に苦しんでいたと言っていいでしょう。多くのことが明らかにうまくいってないのに、何かを突き止めて、これが原因だ、こうすればすべてがよくなる、と言うことはほとんど不可能でした。

最近はあらゆることが絡み合っていて、私たちは皆、資本主義から利益を得ると同時に苦しんでいて、それは年々不条理になっています。私自身は、フラストレーションや憂鬱や怒りを表現する必要性を感じていました。

資本主義は、自分が嫌いなものから利益を得るように仕向けます。純真無垢でいることは不可能ですが、表現や抗議は可能かもしれません。

TG:アルバムを聴いてダグマー・クラウゼのブレヒト/ワイル&アイスラー作品を思い出しました。『プロテスト・ポッシブル』にインスピレーションを与えた作品なのでしょうか?

JK:ダグマー・クラウゼとは少しだけ共演したことがあり、彼女の作品は長年愛聴してきました。だから彼女の影響はあるとは思いますが、あなたがこの質問をするまで、彼女のことを考えたことはありませんでした(笑)。

TG:あなたのアルバム『1000 – Anthems To Work On A Good End』**(2017)は似た方向性の作品だと思います。社会や政治問題はザ・ドーフやあなた自身の音楽活動にとって重要なテーマですか?

**ヤン・クラーレ(reeds)、バート・マリス Bart maria(tp)、ウィルベルト・デ・ヨーデ(b)、マイケル・バッチャー Michael Vatcher(ds)からなるカルテット「1000」が、カンボジア、アフガニスタン、中国、シリアなどの国歌をアレンジしたアルバム。

JK:おお、そのアルバムをご存じだとは嬉しいですね。
もちろんザ・ドーフ自体が社会的・政治的なものです。私たちは“社会的彫刻”と呼んでいます。私たちはコンスタントに議論をしており、最近とても長文のテキストを完成させたばかりです。それは「音楽の質」をどのように定義するかについての哲学的考察と言えるものですが、残念ながらドイツ語なので読んでいただくのは難しいでしょうね。

確かにザ・ドーフを設立し運営しているのは私ですが、このバンドは私自身ではありません。村、家族、コミュニティ、シーンを作ろうとする試みであり、バンドですらなく、現在進行形のプロセスなのです。ラインナップは固定されておらず、常に流動的で、前述したように多くの人々がバンドに貢献し、今でもバンドに影響を与え続けています。例え10年前にザ・ドーフでの活動を辞めた人でも。

TG:作詞家について教えてください。どのように選んだのでしょうか?

JK:作詞家のうちの二人は分かりやすいです。ひとりは私の兄でジャーナリスト・作家のヨルン・クラーレ Jörn Klare。もうひとり、ヴォルフ・カンプマン Wolf Kampmannはドイツで有名なジャズ評論家です。私の親しい友人であり、レビューや著作を通してとてもユニークな伝達スタイルを持っていて、時々デュオで演奏もしています。

ナターシャ・ガングル Natascha Ganglとリサ・ダニュラット Lisa Danulatは他の人からの推薦です。それまで知らなかったのですが、作品を読んで気に入り「そうだ、この2人の女性はピッタリだ」と思いました。イギリスのジャーナリスト、ローリー・ペニー Laurie Pennyは私が見つけました。彼女の記事『コロナ禍初期の資本主義についての考察』を読んで、「ワオ、これはとても深くて詩的だ」と思ったので、彼女に使用許可を得て、文章の一部を使いました。

TG:このアルバムのコンサートを計画していますか?ドイツ以外の国でのツアーの予定は?

JK:何曲かはすでに何度もライブで演奏しています。アルバムの中の数曲は、他の曲や即興演奏とミックスしてライヴ・レパートリーに加えるつもりです。将来は国外でも演奏したいですが、25人のメンバーでツアーするのはとてもお金も手間もかかって大変なので、資金がたっぷりある大きなフェスティバルから招待されればいいのですが。

■作曲、指揮、コラボレーションについて

TG:作曲プロセスについて教えてください。作曲して譜面にする割合とミュージシャンの即興部分の割合は?もちろん作品コンセプトによって違うと思いますが。

JK:その通りです。その作曲がどういうものかによって大きく異なります。
演奏者に求める姿勢としてサウンドや雰囲気の描写が多い曲もあれば、即興が一切ない曲もあります。

重要なことは、どんな曲であれ、たとえ完全に作曲された曲であっても、演奏者がそれを解釈し、エネルギーを充填する必要があるということ、そして、この音はこう弾くべき、この音はクラシック的に正しく弾くべき、といった制約がないことを、すべての演奏者が認識していることです。

TG:『プロテスト・ポッシブル』はかなり詳細まで作曲され、即興の余地は少ないように思われます。一方『EVIL』(2015)や『LUX』(2017)といったアルバムは作曲よりも即興が多いような気がしました。どう思いますか?

JK:『LUX』という作品自体は完全に作曲されていて即興演奏はありません。このレコードに収録されている他の作品は非常に構築的ですが、上記のように演奏者がエネルギーを充填するためのスペースがたくさんあります。
『EVIL』では、キャスパー・ブロッツマンCaspar Broetzmannのようにとても大きな音を出すゲストを迎えました。ですので、必要なところで、何人かの奏者は楽曲のフレームを演奏しますが、構成を壊してから後でフレームを形作る演奏が多かったです。

『プロテスト・ポッシブル』もかなり構成が決まっていました。コロナ禍の中でのスタジオ制作だったため、バンド全員で録音したのではありません。だからライブ・コンサートで演奏することで作品に息を吹き込む機会がありませんでした。レコードを完成させた後で初めてライブで曲をプレイすることができて、やっと曲が命を持ち始めたのです。

TG:『プロテスト・ポッシブル』では歌詞と音楽が密接に絡み合っています。曲によっては言葉と音符がシンクロして作曲されたように感じました。作詞家にリズムやメロディを意識して詩を書くよう頼んだのでしょうか?もしくは、完成した詩を受け取ってから作曲したのですか?

JK:メロディやリズムについて作詞家に頼んだことはありません。初めから歌として書かれていて歌いやすいテキストもあれば、プロテストを表現するという課題に向けて非常に抽象的な表現のテキストもあります。ですので、ある言葉には固有の構造とリズムがあり、別の言葉には内容の繊細さ活かすため数多くの構成が必要でした。

TG:ザ・ドーフで作曲と指揮をするうえであなたの役割をどう考えていますか?

JK:指揮者としては、私はバンドにとって最初に会う人間であり、最初のリスナーです。私は耳を傾け、音が行き詰まったときに整理する手助けをしようとします。
作曲家としては、さまざまな感情やエネルギー、表現のフィールドのためのジャンプ台を提供します。

TG:アルバム・クレジットにはconductor(指揮者)やdirector(監督)ではなく、air movement(空気の動き)と書かれています。確かにステージでジャンプしている写真がありますね。このクレジットの意図を教えてください。

JK:まあ、本当の指揮はとても難しくて、私は習ったこともありません。
私は自分の気持ちを身体で表現します。ムーブメントという言葉がピッタリという訳ではないのですが、基本的に私がしているのはこういうことです―自分の身体で空気を動かし、聴こえるものを表現すること。

TG:ちなみに日本のフリージャズ・オーケストラの渋さ知らズの指揮者の不破大輔さんのクレジットは「ダンドリスト」、つまり集団活動の段取りをするリーダー兼総務係のような意味になっています。

JK:渋さ知らズは知っています。とても素晴らしいバンドです。
彼の言っていることは、先に述べた指揮者としての私の役割、つまり他の人たちのために庶務を整えること、に通じていますね。

TG:2020年のメールス・フェスティバルでは、胸像をペイントするアーティストとコラボレーションしていましたね。このように音楽以外のアートとコラボすることは多いのですか?

JK:もっとたくさんのアーティストとパフォーマンスで共演したいのですが・・・。過去にも、主に照明アーティストと一緒にやったことがありますが、予算と機会の問題が付いて回ります。

メールスではベートーヴェンの交響曲5番を演奏したので、サボタージュ(破壊工作)アーティストのルッペ・コゼレックRuppe Koselleckをゲストに迎えました。彼はベートーヴェンの胸像とライオンの胸像にスプレーを吹き付けて、その上に粗油を塗るパフォーマンスをしました。もう何年も続いている彼の作品のひとつは、BP(ブリティッシュ・ペトロリアム:国際石油資本の大企業)を買収することなのです。

TG:メールスでのパフォーマンスを見て、ザ・ドーフは実際の世界を音楽で風刺しているように感じました。パフォーマンスがユーモラスなのかシリアスなのか判断に迷いました。ユーモア(またはジョーク)は演奏に於いて重要ですか?

JK:もちろん、ユーモアは重要ですが、冗談や風刺とは呼びたくありません。
ベートーヴェンの胸像は、観る人に「これは何を意味しているのだろう?」と考えさせます。なぜ彼はベートーヴェンとBP(ブリティッシュ・ペトロリアム)をぶつけ合うのか?。この作品は、社会と文化的価値観-私たちはそれを持っているように見せかけながら、同時に自然を破壊している訳ですが-というもの対する深い批評だと思います。

基本的に、私たちは一緒に演奏している時間はコミュニケーションのユートピアを、望むならより良い世界を、2時間だけ作ろうとしているのです。

■日本について

TG:日本のミュージシャンと繋がりはありますか?

JK:残念ながらありません・・・。箏奏者の八木美知依さんとは短いジャム・セッションをしたことがあります。素晴らしかったのでまた彼女に会いたいと思っています。ずっと昔にドクトル梅津バンドを観たことがあります。とても気に入りました。80年代でしたが、バンド・メンバーの1人がステージで演奏中に自分のカメラで写真を撮ったのを覚えています。今でこそ当たり前のように行われていることですが、当時はとても斬新で、まるで社会学的な批評のように思えました。

TG:日本の音楽や社会についてどう思いますか?

JK:もちろん、日本は文化や音楽、ファッションに関しては、世界で最も興味深い場所のひとつです。日本のアーティストが様々な影響を融合するスピード感や即効性は、アメリカ的なアプローチとは全く違うと思いますが、同じくらい興味を持っています。今まで一度も日本に行ったことがありませんが、チャンスがあったらぜひ行ってみたいです。

TG:いつか来日公演が実現することを楽しみにしています。どうもありがとうございました。

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CD Review #2163 『The Dorf / Protest Possible』『ザ・ドーフ / プロテスト・ポッシブル』https://jazztokyo.org/reviews/cd-dvd-review/post-74629/

剛田武

剛田 武 Takeshi Goda 1962年千葉県船橋市生まれ。東京大学文学部卒。サラリーマンの傍ら「地下ブロガー」として活動する。著書『地下音楽への招待』(ロフトブックス)。ブログ「A Challenge To Fate」、DJイベント「盤魔殿」主宰、即興アンビエントユニット「MOGRE MOGRU」&フリージャズバンド「Cannonball Explosion Ensemble」メンバー。

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