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No. 215R.I.P. ポール・ブレイ

Kenny Inaoka / 稲岡邦弥

ポール・ブレイの思い出

仕事柄、海外のミュージシャンとの付き合いは多い方だが、なかでもポール・ブレイとの付き合いは僕のキャリアと心に大きな痕跡を残している。そんなポールが逝ってしまった。ポールとは因縁浅からぬ僕の兄貴分、菊地雅章に続く旅立ちで喪失感に打ちのめされた。しかし、Jazz Tokyoの編集を預かる身、気力を奮いたたせ追悼特集を組み、餞(はなむけ)とする。
ECMと独占契約した1973年、期待していた『リターン・トゥ・フォーエヴァー』を逃し悔やむ僕に、「傑作誕生!」とマンフレート・アイヒャーが送り込んできたのが、ポール・ブレイの『オープン、トゥ・ラヴ』だった。一聴、身体が震えた。アイヒャーはすでにチック・コリアの『ソロ・インプロヴィゼーション』、キース・ジャレットの『フェイシング・ユー』というソロ・ピアノの傑作をものしていた。しかし、ポールの『オープン、トゥ・ラヴ』は、創造性、求心力、際立った個性などでそれらをはるかに凌駕していた。僕はアイヒャーと心中する覚悟を決めた。
レコード会社に身を置いていた70年代、80年代、プロモーターと組んだ来日ツアーはプロモーションの大きな武器だった。鯉沼利成さんと組んだキース・ジャレット、石塚貴夫さんと組んだアニタ・オデイ、亀川衛さんとのエグベルト・ジスモンチ、リッチー・バイラーク、パット・メセニー...そして、故西蔭嘉樹さんとの最初の仕事がポール・ブレイだった。西蔭さんはバップ系が専門だったから、ポールは僕がリクエストした。しかも、ゲイリー・ピーコック込みのトリオ編成を条件に。当時、ゲイリーはシーンから身を引き、シアトルの大学で生物学の研究に打ち込んでいた。しかも、ポールはゲイリーにとってアネット・ピーコックを巡る恋敵だ(ポールへの追悼コメントを依頼したゲイリーからはついぞ返事が届かなかった)。そんな内幕を知らない西蔭さんがどんな交渉をしたのか、ポールとゲイリー、バリー・アルトシュルでのトリオでの来日が実現した!正直、驚いたがこれを契機にゲイリーの復帰が実現し、ヤマハ合歓の郷での演奏がライヴ盤として残った。1976年のことである。蘇ったゲイリーは翌1977年、キース・ジャレットとジャック・ディジョネットを誘い、ECMに『Tales of Another』を録音することになる。
1985年、ニューイングランド音楽院を卒業したピアニストの藤井郷子さんがパートナーのトランペッター田村夏樹さんを伴ってオフィスに現れた。日本人として初めて恩師のポール・ブレイとの共演を収めた録音に驚き、発売元としてクラウンの岩崎さんを紹介した。ふたりとの付き合いはこのときに始まる。
ECMが他社に単発ライセンスしていたポール・ブレイの初期の名盤『ウィズ・ゲイリー・ピーコック』(1964/1968) や『バラッズ』(1967) が期間満了でECMに戻り、日本でもECMレーベルでリリースできるようになった。ECMでの新録も始まった。別途契約していた英フリーダム・レーベルを通じてFontanaの名盤『Touching』(1965) と『Blood』(1966) を『イン・ハーレム』として、また、アネットとのシンセサイザー・ショウを『デュアル・ユニティ』(1970)としてリリースするなどポールのカタログが徐々に充実してきた。
1993年、在籍していた広告代理店の業績が好調で新レーベルを立ち上げることになった。“ミュージシャンの心からリスナーの心へ音楽をダイレクトに届けたい”との願いを込めてレーベル名をTransheart(トランスハート)と名付けた。
国内で富樫雅彦のソロ・アルバム『パッシング・イン・ザ・サイレンス』、NYでリッチー・バイラークのトリオ『トラスト』、ポール・ブレイのトリオ『禅パレスの思い出』とソロ『ハンズ・オン』を録音した。富樫さんのソロは富士山麓のスタジオに篭り初めてのオーバーダビングを交え3日間かけて制作した。富樫さんが思いの丈を込めて制作したアルバムで、表紙は自身の油絵である。リッチーのトリオは1973年スタン・ゲッツのリズム隊として来日したデイヴ・ホランド、ジャック・ディジョネットとのトリオで、20年ぶりに宿願を果たした。ポールのレコーディングにはスタジオにベーゼンドルファー・インペリアルを持ち込み万全を期した。トリオはECMとのバッティングを避け、スティーヴ・スワロウとポール・モチアンを起用したが、このトリオでの録音は他にはない。スティーヴにはウッドベースを弾いて欲しかったがこればかりは望むべくもなかった。トリオの録音が快調で1日で終わり、2日目に急遽ソロを録音した。ほとんど思い残すことはなかった。
1999年、思いがけず藤井郷子からポール・ブレイ招聘の話が持ち込まれた。恩師への恩返しの想いもあったと思う。ポール3度目の来日にして初の単独来日となった(初来日は、1963年のソニー・ロリンズ・クインテット)。新宿ピットインでは藤井さんの通訳でクリニックが催された。このとき真っ先に手を上げてポールの前でピアノを試奏したのが留学から帰国間もない守屋純子だった。藤井さんとのデュオ以外にいくつかのソロ・コンサートを組んだ。旅の途中ポールは開催地の様子を詳細に尋ねてきた。小沢征爾との関係を知った松本のハーモニーホールでの演奏は白眉だった。最初の一音から最後の一音まで、そっくりそのままアルバム化できる内容だった。パートナーのキャロルと密かにアルバム化を企んでいるうちにポールが逝ってしまった。松本では出発当日ポールを松本城に案内し、狭い階段を伝って城郭を登った。城郭の小さな窓を背景に逆光で撮った写真をたいそう気に入ってくれたのだが所在不明である。
富山では能楽堂にピアノを持ち込むのに主催者が大変な苦労をした。ポールは靴を脱いで舞台に上がり、椅子に座ってから靴を履き直した。狭山では主催の安藤先生が手配した和食割烹で食が進み過ぎ、本番では演奏用の血液が不足した。美食家のポールに演奏前のディナーは禁物である。超満員の新宿ピットイン。直前までポールと話し込んでいたディディエ・ボワイエさんと僕はステージ横の通路に座り込んだ。一気に弾き終え「カフェに行こう」と誘うポールを押し戻し、「ポール、アンコールだ。<アイダ・ルピーノ>!」と叫んだ。PAエンジニアの下に走り、「リバーヴを目一杯かけて!」と指示した。ピットインにあのECMの仮想空間が現出した。
富樫雅彦とのレコーディングでは、本番直前、突然全編インプロに変更された。共同プロデューサーの上原基章さんと一瞬青くなったが、富樫さんはひと言も発することなく敢然と受けて立った。結果的に真のインプロヴァイザー同士のやりとりとなり、傑作が誕生した。後のインタヴューで、ポールは富樫さんのユニークな個性に触れ、天才と評している。辛口なポールだけに言葉通り受け取って良いだろう。富樫さんとのデュオは半日で終わり、ソニーの好意で残りの時間でソロを録らせてもらった。ベーゼンドルファー・インペリアルによるもう1枚のポールのソロ音源はキャロルの手元にある。
菊地雅章の追悼コメントをもらったポールが半年後に逝ってしまうとはいまだに信じることができない。(本誌編集長)

Paul&K
松本市ハーモニーホールにて
KbyPaul
松本城 シャッターを切ってくれたのはポール

 

『Open, to love』(ECM)『禅パレスの思い出』(Transheart)

 

ARCHIVE

ポール・ブレイ・ソロ・ピアノ・ツアー 1999

May 28 Fri Arrv. 新宿プリンスホテル
May 29 Sat Concert #1 w/藤井郷子 富山市 能楽堂
May 30 Sun Concert #2 w/藤井郷子 熊谷市 熊谷文化創造館
さくらメイト
太陽のホール
May 31 Mon Off 新宿プリンスホテル
June 01 Tue Clinic 新宿 ピットイン
Concert #3 Solo ピットイン
June 02 Wed Concert #4 Solo 赤坂 サントリーホール
June 03 Thu Concert #5 w/藤井郷子 狭山市
June 04 Fri Concert #6 Solo 松本市 ハーモニーホール
June 05 Sat Concert #7 w/藤井郷子 つくば 新宿プリンスホテル
June 06 Sun Concert #8 Solo 高知市 中央公民館
June 07 Mon Off 新宿プリンスホテル
June 08 Tue Recording w/冨樫雅彦 横浜 みなとみらいホール
June 09 Wed Leav.

 

稲岡邦彌

稲岡邦彌 Kenny Inaoka 兵庫県伊丹市生まれ。1967年早大政経卒。2004年創刊以来Jazz Tokyo編集長。音楽プロデューサーとして「Nadja 21」レーベル主宰。著書に『新版 ECMの真実』(カンパニー社)、編著に『増補改訂版 ECM catalog』(東京キララ社)『及川公生のサウンド・レシピ』(ユニコム)、共著に『ジャズCDの名盤』(文春新書)。2021年度「日本ジャズ音楽協会」会長賞受賞。

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