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Jazz and Far Beyond

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No. 241R.I.P. セシル・テイラー

1992・夏・白州 

text by Moto Uehara 上原基章

 

セシルの訃報を知った時、彼の音に初めて接したのは一体何時のことだっただろうと考えた。

小学校高学年の頃に僕はラジオ小僧だった。1970年代前半、自室で付けっ放しにしていたTBSラジオの月-金帯でオンエアされていた『巨泉のシャバドビア』で、サッチモやビリー・ホリデイ、テディ・ウィルソン、デューク・エリントン等の名前を自然と覚えていった。番組冒頭で毎回ピアノ(ソロだったかトリオだったか)をバックに巨泉氏が「ウィー、シャバドゥヴァー」と即興スキャットをしていたの面白がって真似していた。

それが中学から高校に上がるくらいの時期にいきなり山下洋輔トリオに目覚め、嗜好がトラディショナル・ジャズからフリー・ジャズに宗旨替えをする。セシル・テイラーの名前は、その頃に山下さんが尊敬するフリージャズの先駆者の一人として認識したのだろう。最初に聴いたアルバムは、ブルーノートの『ユニット・ストラクチャー』か『コンキスタドール』か。山下トリオの疾走感とは一寸違う不思議なグルーヴに戸惑いながらも、その魅惑的なサウンドはじわじわと脳細胞に染み込んで行った。程なくして山下トリオの『キアズマ』や『モントルー・アフターグロウ』と同様に、セシルが1973年の来日時にレコーディングした『アキサキラ』や『ソロ』が愛聴盤となる。マイルスは、まだ沈黙の中にあった。

実際にセシルのステージを初めて体験したのは、そこから20年近く後になる。1992年8月上旬、セシルの盟友である舞踏家の田中泯が主宰する「白州 夏のアート・フェスティバル」でのことだった。ここでセシルとパーカッションの富樫雅彦の共演があることを聞き付け、出張で参加していた「斑尾ジャズフェスティバル」を雑誌「ジャズライフ」の編集だったO氏とともに途中でぶっち切り、長野県の斑尾高原から数時間かけて山梨県の白州村へと向った。

周りを田圃や畑に囲まれた巨麻(こま)神社境内の特設ステージには、やはり名器ベーゼンドルファーが運びこまれていた。やわらかな日が射し、穏やかな風がそよぎ、鳥が囀り、蝶が舞う空間にユラリと現れたセシルと共演者。一瞬の静寂の後に、セシルの指が優雅に鍵盤の上を舞いはじめた。ステージははセシル、富樫ともう一人、能管の一噌幸弘。セシルの鋭い旋律に相対して、いつも以上に鎮静感をたたえながら揺らぎを紡いでいく富樫のパーカッション。そこに果敢に切り込んでいく一噌の能管。三人の精神が一瞬交わり、解き放され、また絡み合っていく。セシルはやがてピアノから立ちあがり、ポエトリー・リーディングやダンスをし始める。その壮大で、自由で、緊迫した数十分の音宇宙は、まさしく神社の奉納神事そのものだった。

この白州公演のあと、セシルは新宿のピットインでソロ・ピアノを、また中野の小劇場plan-Bで田中泯との共演を行い、圧倒的なパフォーマンスを見せ付けていた。そして8月某日、半蔵門TOKYO FMの大きなスタジオ(ホールではなかった)で、何と白州で初共演した三人によるレコーディングが行われている。当日SME JAZZのディレクターだった僕は、その現場に立ち会わせてもらった。記憶では、コール&レスポンス的タイミングでセシルがコンダクトをとる瞬間が何度もあった。それは残念ながらファースト・コンタクト時の濃密な緊張感からはどこか熱が逃げた印象を抱かざるを得なかった。後に参考のテープが送られて来たが、「富樫さんとのデュオならぜひリリースしたいのですが、この演奏は難しいです」と返答した。正直な話、富樫ファンとして納得出来なかったのだ。

以後もファンとして、セシルのステージに何回も脚を運んだ。2000年の12月、ニューヨークのニッティング・ファクトリーで開かれた2デイズのソロ公演では、青い照明に浮かび上がったベーゼンの鍵盤の上にまるで鮮血が飛び散ったように真っ赤な薔薇の花弁が散らされているのを見て「流石はセシル様の美学!」と唸った。2007年2月に初台オペラシティで実現した山下洋輔との一期一会のデュオ公演では、終演後のレセプションで嬉々としながら公式ポスターに二人のサインを入れてもらった(多分世界で1枚だけかと)。2014年4月に予定されていたブルーノート東京の公演は2日間4セット全てに予約を入れていたのに、直前で来日自体がキャンセルとなってしまい、ガックリと肩を落とした。そして、それがマエストロのステージに接する最後のチャンスとなった。

これまでに何人もの偉大なジャズ・ピアニストを体感して来たが、セシル・テイラー以上にエレガントなパフォーマンスをする人はいなかった。そのイメージの原点は、間違いなくあの1992年の夏の白州にある。マエストロは今も僕の脳内で、過激に鍵盤上で指を舞わせ、たおやかに詩を朗読し、優雅に踊り続けている。あの、やわらかな風と光の中で。(元SMEジャズ・ディレクター)

上原 基章

上原基章 Motoaki Uehara 早稲田大学卒業。元ソニージャズ ・ディレクター/ステージ写真家。

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