マッコイ・タイナーを偲ぶ
text & photos: Tak Tokiwa 常盤武彦
マッコイ・タイナー(p)が逝ってしまった。近年は、あまりコンディションの良くない姿が見られたが、ジョン・コルトレーン(ts,ss)の黄金クァルテットの最後の一人が去ってしまった。マッコイを初めてじっくりと撮影したのは、1989年のニューヨークのスウィート・ベイジルだった。キング・レコードのライヴ・アルバム収録で、エイヴリー・シャープ(b)、アーロン・スコット(ds)とのトリオでの演奏だ。“クレッセント”、“ナイーマ”といったコルトレーン・チューンと、スタンダード、オリジナルを交えたセット・リストで、サウスポーの左手の繰り出す力強いバッキングと、豪快にスウィングする右手の美しいメロディと高速フレーズに圧倒される。エルヴィン・ジョーンズ(ds)を1980年代中頃に初めて聴いたときにも、この人が若く全盛期だったコルトレーン・クァルテットは如何に凄いグループだったかを思わされたが、マッコイのプレイにも同様の印象を持つ。スウィート・ベイジルは照明が少なく、暗がりにアフリカ系のアーティストが居ると、当時のフィルムでは増感してもほとんど影しか映らないので、数枚ストロボを使って撮影した。ドラムスのスコットから曲間に「マッコイがやめろと言っている」と言われて、即、撮影を停止した記憶がある。自宅でその時の写真を選別していると、和食レストランでウェイターのバイトをしていた当時のルーム・メイトが、「あれ、この人うちの店によく来てくれるよ。日本の米の銘柄に妙に詳しくって、なんでそんなこと知ってるんだろうと思った。息子さんを連れて来てくれたこともある」と話してくれた。何度も来日しているような著名なピアニストだと話すと、納得していた。スティーヴ・キューン(p)が、かつて語っている。「コルトレーン・バンドのオーディションに受かって意気込んでいたときに、マッコイが現れた。トレーンに“すまない、どうしてもマッコイと演りたいんだ”と言われて、泣く泣くピアニストの座を譲ったよ」。マッコイ・タイナーが22歳のときであり、まさに早熟の天才の面目躍如である。ビバップ以降のジャズ・ピアニストは、リリシズムのビル・エヴァンス(p)と、メカニカルなマッコイ・タイナー(p)の系譜に、大別できると言っても過言ではないだろう。ハービー・ハンコック(p,kb)、チック・コリア(p,kb)のように双方のスタイルをミックスして、独自のスタイルを構築したアーティストたちが、マッコイに続いた。
2000年代に入ってしばらくして、マッコイ・タイナーが心臓疾患で倒れたと言うニュースを聞いた。復帰後のステージの撮影に行くと、やせ細ってしまったマッコイがいた。演奏も、やや萎んでしまった感は否めなかった。トリオでの演奏機会は少なくなり、フロントにサックス・プレイヤーを起用する編成が多くなる。晩年はジャズ・クラブ、ブルーノート・ニューヨークが運営するレーベル“Half Note”を拠点に、ジョー・ロヴァーノ(ts)、クリスチャン・マクブライド(b)、ジェフ・“テイン”・ワッツ(ds)を擁したクァルテットのライヴ・アルバム、ソロ・ピアノ、ロン・カーター(b)、ジャック・ディジョネット(ds)のリズムに、マーク・リーボゥ、ジョン・スコフィールド、ビル・フリゼールら現代を代表するギタリストから、ヴァンジョー・プレイヤーのベラ・フレックをゲストに招いた “Guitars” をリリースして、気を吐いた。2010年のセントラル・パーク・サマーステージでは、盟友コルトレーンの忘れ形見のラヴィ・コルトレーン(ts)、当時最注目の若手だったエスペランサ・スポルディングを起用したクァルテットでのプレイは印象深かった。最後に撮影したのは、2013年のデトロイト・ジャズ・フェスティヴァル。タップ・ダンサーのサヴィオン・グローヴァーとの競演は、まさにリズムの洪水。ピアノは、メロディとハーモニーを奏でられるパーカッションという、まさにマッコイの真骨頂を示すパフォーマンスだった。謹んでRest in Peaceと、ご冥福をお祈りしたい。
常盤武彦、McCoy Tyner、マッコイ・タイナー